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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西一直線/小石川、桜修館へ/勉強強豪塾竹の会

2016.08.13

 おはようございます。台風6号の影響か、雲の多い夏日です。今年の夏は「渋谷A」の子たちを「鍛える」、「訓練する」ことに専念しております。果たして1日7時間の勉強を実行できている子が何人いるのか、わかりませんが、その答はいずれ合格発表の掲示板が明らかにしてくれるはずです。これは小5とても例外ではありません。平成27年に桜修館に合格した女子が、竹の会に小4の2月に入会し、それから合格するまでの2年間休んだのは2回だけ、それもインフルエンザのためでした。親御さんにはいつどんなときも竹の会を休むという観念は全くなかったように認識しております。世間一般のみなさんがよくやる、実家に帰省とか、法事とか、家族旅行とか、お正月帰省とか、いうのがとんとなかった、これはどういうことだったのか、わたしの想像を超えています。本年九段に合格した女子でさえ、小5の夏は、1週間ほど実家のある北海道に帰省していましたから、それが普通の家庭なのではないかと承知しておりました。ただこれだけは言えます。合格する子の家庭というのは、竹の会の重きの置き方がまるで違う、ということです。

 そして以前とちがってこれだけはわたしにはわかるのです。掲示板に番号がないのはそういう家庭の子たちに限られる。

 竹の会に入会するには、特に、渋谷Aに入室するには、「入会試験Ⅰ」に合格する必要があります。それもできれば「A合格」以上が理想です。さらに、試験を受けたのが小4の2月までというのが理想的です。これまでの実際例で一番早いのは、小4の7月に「A合格」です。「A合格」以上の子というのはその後の伸びが全く違います。ただ竹の会で今年富士や白鷗に合格しておりますが、実は「準合格」、「準準合格」の子たちでした。「準準合格」というのは、制限時間の2倍、3倍かかった場合です。今は制限時間厳守ですからこれはありません。

 入会試験Ⅰの第1問と第2問は小3を対象にした入会試験Ⅹと共通です。この2問を解くというのがひとつの分岐点なのかなと思っております。これまで多くの小5、小6そして中には中1までもがこの入会試験Ⅰに挑戦してきましたが、「全問不正解」というのが、かなりの数に上る、というのが現実です。「2問正解」、つまり「準合格」にも届かないという子たちも多かった。入会試験不合格者、特に、「0点」というのは、指導そのものが無理なのではないか、という無力感をつきまといます。竹の会では、入会試験不合格者を例外的に受け入れて、最長で10か月、最短で3か月、実験指導をしていますが、成果の思わしくない子についてはこの8月で打ち切りと決めています。該当者には近日中に個別に文書にてその旨お知らせする予定です。

 親御さんは気軽に「退塾します」とメールしてきてそれで終わりですが、塾からだとそう簡単ではない。頑と認めないという母親もよくいましたが、わたしもメール1本で終わりにしたい心境です。メールで終わりにならないのは、こりゃー絶対不公平でしょ。

 さらに、今後は、「「渋谷A」も含めて、適宜「試験」を実施し、これに不合格を理由に、退塾ということも検討しております。努力しない子、勉強しない子をいったん入会したらそのままかかえていくということは自然に反し、苦痛でもあるからです。これまで入会試験に合格しても「伸びない」、「できない」という子たちも少数ながらいたわけです。ただし、正規の「入会試験Ⅰ」A合格者にはそういう例はありません。これは本人はもちろん親御さんにとりましても悩ましいことかと思います。正直竹の会から退塾してください、とは言いにくいものがあります、ただ平成26年の3月には、そういう子たち2名ほどが退塾を選択しております。以後その例はありません。竹の会から退塾を告知するには、あまりにも子どもたちが竹の会をかけがえのない存在として心の拠り所としていることがひしひしと伝わってきたからです。

 そうなのです。竹の会の子たちというのは、竹の会に入会するとなぜかみな竹の会が好きになる、いつしか竹の会をかけがえのない存在にまで思ってしまうようなのです。これがわたしが去年退塾させるべき子を退塾へと踏み切れなかった理由です。いやもっと、そう深刻な問題ではなく、竹の会の判定試験に落ちたから竹の会にはもういられない、と軽く言える、そうなってほしいのですが、どうも深刻になる。竹の会とはそんなところだとみんなに思っていただけたらこんなに気が楽なことはない。しかし、去年なんかもそうですが、なかなかそういうことにはならない。

