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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

受検成功の術は、算数に通暁することなり

2020.07.16

 

◎竹の会の35年

 竹の会は昭和60年(1985)10月に渋谷の片隅のちっぽけなマンションの一室からスタートしました。今年(2020)の10月には36年目に突入します。

 例年5月6日は、渋谷教室開設(2012年)の記念日として、ささやかなお祝いとして紅白饅頭をみなさんに配ってまいりましたが、今年は新型コロナのために、塾もお休みとなってしまい、諦めていました。それでも会員のお母さまからお花が届いたときには感動しました。紅白饅頭はいつも下町の知り合いの老舗のお店に作っていただいていましたが、そのお店は立教などの学校にも納めているようなお店なのですが、「今年はどうしますか」と言われて、「必ずお願いしますのでもう少し待ってください」とお願いしたのですが、早7月になってしまいました。

 紅白饅頭と竹の会カレンダーは竹の会の定番でした。ちょうどわたしが7月17日が誕生日で、7月になりましたが、なんとか約束をはたせそうです。今年は竹の会ができて35年目で、感慨深いものがあります。来年のカレンダーももう今から注文になります。ちなみに、わたしの九州大学受験のときの番号が2017でした。なんという偶然なのでしょう。

 

◎口先ではない、肌身で感じる本物の実感

 こういうものを大切にしていきたい。
 ほんとうに凄い奴は、語らないものだ。
 ほんとうに凄い奴は、決して自分のことを「凄い」とは思っていないものだ。真に凄い奴は、己の分というものを知るものである。上には上があるということを知っているから決して奢ることはない。それどころか謙虚な心を精神の軸とする姿勢を崩さない。そのことは他人を責める、他人のせいにすることを決してしない、という姿勢に表れるし、己の未熟を悟るから精進を怠ることはない。
 
 弱い人間ほどよく喋る、弱い人間ほどよく吠える、弱い人間ほど他人を怨む、弱い人間ほど他人の悪口を言う、弱い人間ほど心が歪みやすい、弱い人間ほどよく僻む。物事を偏見なしには見れない。失敗は他人のせいにする。だからよく他人を恨む。
 他人のせいにする人間は決して進歩しない。どころか退化する。こういう人間は成功とは無縁である。
 謙虚は、進歩のエネルギーである。自己の非を悟り、自己の足りないところを見つめ直す、そういうことが、進歩を促すのだと思う。
 落ちた人間ほど「できたのに」とか、自信を仄めかす。どこからか慢心、奢りが垣間見える。合格者はいつも謙虚であった。試験が終わっても「できなかった」と言う子が多かった。おそらく実力があるから様々なところに気が回りあれこれと不安になるに違いない。落ちる子は浅い理解しかないために、つまり細かいところには気が回らないから何もかもがお花畑に見えてしまう。だから平気で「できた」「受かっていると思う」などと言う。

 まだ理解しきれてない、よくわからない、不十分だ、という自省的な姿勢が、さらなる勉強心を掻き立てて自分の疑問を解消させたいという強い意思に支配されて勉強に没頭することになる。勉強とはもともとそういう入り方をするものである。自己の内の抑えがたい知的欲求を満たすために入り込むのである。さぁー、勉強しよう、という入り方ではない。自分の中に秘めたる飽くなき「わかりたい」という欲求の抑えがたい衝動である。これこそが勉強するということの正体である。
 お母さんに言われてやる勉強ではだめなのだ。他者に強制されてやるうちは勉強は苦行になる。大切なのは、自分の内なる思いである。
 勉強の原動力は、わからないことに対する「わかりたい」という素朴な衝動にほかならない。
 わからないことがわかるようになる、これほど楽しい、面白いことはない。

 
 
