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日比谷、西の道/小石川、九段へ行く/日常性に人生の本質を見る

2016.09.08

 おはようございます。台風13号はこれから雨をもたらすとの予想ですが、今日は一日雨なのでしょうか。空は確かに雲に覆われていますが、所々に青空が広がるときもあり、なんとも落ちつかない天気です。

 昨日は、Aの指導日でしたが、中学生は、定期試験前で竹の会の指導はお休みしています。今年は、小6が明らかに力不足というか、力がつききっていない、本能寺で光秀に攻められた信長は「これは戦ではない。陣立て無用」と言ったとか言わないとか、そこまでという認識はないけれど危機的状況ではあります。少なくとも小5の1年を竹の会で過ごして状況がよくないというのは、二通りしかない。勉強量がたりない、つまりそれほど努力というものをしてこなかったか、地頭がない、この2つでしょ。 

 小4、小5期の小学生というのは、放っておいたら完全にバカになる。これはわかっています。この時期に大手にやってバカにする親もいますが、それはさておいてです、たとえば、小学生というのは、計算で手間取るかどうかがひとつの試金石なわけです。よく小石川に行きたいなどという小学生がいますが、もし計算でもたもたしているなら見込みはないからさっさとあきらめたほうがいい。わたしはまず小数から指導して、次に分数と進める。分数はまったく真っ白な状態から早い子で1か月もあればたちまちマスターしてしまう、これがノーマルです。竹の会で分数をマスターするというのは、偏差値70レベルの難関中の計算が苦もなく解けるということです。もちろん逆算も当然できる。この逆算というのがまたひとつの試金石で、これに時間がかかる子は受検はあきらめたほうがいいでしょ。少なくとも小石川はない。

 計算だけで1年前後かかる子というのは、正直受検は無理と思います。地頭の問題です。

 戦闘に喩えれば、戦う前の武器の操作であたふたしているわけです。計算は受検では武器のひとつです。決して目的ではない、手段です。割合を学ぶというのも、同じです。ただし、計算とは違ってかなり高級な武器とは言えます。思考力を鍛える、そしてその思考力で戦うという図式です。竹の会はそう考えています。大手のように知識を授けるというコンセプトはない。知識を情報を売る、だから授業もその機会という発想が大手でが竹の会はそういう発想は全否定しています。

 計算程度で躓く子には受検などそもそも無理です。これは統計的には圧倒的に男子に多いのですが、字の訓練をまったくと言っていいほどやってないですね。小学1年前後が勝負でしょ。字を丁寧にゆっくりと書かせる、そして形、型をたたきこむ、これが大切です。しかし、特に、男の子というのはひどい字を書く、親がやるべきことをやっていないのです。だいたい小1のときに公文なんかにやる、ここから間違っている。早く、早くと字の本来のかたちを軽視して、侮って、知識段階ばかり前に進める、こういうアホなことをやっているから、取り返しのつかないことになるのです。「知識」に翻弄されて「字」を侮ってきたつけが小5あたりにのっぴきならぬことになってくるということです。書き殴りというのは、字というものを侮る行為に他ならず、字というものを侮り続けてきた証拠です。親が字を侮るから子もその程度にしか考えないのです。勉強して知識さえ学んでいれば字なんて読めればいい程度にしか考えてこなかった、そういうことでしょ。しかし、これは完全な失敗です。先ほど計算というのが、武器、つまり手段と言いましたが、「字」は脳の働きを支える有力な手段、思考の質さえも左右しかねない、決して侮れないものである、ということです。レオナルド・ザ・ヴィンチのノートを見たことがありますか。天才は字と図においてすでにして格段にちがうということです。字が汚いとしたらすでにして天才どころか秀才にもほど遠い。バカは字が判別不能なほどに読めないけれど、判別不能な字を書く者の頭の中は判別不能なほどに区別能力が曖昧模糊としているのではないか。

 バカは日常性に飽き足らない。保育園では間断なく幼児たちの気を引きつける行為をしていないととにかく好き勝手にして手が付けられなくなるから、これは大変な仕事である。幼児は飽きっぽいからひとつのことになかなか集中するということがない。そういう中でときとして天才的な集中力を発揮するという子がいたりするものであるが、一般には手のかかる、目が離せない子たちばかりであろう。

