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故郷へいつの日帰る

2017.07.08

 子どもたちを見ているとみな真剣ですね。勉強に必死に取り組んでいる、そんなようすがわたしにはよくわかります。わからないと泣く子に痛む心、わたしの原点はそんなところにあったのかな、と思います。まじめに真剣に勉強に取り組んでいる姿を見ているとなんとかしてあげなければとほんとうに心底、心を痛めています。勉強にまじめに取り組んでいる姿を見ていると、ジュースでも飲んで少し休んではどうですか、やきそば作ってあげたいな、そんな気持ちにかられます。

 おばぁちゃん子だったのかもしれません。小学生の頃は祖母といつも同じ布団でした。幼い弟はたいてい父と母のところで寝てました。弟はよく父に可愛がられたのだと思います。姉が殴られたのは一度だけでした。高校出てはたらき始めた姉が一度夜遅く帰ってきたことがありました。心配していた父がなぜ遅くなったのかと言えば姉の反抗的言葉に父は姉にビンタしたのです。初めてでした。姉が父に殴られて泣くのを初めて見ました。弟は父に従順で反抗したのを見たことはありません。弟が殴られたのを見たことがない。わたしはどうか。いつも殴られていました。殴る蹴るたいていの暴力は受けてきました。高校になってからの反抗はひどく母はいつも間に入って泣いてわたしを宥めてくれました。県内の御三家と言われた進学校に合格していつか旧帝大へ入りたいと夢だけは持ち続けてまいりました。父が嫌いでいつか必ず家を出ることを心に誓ってもいました。

 なぜか京都大に憧れました。夢だけは大きいのですが、それに見合う努力もしなかったので、実力もなかった。進学校1学年605人でしたか。上位150人が国立クラスでした。わたしは国立クラスの落ちこぼれでした。それでも旧帝大には必ず行くと心に誓っておりました。高校2年の時に、自動二輪免許をとりました。高校卒業の時に大型トラックの免許を取りました。一浪して京大法を受けました。実力もないのに。父親と喧嘩して東京に出ました。読売新聞で見つけた求人広告で大型貨物の運転手になりました。19才でした。5か月もしたら、こんなことしてどうするのか、旧帝大に行くのではなかったのか、会社を辞めて故郷に帰りました。親父に頭を下げて勉強する赦しをもらいました。もう一度やりなおすのだ、中学時代の秀才がなにをしているのだ、わたしは初めて心から勉強したいと思いました。父が転勤となり母は父と任地に行きました。祖母とNTTに就職した弟の3人で暮らしたのがわたしに心の平穏をもたらしてくれました。朝9時から12時まで勉強して、祖母の作ってくれた焼きそばなんかを食べて、1時から6時ごろまでまた勉強しました。夜7時頃は弟と近所の銭湯に通いました。冬の夜は冷たかったけど東の空に輝く月がいつもわたしの未来を勇気づけてくれました。東の空、それは東京の空でした。いつか妻となる人が東のはるかかなたにいるような気がしました。

 わたしの故郷別府、どんな路地だってみんな知っている。子どもの頃から遊んだ朝見神社、初詣も朝見神社、どんこ釣りで戯れた朝見川、蕨狩りに行った志高湖、遠足で行った実相寺、内山渓谷、遊園地だったらラクテンチも城島高原、みんなわたしの思い出の中に生きている。乙原の滝だって、六枚屏風だって、みんなわたしには少年時代遊んだ野であり山であった。父に叱られて殴られていつも泣きながら逃げ込んだ故郷の山々。志高湖までとぼとぼと歩いて行った帰りはいつも国道を歩いて帰った。途中の岩穴でよく寝た。母はいつもわたしのことを心配していた。九州大学に合格したとき、母と祖母が泣いた、わたしも泣いた、母さん、ばぁちゃん、少しだけ親孝行できたでしょうか。大学を出て東京に出てきた。かつて運転手として出てきた東京だった。それが故郷との永久の別れになるとは、わたしは東京の人間になった。祖母が他界したときは、悲しかったけど、母がこの世からいなくなったときのショックはあまりにも大きく立ち直ることができそうになかった。姉が父と絶縁し、わたしの心も父から、故郷から離れていった。かあさんが死ぬ前に、父のことが心配だ、と言ったこはよく覚えています。

 故郷へいつの日帰る。初恋の夢の故郷、泣いて苦しんだ高校時代、思い出の故郷にいつの日帰る。今はただそのことを思う。

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