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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西への道/小石川、桜修館を獲る/工夫という精神作用

2016.08.19

 おはようございます。竹の会の夏も本日中旬最後の指導を終わり、来週はいよいよ下旬の日程へと突入していきます。去年はどうだったのか、正直毎年の夏はいつも後から考えると一瞬のできごとのようでした。ただ今年はゲリラ豪雨や台風並みの低気圧に襲われることもなく、本来の台風さえもまだ直撃しておりません。まだ暑さはこれからですが、なんとかこの夏を乗り越えられそうで体力がなんとか持ちこたえそうなのが望外の喜びでした。

 この夏の終わりに際して、このまま竹の会で指導を続けることをもう一度問い直していただきたいと思います。竹の会は意味もなく通うということを回避するのは当然の塾の良心と考えております。いや極端に言えば毎月が竹の会から言えば指導の責務を果たせたのかを問われるべきであり、親の側から言えば、子どもがただ通うだけとなっていないかチェックすべきことであり、子どもが不熱心であればそれこそ大問題であり、即刻退塾させるべきでしょ。竹の会は巷の塾、大手塾のようにいったん入ればどこまでも引き留めていく、そういう商売気はありません。これはもうダメだと思えば即刻退塾させる、意味もなくカネをただ納めるだけなどということはあってはならない、だからわたしは竹の会の指導が意味をなしていない、子ども特有の様々な症状には敏感に見極め、できるかぎり親御さんにお知らせして英断をされるべく求めてまいりました。

 意味もなく子どもを通わせるということにわたしが敏感なのは、指導ができていない子を竹の会におくことがストレスになるからです。わたしの性分なのだと思います。指導が成功もしていないのにカネをとる、これは詐欺でしょ。だからわたしはわたしのほうから正直に申し上げているわけです。竹の会は小塾ですので、商売本位なら他塾のようにだれでも入塾させてあとはできるかぎり商売をする、という道も当然ある、しかし、竹の会はそういう道はとらなかった。入会試験で入会を制限し、落ちれば断る、事実これまで多数の入会希望者を断ってきました。去年などは入会試験不合格者ばかりで新規入会者はほとんどなかったのです。それでもわたしは入会試験で勉強する意欲の強い子をのみ求めてきました。小学生が集まらずとうとう、もともとの専門ではありましたが、中学募集に踏み切らざるをえませんでした。

 世の親というのは、よくわからないところがあり、こちらが良心的に行動する、教育的配慮を見せる、そういうところで過剰に、過敏に反応し、ヒステリックになる、そういう、特に母親というのがよくいます。良心的に、正直に生きて「恨まれる」ということです。むしろ巷の塾のように、親や子に阿り、可能性のあることを根拠もないのに臭わせていつまで騙す、引き留める、そのほうが好意的に終わる、そういうところがあります。世間の母親というのは、「あなたの子はうちでは預かれません」と言われると気分を害し、「なんとかなりそうです」と言ってカネをとる塾には熱心な塾だと言って喜ぶ、そういう傾向が強いのです。

 わたしはもう若くありません。ですから自分のやりたいようにやりたいのです。それで塾が続けられなくなればそれで終わり、ただそれだけだと思っています。意に沿わぬ親や子をみる気は毛頭ありません。そういうストレスをがまんしてかかえていくなんて真っ平ご免です。わたしは自分のやりたい、わたしが本物と納得した指導を全力でやる、それだけで十分です。だから勉強しない子などいらない、こなくていいと思っています。ただ最近巷に存在するボランティア塾をやっているわけではない。わたしはその道のプロとして相当の対価を得て子どもたちを請け負っている。しかし、プロである以上、対価に見合った仕事はしなければならないといつも自らにプロの果たすべき仕事の質を吟味し、自分に仕事を課しています。提供する内容は常に最高の品質を意識して仕事に没頭してきました。最高のものを提供する、これだけは譲れない。

 このところ小5の子たちを中心に竹の会の本来の指導の質というものを知ってもらうために、本来なら小6になって使うレジュメの一部を試しています。今小5の子たちはまだまだ割合発展途上の子たちばかりで、思考は低レベルにある、わたしはそう見ています。しかし、最近どうも計算を適当にやっている節がある、それで計算が正確に出せないということがどういう結果をもたらすのか、それを知ってもらうために、小6用の「適性のための計算問題」を知ってもらうことにした。案の定小6をふくめてひどい結果でした。唯一解き直しですが小5が1名のみクリアです。それにしても今年の小6はひどい。なによりもそういう自覚というか、危機感がないようで、小6なのに勉強集中度がなっていない。小6が今退塾を申し出ればわたしは喜んで受け入れるでしょうね。

 適性とは、「工夫」の精神を問うものである。未知の問題、初見の問題に遭遇して、「わからない」という中からなんとか、手がかりを見つけ、解決の糸口を見つける、そのために問題を何度も読み、工夫する、いろいろ工夫する、そういう精神が問われているのではないか、そういうことです。ですから、わたしたちは、普段の勉強で、そういう工夫の精神を培わなければならない。問題を見てなんの工夫もなく、すぐ、そしてただ「わかりません」などという子などいらない、ということです。与えられたことしか、教えられたことしか、できない子なんかいらない。昨日、公式の話しをしましたが、公式というのは、両刃の剣です。あれはへたをすると思考をしない癖をつくりあげることになる。公式にあてはまらないかとばかりに注意が向き、問題文を仔細に、具に、読み解くことが留守になる。ちがうでしょ。問題文はていねいに読み解き、なにが問題なのかを突き詰める、そしてここが大切なのだが、不可能に思えるのもそれはただそう見えるだけで必ず「普通に」考えればたどりつく正解の糸口がある、そこです。そこでいろいろと思考をめぐらし、工夫する。

 よく「考えてます」と言う子が、全くといっていいほど事実を把握していない。思考が足りない、浅い。ただまじめで熱心なだけでもダメなんですね。センスの良さというのがやはりある。子どものもって生まれたセンスである。小5の女子にこれを見た。小6にはこのセンスのいい子というのが、もしかしたら片鱗としては1名、男子ですが、あるかもしれない。しかし、どうも不器用である。これまで洗練された指導というものを受けてこなかったとしかいいようがない。だから、塾で失敗したらもう取り返しがつかない。ただ今年の小6は、勉強熱心さという点が致命的に「ない」と見るほかない。

 工夫が試される試験を受けようとしているのに、工夫しない、工夫の欠片もない、ただ人の工夫を聞いて「わかりました」と言うだけでは、なにも期待できないでしょ。

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