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新竹の会回顧録第1回 受かる子には勢いがある‼️ 

2022.01.11

新竹の会回顧録第1回2022.01.10

 

受かる子には勢いがある‼️ 

 目。毎年12月になると子どもたちの様子には、2通りの様がある。浮き足立ち落ち着かない、ふざける、元気がない。よくおしゃべりをする。中にはちょっかいを出して反撃を受けて騒ぎになるというのもある。こうした子たちの目を見ると生気がない、感じられない。迷いの目、不安の目、沈んだ目が、彷徨う様である。
 モチベーションを極限にまで高めて気が満ちている子は適度の緊張感を保ち与えられた課題に集中する。目を見ると決意の目がひしひしと伝わってくる。
 普段の、しかも直前のこの時期に集中ができないで、騒ぎに心を紛らわす精神状態で、どうして本番だけ神がかり的に集中などできようか。本番でもすぐ舞い上がり冷静に対応することなど夢のまた夢である。普段の集中が、本番でそのまま再現される。普段動揺して心ここに在らずという精神状態では本番は推して知るべしであろう。
 毎年思うのは、受かる子には「勢い」がある、ということである。勢いは、虚勢ではない。ただ強がって「受かってやる」と言う、それではない。「必ず受かります」という言葉でもない。
 よく経験したことがある。明日若しくは明後日が高校入試というとき、最後の指導が終わり送り出したとき、えも言われぬ不安、なんとも快からぬ感情が、心を覆い尽くすことがある。こういうときは、都立高校なら発表までの1週間は耐え難いものがある。
 予期した通り「落ちている」のだ。
 ちなみに、わたしは、本番のあった夜には、V模擬発表の解答を送り、自己採点して、その結果を送るように、指示している。
 とりあえず合否を判定するためである。
 ところが、「できなかった」と塞ぎ込む生徒は、一切の連絡を断つ。この精神の弱さが、もしかしたら、本来受験には不向きであった。しかし、受験は避けて通れない道である。ここにどうにもならない悲劇の本質がある。
 わたしの悪い予感は、高校入試では、恐ろしいくらいよく当たる。生徒を送り出すとき、様々な不安要素が頭を過ぎる。平均点より低い点があったとか、V模擬ではなかなか点が取れてなかったとか、判定Sがなかったとか、レジュメで合格を取ることが少なかったとか、天体の問題を理解していなかったなどなど。もちろんプラス要素もある。V模擬判定は圏内にあった、過去問チェックでは合格点を取っていたなど。
 そして最後にわたしの心にえも言われぬ不安が頭を過るとき、その不安は必ず現実となった。
 つまり、私の不安は的中するのである。
 これが都立中受験となると、倍率8倍の世界であり、むしろ落ちる方が普通の世界であるので、合格するだろう、と確信を持つのは、ないだろうと思われる向きもあるかもしれない。しかし、あにはからんや都立中受検では、これまで合格の予想は悉く的中してきた。私が合否を予測するとき、大きく3つの範疇に分かれる。一つは、合格する、二つ目は、わからない、これは不安要素と期待要素が拮抗する場合である。三つ目は、99%ない。
 合格する、と確信したときは、必ず合格した。
 しかし、二つ目の「わからない」というのは、確信が持てないのである。模試でいい成績を取ったことがあると、つい期待してしまう。しかし、普段の指導で失望の頻度が高いほど、それは「えも言えぬ」不安となってずっとわたしにまとわりつく。これが発表の日の前日、番号を見る直前には、瞬間的に不安100%となる。悪い予感はなぜか的中するのである。はずれがない。予感は的中する、「ない」のだ、何度見ても「ない」。
 失望とは何か
 レジュメの出来が総じて良くないとか、
 夏休み勉強をほとんどしなかったとか、
 課題をほとんどやらなかったとか、
 作文をほとんど書いてなかったとか、
 模試の結果がよくなかったとか、
 誰でも解ける問題ができなかったとか、
 尽きない。
 私の信頼を得れば受かる‼️
 礼儀正しさ、敬語、先人を敬う姿勢などは、当然として、必ずやり遂げる意志、実行力、わたしの言をきちんと心に留めて守る姿勢、態度、そういうものが、わたしの信頼を勝ち得る、こととなる。
 素直な子が受かるのは、素直なゆえに私の信頼を得る、ということである。