 いつまでも幼児性から抜け出せないのは、きちんと教育してこなかったからである。かわいいあまりに言うことはなんでも聞く、つまり過保護ですが、そういうことをやってきた子が、小4,小5になっていたら、これはもう手が付けられないでしょ。わたしはそういう子をみるのはごめんです。わたしは教育というのは我慢させること、つまり心を律するということをたたきこむことだとよく言いますけど、幼児期というのは、がまんもそうですが、なによりもしつけでしょ。強制的にまず理屈よりもしつけです。親がバカだと親の曲がった性格のままに子どもを湾曲した鋳型にはめ込んでしまうということはある。

 勝負はまず幼児性からの脱却です。親はあれこれと習い事やら稽古事には熱心なくせに、自分ではなにもやらない。字なんか別に書道教室にやるということではなくて親が手取り足取りしつければいいことでしょ。かたちをじっくりと丁寧になぞらせる、これでいいのです。別に上手い字が書けるようにするまでのことはない。科学を勉強するときに、数学を勉強するときに、国語を勉強するときに、使える、思考の補助の道具としての字が書ければいいのです。後は本人が工夫して大成していく、これでいいのです。英語、英語と言うけれど、まともに字も書けないバカが英語もないでしょ。英語よりもまず日本語でしょ。古典のひとつも熟読したこともないままに大人になった人間が精神のない、かたちだけの英語を習って、精神のかたちはいつどこでどうやって作るのですか。

 バレーやるのもいい、ピアノを弾くのもいい、それが4歳とか、5歳とか、早期教育というのでしょ、けっこうなことです。プロになる人、なれる人というのは、観阿弥や世阿弥の言うようにもう3歳から芸事に師事しなければ大成しないというのもわかります。そうなのでしょう。しかし、世の中の99%の人は別にプロになれる、なるわけではない。たいていはもう十代の中頃には止めている、そうでしょ。ピアノが弾けてもなにかの折にピアノを披露して拍手喝采を受ける、それで終わりでしょ。そんなことよりも大切なことがあるのではないか。精神の核です。わたしたちは生涯勉強からは離れることはできない。勉強、そして学問といい、それを呻吟する過程においてわたしたちは常になにかを求めている、それが精神の核なのではないか、とわたしは思うのです。ただ勉強しているわけではない。それを勉強することによって、なにかを得る、そしてそれは技術に秀でるとか、知識において博学になるとか、そういうことが目的ではない、わたしたちは、自らの精神の核というものを求めている、そういうことなのではないか、と思うのです。

 司法試験に受かってもバカ弁護士が闊歩するだけ、医学部に受かっても人殺し医師になっただけ、なにかがちがうのです。新聞はとっくにジャーナリズムという本質を捨て、テレビ局は体制やスポンサー、芸能プロに阿ることですでにジャーナリズムとしては死に体です。現代は「臭いものに蓋をして正義面をしている人間」が世間の喝采を受けるところで安定しております。住田という東大出のドヤ顔の弁護士がいますけど、原子力規制委に名を連ねて正義面してる、それが今の有名、著名ということの正体です。日本は戦争で裁かれたけれど、市街地に原爆を落としたアメリカは裁かれない。勝者はなにをやっても裁かれないという論理ですか。

 著名人かなんか知らないけれど、知らないことに圧倒的な自信を持って口を出す、そしてそれを「真に受ける」アホがいる、今はそういうへんてこなことになってますけど、選挙のたびに思うのは、世の中に悪がはびこるのは、怠惰で無知で愚鈍な人たちがこの世の中を結局つくりあげているということです。

 自分の頭で判断することのできない人たちですね。

 わたしはもっと日常的なものを大切にしなければならないと思うのです。奇をてらうとか、目移りのすることにすぐ気を奪われる、飽きっぽくて次から次に自分の怠惰から発する日常を退屈なものと信じて疑わないアホがやたら増殖している、こういう連中が勉強というものを日常化できないのは当然なのかなと思います。

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