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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西への道/小石川、桜修館へ/勉強する意思と行動の矛盾

2016.09.12

 おはようございます。忍び寄る秋の気配に鋭敏に反応する習性が身についてしまいました。8月の長期予報では、9月は残暑が続くと明言しておりましたが、例によってその反対の様相です。今の予報というのはせいぜい週間の天気と台風の進路予想しかできないのではないか。気象衛星とレーダーでわかるのはそのへんまでではないか。

 さて昨日はAの日でしたが、中学生が2人も休みました。よく思うのですが、かつて平成10年に早稲田実業に合格した鈴木君が中学の3年間一度も休んだことがなかった、平成20年に都立西に合格した女子も小6から中3までの4年間一度も休みというものがなかった、そういうことが実はすごいことなのだということが改めて思われます。

 そういえば平成26年に桜修館に合格した女子は、小5、小6の2年間で休んだのは二度のインフルエンザのときだけでした。あのときは竹の会を休まねばならなかったことを母と子で泣いたと聞いております。勉強にかける思いがちがう、合格する人はちがうと思います。

 勉強する人、勉強をとても大切にしているという人というのがその意思が行動に如実に反映しているものだとよく思います。口では勉強の大切さを言いながらも、週の4日を習い事や稽古事で潰すという人の行動からはとてもわたしには勉強する人としての姿には見えなかったのです。「都立青山に行きたい」と言いながら毎日バレーの猛レッスンを続ける、そういう人の行動からは、その人が勉強する人には見えない、のです。

 今春桜修館から京都大学の法学部に合格した杉山太一君のお母さんからのメールでは、彼は高3の秋まで吹奏楽部長として連日忙しい日を送っていたということですが、彼は塾や予備校にも一切行かないで家庭で勉強したのだそうです。彼からのメールには、竹の会で勉強したときに学んだ勉強のスタイルがいかに役に立ったか、わたしの教え通りに何度も何度も繰り返し解き直したのだそうです。彼のお母さんのお話では確か吹奏楽部の副部長だった女子は東大に受かったということでした。こういう状況にある人が合格したという話しは聞いたことがありますが、そのもともとの持ち合わせた地頭もさることながら、勉強するという意思力においても凡人には及びもつかない強靱なものがあるように感じられます。

 杉山太一君もそうでしたが、鈴木君や西合格の女子などは共通した空気がありました。勉強というものをかけがえのないもの、そう信じて常に行動していた。あの杉山太一君も実行力において凡人とは明らかにちがっていました。小6のとき金曜日100㌻以上の過去問を持ち帰り月曜日にやりあげて出すなどということをした子です。聞いてみると日曜日には17時間勉強していたらしい。彼は小6の10月には私をして「杉山君、君は合格します」と言わせた子です。その実行力においてはすでにして凡人を遙かに凌駕するものがありました。かれはわたしの指示したことを悉く実行しきりました。書道7段という字は、流麗にして丁寧、読むものを魅了させました。わたしが作文でDをつければAをとるまで書き直しました。17、8回は書き直しました。納得の行くまで書き直しました。わたしもいい加減「またか」と呆れるほど書き直してきました。最後はわたしが折れてAをつけるしかなかったのです。終わらなかった。

 鈴木君は柔道部長と生徒会長を兼任でとにかく忙しい人でした。竹の会にはそうした用事を済ませてたいてい18時前後にやってくる。当時は月から金まで毎日ありましたから、彼は毎日来た。これを休まないで続けるというのもすごいことでした。彼の級友たちは河合塾とか代ゼミに通いながら慶應や早実などをめざしていました。蓋を開けてみると早慶その他の難関校には渋谷区の中学で一人しか受かっていないではないか。しかもそれが鈴木君であった。当時は生徒会長というのが内申の公式な点数として加算されていたので、彼はかなり低い点数でも都立青山に合格する条件を得ていたけれど、それはともかくとして大手に中1のときから通い詰めていた級友たちというのはどういうことなのか。実は彼は慶應の一次にも合格したのである。早実は当時は普通部と商業があったけれど彼はその両方に合格した。立教新座も合格した。わたしは鈴木君のような人を指導してきた、見てきた、そこには勉強というものをかけがえのないものと信じる核が常にあった、その一点には曇りなく、それこそがわたしの信頼の根拠にはあったと思う。