 言葉を返す、言い訳を「平然と」言う、こういう子は受かりません。なぜ! 自己正当化する子は、それなりにずる賢いのだから頭は悪くないのだと思いますが、これは勉強には確実なマイナス要因として働きます。できないのは自分のせいではない、と何かと責任転嫁するから、自省がないのです。いいですか。進歩というのは、自省を基礎とするものです。そこからいろいろと考えるのです。先人の教えにしたがうというのもここから来ています。自省とは、自らの不完全さを悟ることだからです。自己正当化する子には、自分は完全である、という無意識的な尊大さがある。尊大は人間を堕落させます。他人を省みない態度は学問には背馳する姿勢です。
 己を知る、これです。これこそ謙虚な姿勢、態度の源泉です。敬語は謙虚な心から自然と発せられるものです。己を知るというのは、賢い人のみが達する心境です。その意味で真の意味の「大人」の人間しかこの心境に達することはありません。
 ところが、わたしは、小石川の合格者桜修館の合格者に、そういう子を見てきた。早稲田実業高校に合格した鈴木君はまさにそういう人でした。青山学院高等部に合格したTさんもそういう人でした。この年齢にして既にして人格の品位を持ち合わせていたのです。世の、大人たちが法を踏み外し、常識を逸脱するのを見聞するにつけ、大人の中に品位というものを探すのは難しいことは知っております。少なくとも私は受験という機会を通して汚れのない純粋な心の子どもたちと出会ってきたのだということをよく思います。
 この子は「違う」「本物だ」と感嘆する逸材とは、類稀なる集中力と実行力を目の当たりにしたときです。勉強すること、受験すること、に迷いがない。そこのところだけは疑いもない、意思がある。
 彼が竹の会にやった来たのは、小6の4月のことであった。別に中学受験をするということではない。私は志望校を訊いてみた。彼は、「東京工大に行きたいです」と言ったのを覚えている。中学の3年間を竹の会で過ごし、推薦で都立西に合格した。断っておくが、彼は、V模擬で都内全都立受験者の中で十番台を取っている。つまり、一般で受けても合格できた。日比谷ではなく都立西を受けたのは、隣接区の特例のためである。彼は、都立西の3年間も竹の会に通うこととなった。西では、常に上位50番内にあった。彼の頭にはいつしか東大受験しかなかったようだ。わたしは国立文系なので、理系の数学はまともにやったことがない。それでわたしは数学Ⅲを勉強し直した。教材は、細野の数学、大学への数学の別冊シリーズを使った。彼は、早稲田理工に受かったが東大は数学で失敗した。あきらめられなかったのか、予備校に行き、再度東大に挑戦した。彼は予備校時代、三大模試ですべて全国順位20番台を取っている。つまり、東大受験はハッタリではなかった。しかし、またしても数学で失敗る。結局慶應理工に行った。彼は大学院には行ってない。不思議に思うかも知れないが、彼は、大学中、既にゲームソフトを完成させている。そうなのだ。彼はコンピューターのプログラムを早くから独学でマスターしていたのだ。彼は卒業と同時に起業して、今は資本金数億円のIT会社の社長として活躍している。
 彼のことはよく思い出す。とにかく集中力と実行力は目を見張るものがあった。中3時の内申は一科目だけ4であとは全て5であったが、女子ならオール5が推薦合格の最低条件、男子はややゆるかった。中2の1学期に漢検2級、秋には英検2級を取った。
 彼には目的に向けての不動のモチベーションがあった。小6にしてこの高い、勉強へ向けての向上心、モチベーションは彼が尋常の子どもではないことを教えていた。
 小学生には、2タイプある。親から言われて塾に通い、受験をする型、自らの意思で、将来を見て夢を抱き、勉強の意欲、向上心、したがってモチベーションの高い型である。
 前者は長続きしない。いやいややる勉強、人から強制されてやる勉強、だからたいてい途中で逃げ出すことになっている。
 大成する子は、小学生にして、既にして、才能の片鱗を示すものである。
 才能の片鱗を見た!
 去年東北大学に受かった女子は、6年前に、白鷗に落ちた。補欠10番だった。彼女は、小6で、漢検2級に合格している。
 彼女と初めて会ったのは、小2のときだった。お母さんに連れられて、トコトコと歩いている、幼くて小さな子だった。当時は、小2は入会してなかったので、「また、来年おいで」と言って、別れた。その時にせめて体験だけでもというので、計算ドリルをやらせたところ、夢中になって、もうそろそろと言っても中々やめない。それで結局4時間ほどずっと計算を解いていた。わたしは、この子は、とその集中力に驚いた。彼女は本当に小3になってやってきた。なんという向上心の強い子なのだろう!
