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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西というリアル/小石川、桜修館のシリアス/勉強をするしないというレベル/異質を感じるとき

2016.09.09

 おはようございます。台風は頻繁に襲いかかるのですが、関東、特に東京だけは今のところ最悪の事態を免れているようです。さて次はどう出るか、待ちの姿勢に変わりはありません。自然の出方をいつも見極めて動くしかないのが人間です。

 早9月もこれから中旬へ差しかかろうとしております。竹の会が渋谷駅そばに移転してきたのが、2012年5月6日のことでした。あれから4年余の歳月が流れてようやく5年目に差しかかり竹の会にひとつの転機が訪れたようです。竹の会は1985年(昭和60年)10月に開設しました。2011年3月11日には福島の原発事故がありましたが、そのときから竹の会の移転を真剣に考えました。長い間の夢であった「渋谷駅そばに竹の会の教室を」の夢を実現可能性の低いことは承知で画策してきたのです。1%の実現可能性しかなかったと思います。開設27年目に入る2011年10月にはもう竹の会を廃業するところまで精神的に追い詰められていました。いつか渋谷駅そばに竹の会を開き東京23区の人たちが竹の会をめざして通ってくるようになる、そんな夢をなんど夢見たことか。

 平成24年3月実質的に竹の会の移転は決まりました。それから移転に向けての準備に奔走しました。27年間使ってきた元代々木教室をどうするか、このまま存続させるのか、渋谷教室一本にしぼるのか、悩みましたが、体力的に無理と観念して渋谷教室にしぼりました。移転しても茨の道は続きます。だれも竹の会なんか知らないのです。知名度なんかない、渋谷の元代々木というどこの駅からも離れた不便な場所で地元塾として長くやってきたのは奇跡としか言いようがありませんでした。平成20年あたりからそれでも港区や新宿区、目黒区あたりからは集まるようにはなっていましたが、それでも竹の会の名を東京に広めるなどということは現実には不可能にも思えました。

 竹の会の課題はどうしたら竹の会という塾を東京23区のみなさんに知ってもらうか、ということでした。学校説明会があればチラシを配るようにしましたが、だれも振り向いてはくれませんでした。さしたる宣伝の手段を持たない弱小塾の悲哀というものがリアルなものとして感じられました。せっかく渋谷駅そばにこれたのにこのままでは終われない。わたしは、東京の渋谷にこんなにいい塾があるのにだれも振り向いてくれない、そういうどうしようもない現実にじっとが耐えてまいりました。平成28年の4月にあった九段の合同説明会でもチラシを配りましたが、ただ虚しいだけでした。あそこにはすでに大手なりに通っている小6と小5がやってくるだけで、これから塾を探しているという人などいない、となればチラシなど撒くだけ無駄であろう。そう悟りました。

 竹の会を知ればまず心ある人なら必ず竹の会に魅了される、虜になる、その自信はありました。今年になってリニューアルしたホームページ、その中の「草枕」が東京を駆け巡るのを実感しました。やはり竹の会には草枕しかない、草枕こそ竹の会を23区のみなさんに知ってもらう竹の会の唯一のかけがえのない手段である、そう悟りました。

 東京のもっともっと多くのみなさんが竹の会の草枕に出会い、竹の会に共感してくれることを願っております。

 ○中学生は成績が下がればそのときが竹の会と別れるとき

  小学生のみなさんには実感がないでしょうが、中学というのはいつも定期試験で学習の到達度が試されています。小学のときとちがって親はその度に飛び上がります。

  中学生はたいてい部活というのをやっていますから、これとの兼ね合いで勉強できなかったりするとたちまち成績も下がります。部活の練習に追われて勉強できない、していないという中学生ならいくらでもいるはずです。かつての竹の会では部活偏重の結果成績が下がると必ず親が文句を言ってきました。「高いカネを出して塾にやっているのに成績が下がっては意味がない」というのです。「先生から勉強するように言ってくれ、親の言うことは聞かない」という親もよくいました。塾は勉強しなくても成績をよくする魔法でも使えるとでも思っているのか、親が躾を怠ってきたつけを塾の先生に代わって払え、などというケシカランバカ親ばかりでした。

 勘違いしたバカ親ばかりでした。子どもに基本的に勉強する習慣というものがないのです。そういう躾をしてこなかったのは親でしょ。ほったらかしで子どものやりたいようにやらせてきた、それが今の結果でしょ。中学生などというものは、小学生のときの躾がすべてです。基本を徹底して鍛えてきたか、勉強というものを生活習慣として訓練してきたか、そういうことが問われているのです。中学になったらもう手遅れです。親の言うことなんか聞くはずがない。カネもらって親に頭を下げている塾の先生なんか舐めているに決まっている。こういう横着なガキにしてしまったつけは親が払うしかない。

 だから竹の会は勉強するという意思も行動力もある生徒をのみ入会させている。勉強しなくなったら竹の会にそもそもいる理由はない。成績が下がったらそれは勉強していない、しなかったということであり、親御さんがかつてのように竹の会に文句を言う以前に竹の会からお断りするしかない。中学生というのは突然に勉強しなくなる、それが部活を口実にしているか、なにか理由不明ということもあるけれど、そういう例なら事欠かないくらいに経験してきた。勉強しない中学生の末路は見えている、早々に退塾して好きにしてもらうしかない。

 子どもというのは、勉強という基本的生活習慣を身につけさせること、これが親の義務である。これを壊すことになるとしか考えられない生活を子どもに強いる親で溢れているけれど、何がもっとも大切なのか、なにもわかってはいない。いやもちろん子どもにとってです、将来社会に出てひとりだちしていく子どものことをどれだけリアルにとらえているかでしょ。

 わたしの直感が「ちがう」「なにかちがう」と感じるほどに異質なもの、違和感を感じることがある。習い事、稽古事に3歳とか、4歳から没頭させていて、そういうことにほとんど時間をかけながら、「青山に行きたい」「戸山に行きたい」という子も、それを当然のように受け止める親もわたしの理解の範囲を超えている。向上心、上昇志向はたいしたものですが、そして確かに、そういう能力もあるように思うのですが、なにしろ勉強はほとんどやっていない、やれないという人の、そういう言葉がわたしには戯言にしか聞こえないのです。

 小学5年生、6年生で週の4日とか、5日とか稽古事、習い事をやりながら、受検します、という親子もいましたが、わたしの想定する受験生像では決してありえない。違和感どころか、異質であることが明白です。生活の中心に勉強というものがない子、親、家庭が、勉強を大切だ、と言ってもわたしには異質なものにしか見えないのです。

 わたしが異質と感じるのは、勉強というものに対する姿勢、価値観、行動、思想、そういうものから受け取るすべてです。敏感に感じます。違和感、ちょっとした違和感、そういうものが実は大きなものであったということを受検直前になって知るものです。わたしが感じた違和感、異質というものが結局は失敗に見事につながっていた、そういうことの例はなら枚挙に暇ない。

 

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