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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西への道/小石川、両国、桜修館への道/ほしいものを諦めるという我慢がエネルギーとなる

2017.03.12

 おはようございます。春霞漂う朝でした。空は薄く白い幕が覆われたかのような空色からやがて薄い雲が全体に広がってまいりました。それでも雲の合間から差し込む朝日が空全体を明るくしてくれます。今日は渋谷Aの第4回目の指導日となります。3月も中旬に入りましてようやくインフルエンザなどの風邪がその勢いを沈めつつあります。わたしも何度か体調を崩しかけましたが、その度に「ここで倒れてはなるまい」となんとか踏みとどまってまいりました。一昨日には23年小石川合格のO君から「東京工大に合格しました」というメールが飛び込んでまいりました。彼は小4の8月から竹の会に通い始めましたが、最初は、品川区から一人で電車とバスを乗り継いで通うことに親御さんが大変危惧されまして、それでもとにかく通うということになり、最初は時間を短くしたり、早めに帰ったりといろいろ気を遣われたようです。当時の竹の会は渋谷区の元代々木というところにあり、渋谷駅からバスで15~20分ほどかかりました。その彼がたちまちのうちに竹の会が大好きになり、もう目一杯竹の会に通うことになりました。小4が終わる頃には割合もかなりのもので、当時の上級生たちを凌ぐ理解を示し、その才能の片鱗を見せたものです。小5の間に、過去問全国版をなんと2冊も終わらせて、小6のときは、1学期が終わらないうちに同じく過去問最新版を終わらせてしまいました。かれは都合3冊の全国版を終わらせて、7回解き直しもあっという間に終わらせてしまったのです。お母さまが教育熱心な方で毎朝1時間、学校へ行く前に勉強させることとし、そのための教材をよく貸し出ししました。小6になると、当時わたしが完成させたばかりの「適性虎の巻」が気に入り、そればかりやっていました。彼は早稲田進学会の模試では上位の常連で最後の模試では小石川志望者480人中の5番をとっています。中学生になってしばらく反動か落ちこぼれかけたこともありましたが、中2の頃には立ち直り、特に、数学の才能は素晴らしく、常に小石川でもトップクラスにありました。彼をふくめて27年戸山合格者、28年戸山合格者は、みな元代々木教室時代のなかまたちです。お互いに連絡を取り合い、今も助け合っていると聞いております。現役で東京工大に合格したことを心からお慶び申し上げたいと思います。

 28年に受検組の当時の小6たちの中には、小6の1学期はまだ余裕があると誤解してか、やたら習い事、稽古事、家族行事で休む、早退などする子がいましたが、わたしは今の小5、つまりこれから小6になるみなさんには決してその愚はしてはならないと忠告しておきたいと思います。わたしは常々に申し上げているのですが、試験本番は8月であると思って今を今をせいいっぱい勉強しておきなさい、と厳命しております。まだ余裕があると誤解しやすい小6の1学期をやたら勉強以外のことに費やして憚らないという親子がほんとうによくいまして私をどれだけ落胆させてきたことか。それから例年のことですが、夏は最低でも1日7時間です。大学受験ですと、東大、京大受験なら1日10時間はあたりまえです。後で親御さんなどから、だらだらしてやらなかったなどという話しを聞きますと、その重大さの意味がなにも分かってないと思うのです。後でリカバリーできると思っているのです。しかし、9月以降は受検生全員が頑張ります。もし10人の天才が1日7時間の勉強を一斉にしたならば、そしてその10人の天才が夏に1日10時間の勉強をしてきたとしたら、絶対に勝てないでしょ。簡単な理屈です。勉強というのは、今やれるときに最大の力を尽くすしかないのです。後でやる、後からがんばるということを言う親子がいますけどこれは判断の誤りです。竹の会でもせっかく指導回数を増やす措置をしたのに「まだいい」などと言って「後で」頑張るなどという親子がいますけど、他方では、竹の会が用意する時間にはすべて食いついてくるという親子が、特に、Aにはいますから、その差は広がるばかりです。勉強に関しては、「ほどほどにやる」などいう考えは結局陸なことにはならないということになっております。渋谷Aではすでに小4の中から適性訓練に入った子も出ています。勉強というのはやれるときにやる、後ではない、ほどほどなどという勉強観を持っていると陸なことにはならない、これだけは確かです。

 そもそも勉強のエネルギーというのはどこから生まれてくるのか、ということですが、その子の持つ、潜在的な「知に対する」本能というものはあるのかと思いますが、親御さんのもたれる勉強観というのが子どもさんを確実に遠隔支配していることは疑いないのかと思っております。わたしの父は旧制小卒で最後には大きな駅の駅長にまでなった人ですが、働いている間ずっと学歴のないことを悔しがっておりました。学卒の若い人がどんどん偉くなるのを横目に見てきたのです。そういうことを幼いときからずっと聞かされてきたわたしが「旧帝大しかない」と思い込むようになったのは、立派な洗脳であったのかと思います。そうです。親というのは、子どもを完全に洗脳できる立場にあるのです。意図してかしないかは関係ありません。親の生き様そのものが子の未来を決めているのです。その地位はほぼ独占的地位ですからそのもたらす影響も甚大なものであります。親がどのような勉強観を持つか、これが子の中の哲学の核心となるものを決めていくであろうことは想像に難くないのです。勉強よりもやたらとレジャー重視の親ならそのような洗脳がなされるであろうし、勉強よりも部活を通して若い時代に経験を豊かにしてほしいと願う親なら子はそのように洗脳されることになるでしょう。だから親は自分の勉強に対する態度がそれほどでもないのなら子に受検などと言って背馳する行動をとるのは子を混乱させるだけですし、まず子は勉強にそれほど身が入ることもないでしょう。

 わたしは教育とは我慢だと考えております。子どもに我慢させることがひいては子どもに勉強への飽くなきエネルギー源を付与することになる、こう思います。ほしいものを諦めるというのは、その反動、揺り戻しというか、そういうものが、勉強に対する強い思いとして跳ね返ってくると思うのです。このときに、親の勉強観が確固としたものならば、子は確実に勉強に向かう、立ち向かう、と思います。

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