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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西は想定内/小石川、桜修館恐るるに足らず/竹の会物語~高校入試はわたしの故郷

2016.12.17

 師走深まる。空気は冷たいけれど青い空と太陽の光が心地よい。街を歩くとすぐ汗ばむ。建物の中は特に暑い。膝よりも腰の痛みが辛い。人間というのは、痛みにだけは耐えられない、そう思ってきた。医師は痛み止めを出すけれど、あれって何だろうか。消炎鎮痛剤の消炎とは、炎症が前提なのだろうけど、そもそもこれは炎症の原因を解決する薬ではない。鎮痛剤は血行を阻害させて痛みを感じなくさせるだけだ、という説明がある。患部を低血流、したがって低酸素にし、さらにしたがって低体温にする、それで痛みは感じない、というわけである。しかし、もしそうだとしたらこれは大変な誤りをやっていることにならないか。回復には是非とも酸素が必要なのではないのか。血液が患部に栄養を供給しない、それでいいのか。ある人は、医師は詐欺師だ言う。鎮痛剤を多用する医師は、いずれ患者を手術に引きずり込むことを知っている。傷ついた狼が暗い洞穴の中で横たわりじっと痛みに耐える。もちろんその間何も食べない。ところが医師は点滴で栄養を送り込む。これはどうなのだろうか。栄養で体力が回復し痛みも癒えることになるのであろうか。悪いときはじっと体を休めてひたすら自己治癒を待つ、わたしにはこちらのほうが正しい道なのではないか、そう思われてならない。悪いときは食べられない、食用がない、それが自然なのであって、痛みに耐えながらじっと回復を待つ、薬で痛みを麻痺させる、何かおかしい。痛みは悪くなっている徴表なのであろうか。確かに体の異変を知らせているにはちがいない。ふと、考えた。痛みは自己治癒の徴表なのではないか。体が戦っているのではないか。そう考えることにした。歩きながらもうしゃがみたくなるほど痛い、それでもきっと体が戦ってくれているのんだ、と思うことにした。

 東京の夜に星は見えない。夜空を見上げることもなくなって久しい。浪人していた頃、毎夜7時くらいだったろうか、弟と近くの温泉に行った。行くのを日課とした。湯上がりで温まった体に冷たい空気が突き刺した。洗面器を片手に弟とよく歩いた。空を見上げると星がたくさん輝いていた。夏には天の川だって見えた。別府湾の空に輝く星はいつもわたしに悲哀と希望をないまぜにした思いを抱かせた。わたしにも赤い糸はあるのだろうか。まだ見ぬ、これから出会う人はどこかにいるのであろうか。わたしは何を信じていやどうして合格するなどと確信することができたのだろうか。一度受けた模試の成績はとても大学受験なんか口にできるものではなかった、それなのにわたしはただひたすら、勉強をしていた。確かなものなんて何もなかった。世間一般の幸せな人たちのようにわたしにも赤い糸というものがあるのかな、そんな思いを抱きながら、別府湾の空高く輝く星を見てきた。別府湾のはるかかなたの東京にわたしはいた。東京に出るのは宿命だったような気がする。どうしても父とは反りが合わなかった。この家から「出て行く」、「この人とは暮らせない」、故郷を捨てて、東京に出るのは、何か見えない力に引っ張られるように、引き寄せられた気もする。それが赤い糸だったのか、どうか、それはわたしにもわからない。

 小学生の頃、好きになった子がいた。中学生の頃、好きになった子がいた。高校生の頃、好きになった子がいた。ただそれはいつもわたしの心の中だけのこと、自分のような人間ではとてもダメだと思い続けてきた。旧帝大に入れば少しは自分も相手をしてもらえるのだろうか、と考えた。そう思って勉強した。

 中学3年生のときだったか、「オレ九大に行きたい」とクラスの友だちに行ったら、「アベ、お前には無理だ」と言われた。その友だちは、工業高校に行き、鉄道員になって、すぐ結婚した。あいつ、なんの根拠があってそんなこと言ったのか、わけわからん。中学の同窓会のときクラスのマドンナだった子から「阿部くんは秀才だったから」と言われて、「えっ」と思った。相手にされてないと思ってきた。彼女は高校の同級生と大恋愛の末結婚した。今頃どうしているだろうか。先日小学生の頃好きになった子の夢を見た。大学に合格した日、大分駅の前で彼氏と歩いていたところに遇い、ぎこちなく挨拶したっけ。それっきり見かけることもなかった。

 高校入試のことをまたいろいろ考える日々である。かつて高校入試はわたしのライフワークだった。朝から晩まで過去問を解いた日々、首都圏の高校入試の過去問集を数百冊は買った。いつしかどこの高校の問題はどういう問題かがわかるようになった。あの頃は、生徒の実力を診て、適切な過去問集を取り出して、コピーして解かせた。それから徐々に問題を選び、偏差値を上げていった。この生徒は何が弱いとわかると、すぐ数百冊もあった過去問集から1冊を抜き取り、適切な問題をコピーしてやらせた。この方法は、竹の会の過去問合格法として有名であった。開成でも慶應でもとにかく難関校ならすべて解きまくった。これは中学受験でも同じであった。首都圏の中学入試の過去問は数百冊にもなった。あるときは大学入試の指導にも及んだ。さすがにこのとき過去問を解きまくることよりも、参考書を選んだ。

 地元密着の塾であった。代々木中学、上原中学を中心に近隣の中学生が集まった。勉強しない子、部活優先の子、どんな子でもその子の偏差値では考えられない高校に合格させてきた。どれだけの数の生徒を合格に導いてきたことか。それはそれは夥しい数なのだと思う。天才だって、学年ビリだって、なんだって教えてきた、受からせてきた。高校入試はわたしの故郷、なんでできないんだと生徒や親に失望し、苦悩し、また挑戦し、わたしは戦ってきた。いろんな嫌な親もいたけれど、いいお父さん、お母さんもたくさんいた。もう嫌と言うほどたいていのことは経験してきました。だから今はわがままを言わせて下さい。もう勉強に関心のない子はみたくない、もういいのです。竹の会にきてもう勉強に興味がなくなったのならそれは来ちゃーダメです。竹の会という塾はそういうところだということだけは理解しておいてください。

 わたしは一生懸命にがんばる子が大好きです。勉強する子が好きです。しなくなったなら迷わず竹の会を去ることです。わたしの口から言わせないでください。勉強することが、うれしい、楽しいという子が好きです。そういう子を見ているとなんとか、なんとかしてあげなければと思ってしまうのです。

 また故郷の夜の道を星を見ながら歩いてみたい、そう思っています。今度は母が夜空の星に重なるのかもしれません。

 

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