 都立西に合格した女子の勉強力は彼女の行動に如実に表れていた。雨の日も風の日も炎天の日も極寒の日もいつも彼女は自分の席にいて黙々と勉強していた。その実行力は並の中学生とは明らかに違っていた。いろいろともっともらしい理由で早退、遅刻、欠席をする子たちとはあきらかに違っていた。勉強する人というのは、行動において表現されているのである。

 竹の会では平成13年に都立西に合格した男子がいた。彼は小6の4月から中学の3年間、そして西高の3年間竹の会にいた。小6のとき、「ぼくは東京工大に行きたいです」と言った子であった。理解力は並外れわたしの教材を難なくこなしていった。彼が中学の頃はまだ竹の会のオリジナルテキストの時代であった。かれは与えた課題をすいすいとこなしていった。中2の初めには漢検2級、英検準2級に合格した。都立西志望でしたが、彼のV模擬の成績は過去に記憶がないほどのものであった。都下の何万人か都立志望者の中で十番台の成績だったのだ。こんな人を見たことがない。彼は9科目中5が8個、4が1個で、推薦合格でした。西高時代も常に50番内を維持しました。彼の志望はいつしか東大に変わりました。しかし、数学で失敗、このときは早稲田の理工には受かっていたのですが、浪人を選び、再び東大受験、このときの模試の成績は3大模試すべてで全国二十番台だったのですが、またしても数学で失敗、結局慶應の理工に行きました。かれは大学院には行かないで、学生時代にはもうさまざまなソフトを開発し、今では資本金数億円のIT会社の社長になっています。その彼が西高時代に竹の会にくることになったのは、当時青山学院高等部に合格した女子がずっと竹の会に通いわたしの指導を受けていたのを知っていて、ずっとうらやましく思っていたというのです。当時竹の会は高校はとらないことになっていた。しかし、その青学の子は例外的に通ったいた。その青学の女子は後に現役で慶應大に合格、上智にも合格した。今は毎日新聞の記者として活躍している。かれはそれを見ていたものだから、西に合格して1か月ほどして母親とやってきて懇願された。情に弱い、特に、わたしが子飼いから育てて合格させてきた子には弱い。実は、さきの青学の女子も小学時代に桜蔭を失敗した子で、有名進学教室で鍛えられた子でした。中学は3年間サピックスです。竹の会には中1の4月から籍を置いていましたが、彼女が中3の11月にサピを止めたのは、伸び悩んだ結果のことだった。中1の頃は首都圏のサピで3番をとったほどの子であった。夥しい宿題のノルマに疲れ果てた彼女をわたしは11月、12月、1月と指導して、なんとか青山学院高等部に合格させた。それで終わりのはずであったが、こんどは彼女のお母さんから懇願された。高校に入るとすぐサピの高校版から強い勧誘をうけたけれど「わたしには竹の会しかなかった」と言われ、説き伏せられてしまった。彼女は青学の3年間、10段階評価で、英語すべて10、数学すべて10をとり続けた。青学の場合、英語なら英語で4科目、数学も3科目に分かれていたと思う。竹の会で指導したのは数学と英語であり、日本史とか世界史、理系科目はない。それでわたしは慶應と上智を数学で受けるように勧めた。これが功を奏し彼女は現役で合格を勝ち得たのだ。彼女通っていた青学では、彼女が竹の会に所属していたことを秘していたこともあって、級友たちがみな予備校などに通っていて慶應や早稲田をみな落ちていたので、彼女の合格は当時青学でかなり話題になったと聞いております。

 わたしは勉強する人を見てきた。わたしは勉強する人を指導することこそ喜びと思ってやってきた。

 竹の会に通われるみなさんはわたしの真の心のありかを知ってどうか勉強する人としての行動をとってほしい。

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