◎受検成功の術は、算数に通暁することなり
 算数の力を見れば、既にして受検の成否は見えている。実はこれが真理である。高校入試にしても、実は、算数の時代からわかる。将来の高校がある程度予測できる。ただ高校入試については、学習不振者、怠け者、部活人間の多い公立中の実態から、能力的には普通でも努力を惜しまない者には、道が残されているのが、また真理である。
 算数というのは、地頭の程度をたちどころに反映してしまう。算数というのは、地頭のある子には勝てない。これは持って生まれた天分、つまりDNA的なもののことである。努力でどこまでカバーできるか。これは地頭の下限から上限までのどの位置にあるか、でまた違ってくる。下限にあれば、努力では報われることはないであろう。
 竹の会の算数は、入会試験によって、ある程度の地頭のある子に限って指導可能とするものである。理想は入会試験において、いわゆるA合格を取っていることが、望ましい。50%の得点をかつては準合格とした。今は準合格はないが、仮合格というのがあった。30%〜40%の得点を仮合格として、6か月を目安に指導してみようというものである。かつての準合格や仮合格からも合格者が出ている。ただ仮合格は飽くまで仮の指導であり、進捗が捗々しくなければ、指導は打ち切ることは、予め了解していただいている。仮入会時にはそういう了解はいただいている。
  無事入会試験には合格したとしても、その後の指導が順調に運ぶかは必ずしも分明ではない。経験値では、A合格の99%は順調にいくと思われる。ただし、合格までいくかは、別である。精神の弱さ、習い事、稽古事をやめられないとか、家族、学校行事に熱心とか、様々な理由で勉強を蔑ろにする家族、子が多いからである。
 A合格なのに指導不能という事態などあるのだろうか。これは正直解読不能の事態である。
 入会試験に普通に合格できなかった場合、指導は困難なことが多い。進捗も悪く、それでもとにかく小学生が備えておかなければならない基本だけはなんとかなるであろうが、おそらくそれ以上のことはない、と思う。
 経験値では、A合格したが、無理というケースも多々あった。また才能に恵まれていたとしても個人の資質による制約による失敗というのもこれも多々あった。話しはそう単純ではない。 
 指導による進捗が、見られないという事態
 竹の会から退塾を切り出すのはマイナスしかない。正直に言うと100%恨まれるからである。わたしは、このまま指導を続けても進捗が見られない、ということを正直にうちあける。それで退塾を一つの選択肢として判断してほしい、とお願いする。しかし、ほとんどの場合、反発が大きい。感情的になる。それは、その裏返しとして、竹の会の指導が、竹の会という塾が、かけがえのない塾なのだということを内心確信している裏返しなのかもしれない。信頼しているのに退塾を切り出されたということなのかと思う。

 わたしは誤解していたかもしれない。成績が上がらないのに塾に通う、しかもお金をかけて通うということは、常識的に、ありえないだろうと考えていた。しかし、竹の会のほとんどの親御さんはそうは考えていないようだ。
 もちろん、明確な退会事由にあたらない限り、わたしから退塾を告知することはない。過去の告知例としては、中学生の度を超えた居眠り、暴力的な態度、器物破損、近隣への迷惑行為など、これは認められない、というものばかりである。渋谷教室になって、指導困難という事由で退塾をお願いすることがよくあった。退塾事由ではない。そういう事態を親御さんが認識して判断してほしいという主旨である。しかし、親御さんの多くが、わたしのこの申し出にヒステリックに反応した。
 わたしが思っているのとは、遥かに、竹の会に期待していることがわかった。進捗がないのに、カネを取る、わたしには、かなりスッキリしないことだが、親御さんは、それでも、お願いしたい、ということなのか。
 これは、世の中の塾がいけない。まともな塾が少ない、ということである。考えて見れば、東京には、塾が溢れているが、本物の塾はレアなのだ。
 竹の会に来て竹の会の指導を受けて、たちまち竹の会の熱烈な支持者になるほど、世の中には、本物の塾が見当たらない。塾をこんなものと考えていた親の塾を見る目が竹の会を知ることによって、変わる、こんな塾があったのかと、変わる。わたしにはわかる。竹の会という塾を知るのは、実際に入会して指導を受けたときしかない。言葉ではわからない。竹の会のホームページを読んでも実際のところは何もわからないに違いない。竹の会の指導の意味がわかるときとは、竹の会の指導を受けたときしかないのだ。竹の会とはそういう塾であり、いったん指導を受けるとたちまち竹の会の虜になる。これはいつものことだ。大手塾や有名塾に通っていたという子がなにかの縁で竹の会に入ったとき、いつもこれまでの期間のなんとむだなことだったかを痛感する姿を見てきた。竹の会のことをわかってもらう、真に理解することの難しさをいつも思う。その竹の会ももう35年になる。竹の会に出会わないことのほうが多いなかで、偶然にも、何かの縁で竹の会に邂逅したみなさんをわたしは心より真心をこめて指導しております。

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