小6になって算数が解けないで、適性問題が解けないで、ずっと考えていたが、私が呼ぶと、顔をクシャクシャにして泣きながら出してきた。余程悔しかったのだろう。白鷗を落ちたのは、計算ミスだった。彼女は、宝仙理数インターに行った。6年後彼女は私に合格を報告に来た。わざわざ私に会いに来たのは、小3から私と4年間勉強してきた竹の会、その結果をどうしても私に直接報告したかったのだろうと思う。記念写真を撮って、彼女の門出を祝福した。彼女が白鷗を落ちた年は、3人の受検生がいた、3人とも落ちた年だった。私は塾が終わり夜道を帰りながら、この子たちの心を思い泣いた。涙が溢れて止まらなかった。一人は、日比谷と慶應志木に合格、慶應大学へ、もう一人は、日比谷から杏林大学医学部に進学した。この子たちが、わたしに、合格を報告してきたのは、どうしても私に報告しなければという思いが、そうさせたのだろう。私が思っていた以上にこの子らがわたしへの、竹の会への思い入れがあったのかと思う。私たちは、いつも信頼関係を築き、お互いを心から敬愛していた。わたしが厳しく当たるときも彼女たちには私の思いがわかっていたのだと思う。杏林の医学部に進んだ女子にもらった箱根土産の寄せ木細工のしおりはあのとき、あの時間の、大切な思い出です。
 モチベーションの高い子たちでした。あの時の失敗は、私には辛いものでした。私の指導ミスでした。私の執筆したレジュメの数が膨大になるほどに、どのレジュメが効果的か、私は難しい選択を迫られていたのだと自戒しました。
 わたしは、あのときから、より高度な、思考の道筋を「線でかける」ような問題を膨大な過去問から探し、私なりに換骨奪胎して、理想のレジュメ制作を心がけてきました。
 質のいいレジュメで、最小の勉強量で合格を、果たす。これが私の、今の指導コンセプトです。
 それにしても「勢い」のない子は、モチベーションの低い子は、早々と受検はお止めになられた方がよろしかろうとおもいます。そういう子は、家庭学習にも消極で、何事につけて、回避的行動を取りますから、そもそも指導の成果はほとんどないであろうからです。
 指導というのは、一般的に、言うものではないのかもしれません。
 織田信長は、本能寺が明智の軍勢に取り囲まれたとき、森蘭丸が「殿、陣立てを!」と叫んだのに対して、「陣立て不要!これは戦ではない」と言ったとか。
 
 モチベーション、勢いのない子には、受検の手立ては「ない」のです。その気のない犬に芸を仕込むのは、不可能と聞いたことがあります。その気とは、好奇心と言い換えてもいいと思います。
 つまり、関心を示さない子に、指導は無意味なのです。
 これはもうこのブログで何度か言って参りましたが、これから退塾する子の指導は意味はないのです。竹の会の指導というのは、受検という目的に向けての、見通しとその実現に向けての体系なんです。止めるという子にいったい何の見通しをもって指導するのか、次の指導はないのですから。だからわたしはよく「今月でやめます」という親が、最後の指導日まで出ようとする意味がわからない。おそらくカネ払った分の元を取ろうとということなのかと思いますが、ただの消化指導にどんな元が取れるというのでしょうか。そういう子に次の指導段階を見越した指導などあり得ないわけです。ここに、親たちの意識に、大手志向の深層心理を感じます。大手なら、知識を、授業を1回分いくら、テキスト代いくらとカウントするシステムですから。だからこそ大手の無料体験なんかは、意味を持つ。つまり、1回いくらの授業を無料に割引します、と言っているのである。
 しかし、竹の会では、体験授業の意味はほとんどない。そもそもの指導ができないからである。短期間にいるだけの子に長期的見通しを持っての指導などできるわけがない。竹の会の指導は、すべてが次の指導の前提指導となっている。だからこれから退塾する子の以後の指導は意味がない。ただの消化指導にならざるを得ない。
 
 受かる子は普段の指導でも時間を無駄にしない。寸暇を惜しんで勉強する。普段の集中、思考態度がそのまま本番の試験に出る。落ちる子というのは、これがわかっていない。普段の勉強姿勢、態度がダラダラしたものなら、本番の時だけ、集中できる、思考態勢が整う、ということはありえないのである。
