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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西の塾/小石川、桜修館の塾/晩秋を思う

2016.09.30

 おはようございます。いつの間にかあの蒸し暑さはどこかへ消えて今朝は秋風がベランダから吹き込み爽やかな空気に心は安らぎます。秋の風景と言えば、コスモスの花が風に漂う情景が好きですが、晩秋の暮れゆく道に風にそよぐススキがなんとも寂しい、農家の庭にたわわに稔る柿の橙色が懐かしい、そういえば少年の頃、山に入り椋の大木によじ上り椋の実を頬張った記憶、山深い雑木林に分け入り山芋掘りに夢中になった若き頃、秋は短く晩秋と初冬の境も微妙でわたしには少年の頃駆け巡った故郷の山々が懐かしく思い出される。

 小4のときだったか、東京に住む叔父さんが大分県の実家に寄ったことがあった。街の本屋に連れていってもらい「日本むかしばなし」という本を買ってもらった。家には実用書ばかりで陸に本がなかった。初めて本らしい本を手にした喜びでわたしの心は満ちていた。この本は何度読んだかわからない。もうボロボロになるまで読んだ。それがきっかけだったのかよくわからないけれど小5になってから毎日のように学校の図書室から本を借りだした。「怪人二十面相」とか、「ルパン」とか、「ホームズ」とか、何日間世界一周とか、海底二〇〇〇〇マイルとか、とにかく図書カードはすぐにはんこでいっぱいになり何枚更新したかわからない。少年の頃、まともに勉強したことがなかった。字なんかもへたくそで上手い字を書く級友が羨ましかった。外で駆け回っている方が合っていた。勉強は嫌いで、鉄道員だった父親がいつも旧制中学に行けなかったことを嘆いていたのを見てきた。父親は毎日仕事から帰ると今日やった勉強を点検した。勉強してないと殴られた。家の裏に大きな実をつける柿の木があったけどわたしにはいつもそれに縛り付けられていた。祖母が頃合いを見ていつも助け船を出してくれた。後々考えてみても姉も弟もなぜかわたしのような目にはあっていない。なぜかわたしだけがそういう仕打ちを受けてきた。毎日父親の帰ってくる夜6時あたりは胸がドキドキして恐かった。毎日秋から冬にかけては真っ暗になるまで外で遊び回りお腹を空かせて家の近くまで来る、台所のあるところから明かりが見えて母と祖母が忙しく夕飯の支度をしている光景を思い浮かべながら家に向かって走った。父のいないことを期待しながら。父がまだ帰っていないと聞くとほっとした。

 小学の間は、できない子どもだったと思われていたし、近所でもガキ大将で悪かったのだと思う。小6のとき受けた知能検査はかなりよかったらしく担任がわざわざ母親に伝えに来た。通知表は3が多く、2もあった。4も一つくらいはあったかな。小1から小6までなぜか図画工作だけは5だった。絵ではよく賞をもらった。中1になって初めての試験で500人以上いた中の確か60番ほどで名前が廊下に貼り出され、両親が驚いた。それがわたしの勉強の始まりで成績がいいと父親も機嫌がよくなった。中1の間はよく500人中の20番ほどだったからそれほどできたわけではない、宮崎県の中学から大分の中学に戻ってきた中2の間も似たようなものだった。それが中3になって1日7時間やるという1番の幼なじみのF君の話を聞いて、発憤したのかもしれない。1日7時間やった。学校から帰るとすぐ寝た。それで2時間ほどして目覚めると近くの温泉に行く、それから夕食をとる、そしたら勉強始める、7時くらいからか、12時過ぎて2時まで頑張ると眠くなる、たいていはここで潰れるけど、2学期は違った、3時を過ぎると急に頭が冴えてくる、らんらんと目も冴えてくる、明け方夜も白む頃、5時過ぎだったか、ようやく心地よく疲れて床についた。朝6時過ぎるともう母と祖母が台所でいそいそと働く、味噌汁の香りがしてくる、そういう毎日を送った。いつもいつも勉強が頭から離れなかった。わからない数学の問題なんかいつまでもいつまでも考えた。ご飯を食べながら、通学中も歩きながら考えた。そのことばかり頭から離れなくて考えた。英語塾に行っている子もいたけれどわたしは塾など考えたこともない。そういう家庭ではなかった。クラスではいつも2番、1番のGは学年2番で絶対勝てないと思った。でも奇跡が起きた。中3の最後の実力考査だった。返ってくるテスト、どれも100点、悪くても90点の後半だった。Gがそれを見てさかんに「負けた」、「負けた」、「阿部、おまえ学年でもトップへ行けるよ」と悔しがった。担任がわたしの成績をクラスのみんなに伝えるとみんなが湧いた。Gはひとりで「ちくしょう」を繰り返していた。わたしは晴れがましい気持ちで落ちつかなかった。

 秋になるといつも少年の頃のことを思い出す。少年の頃見た紅葉は今も鮮烈に心を染める。もう2、3年前のことか、晩秋の京都を訪れたことがある。京大に憧れて京大を受験した十代の頃見た京都は雪深く寒かった。京都の紅葉など見たこともなかった。なにか懐かしい、そんな思いで眺めた京都はわたしの青春の一コマを閉じ込め続けていつまでもわたしの中にあり続けた。

 故郷を離れて東京に住むようになっても思い出されるのは少年の頃の自然の中をかけめぐる自分だった。あのガキ大将が東京の渋谷で塾の先生をやっているなんて、だれも信じないだろうか。いや中学の同窓会に一度だけ顔を出したとき、クラスのマドンナだった子から、「阿部君は秀才だった」と言われて、そんなふうにみんなに思われていたことを初めて知った。塾の先生やってると言っても驚かないような気もする。

 さて今日はBの日です。今日は朝から英語のレジュメを執筆していてまだ当分は終わりそうにない。Bの子たちも熱心に勉強する子ばかりでそのうちAに負けない結果を出す日が来るかも知れない、いやそうなってほしい、BはBでその存在意義を確立させていければと思いは募る。

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