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教えられて「わかった」という子の何がダメなのか

2015.12.05

 人の考えた思考の跡をなぞることには確かに意味がある。数学なんてみな古い時代の偉人たちが考えた思考の跡なんだから。教科書をなぞるのは、「しくみ」をなぞり理解するということにほかならない。

 教科書は読んで理解する。教師に教えられて理解する、というのは、小学高学年、中学、高校と進むにしたがって、読んで理解するにとって変わる、いや変わられなければならない。基本は読んで考えてまた読んで考える、それが教科書を理解するということである。

 さて、きちんとしくみを理解したなら、問題練習は欠かせない。

 問題が、簡単には解けないときどうするか。 余談だが、大手は簡単に解ける問題ばかりをやらせて、「解けない」ということからくる親のヒステリーを回避するように、システム化している。

 どれくらい考えたのか。問題文を読んだだけで「わかりません」と言う子にすぐ教えるバカ講師、バカ家庭教師が、バカを固定化していく。親は「娘と相性がいい」とか、「気が合う」とか、「わかりやすくて説明がうまい」などとべた褒めで、1年、2年とバカシステムにどっぷりと浸かる。見事なバカ親子の完成である。

 「わからない」というのでろくに考えもせず、解説を読む、それで「わかりました」と言う子について、何がダメなのか。

 教えられて、「わかった」という子の何がダメなのか。

 まず、問題を解くときどうするか。問題文を読んで、事実をつかむ、理解する、事実と事実のつながりから事実の意味を読み取ろうとする。いろいろと仮定しながら、事実の意味するところを探る。このとき、算数なら、算数言語、数学なら記号言語を操ることも必要、国語の辞書的意味ももちろん基本である、とにかく総動員して考える。再三再四読み返す、そして考える、考えては読み返し、読み返しては考える、こういうことを1時間も2時間も、続ける。数学者のピター・フランクルは、長持ちの中に隠れて1日でも考えた、と述べている。事実を何度も読み直す、百回でも読み直す、そして行間を「読む」、つまり、前提を推理し、隠れた内容を推測してみる、そうするうちにようやく一つのことに気がついたりする。氷解するときがくる。

 わかりますか。考えるというのは、そういう悩み、絶望の淵を彷徨うことなんです。そういう中から解決の糸口を見つけてきたという、積み重ねが思考の形成につながるのです。それが「わかった」ということの中身なんです。

 教えられて「わかった」という子には、この悩みのプロセスが欠落している。いきなり詳しい解説を見て解の道筋を見せられて、それで「わかった」ということにどれだけの意味があるのか。教えられて「わかった」と言う子が決して伸びることはないのはあたりまえのことである。悩んでできた皺もない、ノッペリとした脳はそのままである。

 「わからない」と言うと、すぐわかりやすく教える先生、優しい家庭教師、みな子どもが「わからない」と言えば、図をかき、基礎から易しくわかりやすく教えてくれる、いい先生です。子は「わかりやすい」と大喜び、親は「いい先生に巡り会えた」とこれまた大喜び、これがバカ製造システムの実態です。子はバカになり、もともとのバカはバカのまま、まともな子はバカになり、親は大金をかけて息子や娘をバカにする。バカリズムの完成である。

 頭というのは、自分の頭で考えてなんぼだ。あれやこれやと悩んで絶望して生還して初めて脳に皺がひとつ増える、ということだ。ノッペリ脳では考えるひっかかりもない。

 いいですか。頭をはたらかせるというのは、抽象化と具象化の振動のリズムにのるということです。振り子の運動のようなものだ。事実を読み取る。常識的、日常的な理解、事実を時系列で整理する、原則で考える、特別な場合はいらない、ふつうのこと、あたりまえのことに思考の振り子を設定する、そういうことではないか、と思う。

 思考のない人に限って、普通に考えられないで、例外と特別とかに振り子を合わせる。

 振り子ということで言えば、抽象化と具体化の間を常に振動しているのが、思考をはたらかせるということだ。具体的なものは、抽象化し、抽象的なものは具体的に考える、思考とはそういうものだ。

 

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