 わたしは、高校入試の専門家である。わたしが、自分がプロだと実感するのは、合格を請け負うときである。この子は危ない、というときこそ、プロの真価が発揮されると思う。合格させるために、あらゆる手立てを尽くす。ベストの、よりベターな処方を箋ずる。理解の手薄なところをピンポイントで発見して所見を立て、対策を取る。データを拠り所に当日取れる点数、取らなければならない点数を予想し、合格のための戦略を立てる。この処方はほぼ毎日、その効果に一喜一憂しながら、処方と効果を繰り返す。このようにして検査としての過去問でマルが取れるようになってくる、こんなときに私は自分はプロなんだ、と思う。私がプロだ思うのは実はこの一瞬であり、世間の人にわからないと思う。世間の考えるプロというのはもっとかっこいい専門家みたいなことをイメージしているのではないか、と思う。ところが、私は、問題に直面してそれこそ日夜考え、なんとか思いついた方法を試し、失敗したら、また悩んで処方する、そんなだから、とてもかっこいいプロイメージとはかけ離れている。でも私は、合格は無理だと思われる子をなんとか合格レベルに持っていき無事合格させる、カッコウ悪いが、私なりに、自分はプロなんだから、と自負してきた。だから私のことをあなたたちのイメージでプロと理解されてもきっと失望させると思うのです。
 かっこいいプロは、算数の難問、数学の難問を見た瞬間解ける、いや世間の皆さんはプロなら立ち所に解いてしまう、と思われているかも知れない。
 しかし、実際、見たことがないので、そんなプロがいるのかもしれないが、わたしの経験からは、そんな人はほとんどいないのではなかろうか、と思う。多くの有名な先生と言われる人は、ほとんどが後知恵なのではななかろうか、と疑っている。
 私はどうかと言うと、立ち所に解ける問題もそれなりにあるが、たいていは難問に出くわすと、一人で落ち着いて考えなければ解けない。アイデアが浮かばずに、解決の糸口が見つからずにあれこれと考えを巡らせ、ある時はあくる朝に閃いた、ということもたびたびある。ただ私の誇れるところは、時間がかかっても必ず解き明かしてきたことであると思う。しかも、わたしの場合は、小学生、中学生にわかりやすい、簡潔な、シンプルな解答を創作することを至上の喜びとするところがある。
 だからとてもかっこいいプロでないことだけは確かである。
 私の指導の効果は、高校入試において最大値、極限値を示すであろう。
昭和60年10月竹の会は小さな個人的な、あまりにも個人的な、まるで寺子屋のような風情でスタートした。なにしろ最初の生徒は、代々木中の女子生徒3人でした。わたしは、家庭教師の経験はありましたが、東京の、都立、私立という、私には初めての、取り組みに、試練の真っ只中にあったのでした。私は、まず、中学の教科書を何冊も夢中で読みました。それから特に読んだのは、駿台文庫シリーズ、代々木ライブラリーです。予備校の先生の書いた数学を片っ端から読みました。英語は、研究社や開拓社のをよく読みました。当時は、一コマ2時間の授業を週2コマで回すというのが基本スタイルでした。まだ教材の仕入れ先もなく、よく大久保にある第一教科書という教科書販売会社に教材を探しに行きました。ここで出会った塾用教材は少なくありません。新中学問題集で有名な会社が杉並区にあり、よく車で仕入れに行きました。2年ほどして、実績が認められて、正式にその会社と契約をすることができました。さらに首都圏の塾用教材を扱う卸会社の営業の方が竹の会に見えられて、契約をすることとなりました。これで教材ならほとんどなんでも手に入る体制が整ったのです。
 最初の高校入試はどう戦ったか、というと、過去問ですね。私は最初は学参版の過去問集を、平成に入ってからは声の教育社版の過去問集を買いまくりました。わたしは、様々な高校の過去問を使って、実践的な力、思考力をつけていくことに、力を入れました。
 昭和62年2月最初の高校入試でした。市川高校合格、青山学院高等部合格、國學院久我山合格、都立は、駒場、目黒、都立大附属など、ほかにも日大櫻丘レベルの学校に多数合格したのです。
 竹の会は口コミでたちまち近隣に知れ渡ることとなったのです。
 この時から、私の高校入試の指導方法は、過去問を駆使した、私独自の型となって完成していったのだと思います。
 竹の会の現在の指導法が確立するのは、まだずっと後の平成18年から平成24年にかけてのことですからかなりの潜伏期間が必要でした。
 高校入試は、生徒の質に大きく左右されます。親が部活崇拝だとたいていは失敗します。部活があるから塾を休む、遅れる、なら、少なくとも竹の会に来ない方がいいのです。
 生徒の質は重要です。
