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日比谷、西への道/小石川一直線/バカは気を遣わない

2016.09.04

 おはようございます。本日から9月の指導がスタートします。今日は「渋谷A」の第1回指導日です。今日は暑さも和らぎもうすぐ秋なのか、かすかな気配を感じるのはただなる秋への願望にすぎないのか。気象庁の8月の予想では、9月は厳しい残暑ということでしたが、さて本当なのか、あれほど予算を投じて科学を売りにしてきたはずの気象庁はよく予想を外します。熊本地震のときは「判断放棄」を宣言までしました。

 ただ台風の進路予想と明日の天気はレーダーや気象衛星の発達でかなり正確に予測できるようにはなりました。しかし、長期予測は無理なようです。地球的規模の気圧の予測(変化)などそもそも不可能と思えるからです。大気の流れだって自転を計算に入れるとしてもスーパーコンピューターを駆使してもどこまで正確に計算できるのか、そもそも宇宙に漂う地球だけのことではあるまいと思えてしまう。

 バカは気を遣わない、と言いましたが、その通りでしょ。周りや他人に気を遣わない、いや遣えないのと同様に、自分にも気を遣えないのがバカのバカたる由縁です。そもそもバカというのは、無駄なことばかりする、無駄ばかりするからバカなのです。職人でもなんでも「名人」と言われる人は無駄な動きというものがない。道具を使うときも無駄がない。いや規則正しい、実に規則正しい動きをする。これに対して、バカの動きはあまりにもデタラメである。不規則という言葉では形容できないくらいにデタラメである。

 よく無駄のない動きというのは、円の形に喩えられる。争いは「円満」に解決する。物事は「円滑」に進める。地球も円に近い。そしてその円が楕円の軌道を公転する。どうもものの本質には周期というものが関係しているようだ。リズムいうが、それは周期にかかわる発想ではないか。周期というのは規則正しい繰り返しであるが、一日の生活も日々の生活も周期そのものではないか。

 ところで勉強というのは中断させると振り出しに戻るということを知っていますか。中断したらつぎに始めるときその続きということにはならない。人間が「忘れる」動物であるということも関係するのかもしれない。たとえば、夏休み1週間勉強を休めばそれまでの勉強は無に帰する、そう考えてちょうどいい。勉強の周期というのは、継続ということが当然に内包されている。これがわかっていないバカ親がいかに多いことか。毎日のようにしかもさまざまな習い事や稽古事をスケジュールに入れている親というのは、最初から「継続」という、勉強においてもっとも本質的なことを放棄しているのであるから、いかに熱心に受検について態度を示そうともすでにして終わっている。勉強、受検ということを最優先価値とするならば、他の余事はすべて無駄である。

 そもそも自分の子が天才でもなければ自分の子にあれもこれもと授けるのはバカの骨頂である。

 勉強とはがまんである。だから親のすることはがまんを教育することである。ていねいに字を書かせる、これも最初は特にがまんの要する教育にほかならない。がまんというものがただ「耐える」ことで終わっているうちは教育は終わらない。がまんとは自分を律する力である。ただ耐えるだけでは、つまりそういう受動的な精神のままでは勉強などできる、いや続けられるものではない。律するべきところは律し、つまり心を能動的に支配し、気を勉強に傾ける、集中する、これががまんの実質でなければならない。「気」を勉強にのみ遣うのである。しかし、同時に、他人に、周りに迷惑をかける、つまり他人の「気」を乱さないように「気」を遣う、これを「律する」と言うのである。

 バカは当然これができない。勉強もただの「忍耐」、「耐える」で、それ以上にはならないから、退屈し、「気」を散らす、「気」を紛らす、「気」もそぞろに無駄な行為、行動をすることになるのである。

 訓練というのはただに勉強、レジュメの練習だけを言うのではない。「気」を遣うことを訓練するのである。己を律することもできない人間がそもそも受検で、勉強で成功することなどありえないのである。「気」を思いのままに遣う、これが訓練の目的である。勉強というのは、生活そのものである。勉強を習い事かなにかは知らないが、中断ばかりしているようでは、そもそも勉強というものには無縁の人たちということではないか。もっと言えば、生活とは生存である。生存のための行動である。そして生活のための、生存のための行動は、競争、生存競争とまで言わなくても、本質的に競争にほかならない。

 こうして勉強とは、生存のための行動にほかならない。他の習い事や稽古事は本質的に生存に関わらないから無駄と言うのである。

 自分を律することのできない人間になんかなつてはならない。無駄をなくすのは、円に近づくためである。毎日の生活を円に近づけるためである。自分を律することができない人間は、毎日思いつきで、好きなことをやり、嫌いなことからは逃げる、円とはほど遠い、幼児の落書きのような生き方をしている。

 ゲームに没頭している、嵌まっている人間がいるとして、それはもはや円とは違う、生存とは関係のないところで、無駄にエネルギーを注ぎ込んでいることにほかならない。

 勉強とは、自分を律する訓練である。自分を支配的に動かす「気」の力の訓練である。「気」をはたらかせる、そういう場こそ本質である。そういう機会こそ本質である。いいですか。余程の天才でない限り、大手などに行ってはならない。いや大手ということではない、旧態依然とした教授法をとる限り、地元の弱小塾、個人塾でも同じことである。

 勉強とは、自分を支配する訓練にほかならない。「気」を能動的にコントロールする訓練と言ってもいい。竹の会でいうところの「指導」とは、この「気」を「生かす」さまざまなナビゲーションを言う。

 大手にいた子というのが、どうして定型的な思考パターンしかとれないのか、いや思考停止のスイッチを簡単に押す子たちばかりなのか、それこそ大手の教授法のガンである、ということを早くに悟らなければならない。しかし、世のバカ親たちが、ただ「大手」というだけで、中身のない、つまりは実質的な根拠もないのに、自分の子をなんの躊躇もなく預けてしまう性向にはもはや塗る薬などない。薬で治せないのはバカだからである。なにかを信じてしまった人間を、つまり「気」を律することを知らない親が飛びつく暗示の積み重ねで洗脳されたらもはやだれにも止められない。バカはバカの結末を結果で知るしかないのである。

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