 頭の悪い子の指導は実りがありません。頭の悪い子には、そもそもの理解度の低さもありますが、頭が悪いということは、学問でもなんでも関心が低い。だから何を教えても効果が薄いのです。わたしは長い間、塾の先生を、やってきましたから、本当に頭の悪い子というのを知っています。
 こういうのは、塾の対象にして、カネをもらっていいのか、疑っています。そもそも一介の塾のやれることではないのではないか。やっても実りのない仕事です。親は「なんとかなる」という塾の嘘を信じないことです。
少なくとも竹の会はそういう子を指導するということはない、というか、指導が成り立たない、と思っています。
 字が汚い子の指導は指導した実感がない。私の教えたことが、その字によって蹴散らされて、雲散霧消してしまったような感情が私の中で漂う。なんとも言えない虚しさと諦めが残る。はっきり言って、字が汚いというか、まともに読めないというのは、損です。いろんな意味で損です。まず美しいノートを作ることができない、というのは、悲劇です。ノートは、思考整理のために重要です。知識を整理して、鳥瞰するためには、上手くはなくても、きちんと、整然と、字を書くことである。わたしは、よくまとめながら、考えるということをしていた。字が汚い人は、図も無様である。図をかいて考えろ、と言っても、図がなんらかの関係性を描写するものでなければ意味がない。字にも、図にも、美的感覚が絶対要件である。
 中学になると、ノート提出というのがあり、内申に影響する。高校や大学では、レポート提出があるからワープロに依らないとすればここでも字は重要となる。
 中学や高校、大学も、授業、講義のノートを取るとき、やはり字はものを言う。
 なによりもわたしにとって、字は思考の道具であった。字と図を使って考えるのは、わたしのやり方である。わたしは頭の中で考えるほど天才ではない。文字でメモし、図を工夫し、糸口の発見をする、のがいつもの私の手順である。
 美しい字、揃った字を書くのは、わたしには、思考の道筋を視覚化して、さらにその上に立って思考を重ねる上で必須の手段である。
 いつかドラマの中で総合診断医Dr.ハウスが、患者の症状、生活習慣などから、あり得る病名を白板に書き連ねていき、一つ一つその可能性を合議で消去していく場面が定番の光景として必ずあったが、このとき、やはり字は大切な思考の道具であったと思う。
 天才レオナルド・ダ・ビンチのかいたと言われるノートを見たことがある。もちろん写真。細かな字で精緻にびっしりと書かれた文字、精巧な図は何かの設計図であろうか、ノートはこうあるべきだというものを教えられた。
 私の幼稚園、小学、中学まで同級生であったS は、中学のとき、理科の教師が配った理科実験観察の小冊子が、S の分だけ足りなかったとき、級友に借りて帰って、一晩で写しきた。今のようにコピーがなかった時代である。そのノートは、字も活字のよう、図に至っては、まるで本物のテキストそのものだった、と理科教師が私たちに語ってくれた。S とはクラスが違った。あの頃のクラスは、1クラス55人前後、12クラスあったかな。彼は3年間学年1番、開校以来初めての全ての科目で満点を取った人として有名になった、高校は上野が丘に進み、当時東大35人前後を輩出していた中で、学年3番、現役で東大理系に合格、学生運動でおかしくなった時期もあるが、後年郷里の大分工大の教授になっていた。しかし、結婚して子どもが産まれてすぐに夭折した。40才の若さであった。彼とは家が近くだったが、ほとんど話すこともなかった。彼が何を考え何をしようとしたか、私にはわからなかった。
 実は、私の高校の同級生2人も故郷別府で塾を開いた。一人は、東大の理系、もう一人は、一浪して東大法出身であった。一浪した方は、私の高校で3年間学年1番だった。浪人した9月に上京して駿台予備校に行った。そこの選抜試験で確か3番で合格し、特待生として学費無料で予備校に通った。二人とも何故か故郷別府で塾を開いた。東大出の先生の塾として、生徒が押しかけたと聞く。今はどうなったか、全く知らない。
 わたしは、彼ら二人とは全く違う落ちこぼれでしたから、その上、いきなり東京のど真ん中で塾を始めて、何もかもが初体験で、何か障害に突き当たるとそのたびに苦悩し七転八倒してなんとか乗り越えてきました。
 その竹の会も37年目に入りました。今は一年一年を大切にいつ最後の仕事になるかもしれないと緊張して丁寧に指導をしています。

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