 竹の会の子たちは、勉強という一点において曇りがなく迷いがない、そうわたしは信じております。竹の会は今「勉強強豪塾」となりつつある、わたしはそう実感しております。わたしの指導を受けた子たちが、昨日よりも今日、今日よりも明日と、確実に、それはこれまでわたしが何度となく見てきた、あの感覚、まるで絵に描いたグラフ、上昇曲線のグラフのように、伸びていくのがわかるのです。子どもたちは、いや一定のある層にある子どもたちは竹の会という水を得た魚のように生き生きとして成長していく、それがわたしにはわかるのです、見えるのです。

 一定のある層にある子どもたち、とは? 端的には、竹の会の入会試験Ⅰをクリアした子たちです。そういう子たちが実は「できる」子たちに限られるわけではない。よく学校の内申(通知表)の評価で、「よくできる」が8割前後が、入会試験合格相当ではないか、と言いますが、一応の基準です。学校では、優等生に属する部類でしょう。ただこれが大手に行けばたいていは潰される、ポンコツにされるというレベルでもあります。つまり、決して天才ではない。竹の会はこういう部類の子たちを伸ばす。天才が集まるサピや日能研、四谷大塚などのトップクラスにいる天才たちとは明らかに一線を画されるが、磨けば、鍛えれば、そういう天才たちに迫れる位置にある、とわたしは思っています。つまり、こういう部類にある子たちというのは、鍛えれば、訓練すれば確実に伸びていくのです。しかし、こういう子たちを伸ばせるのは少なくとも大手ではない。そして巷に溢れ個人塾、中小塾なのかというと、その中に本物があるかは、わたしにもわからない。ないとは言わないけれど見つけるのは難しいと思う。

 学校の優等生が竹の会に出会うのはかなり確率が低い。まずそういう優等生の親というのはほとんどが大手に行くからである。地元の個人塾だとどうしてもできない子たちが集まる。つまり、地元の個人塾は、地元の「できない」子を顧客とする塾ということである。竹の会も地元塾と変わらないほどに小さな塾ではあるが、ただこういう「できない」子たちについては、そのような地元塾にお任せしたい。

 竹の会は、小さいながらも、勉強強豪塾として、その存在根拠を示しつつある、今年は初めて竹の会が23区の人たちに少しだけですが、認知されつつある、そのように実感しております。渋谷教室は2012年5月6日のスタートでしたが、この4年間さしたる人がどうしても集まらなかった、5年目の今年に入って、初めて少しずつ認知されるようになってきた。竹の会は昭和60年10月開業ですから、今年は創立31年になります。ようやく竹の会がわたしが想い描いたとおりの勉強強豪塾として地を固めつつあるようです。

 生徒を集めるだけなら苦労はしなかった。なぜって、竹の会では去年だけでも十数人が入会試験試験に落ちて入会を断っている。今年も事情は同じですでに入会をお断りしたのは20人を超えている。地元塾にはもったいない話しなんでしょうけど、竹の会はずっとやせ我慢して決して竹の会の信念を曲げることはしてこなかった。だから去年なんかほとんど生徒が集まらなかった。わたしは集まらないならそれでいい、無理してバカを集めて、もう苦労したくない、というそこだけは絶対に譲れないと思っていた。できない子というのは、勉強を教えるということ以上に、どうでもいいストレスが多すぎた。勉強以外のことで力を消耗してしまうのである。まるで保育園児レベルである。大声を出す、ドタバタする、諍いを起こす、いたずらをする、など目が離せない。いくら注意しても保育園の子がよく言うように「○○くんがやったから」というレベルになる。もうそういう子はいいと思っている。わたしは勉強以外のことで、つまりわたしの指導という才を使うことなく愚にもつかないことで時間を潰すのはもういい加減勘弁してもらいたい。

 わたしは竹の会を勉強強豪塾とすることを秘かに想い描いてきました。竹の会に入る、いることが、名誉だと思われるほどに、竹の会という塾を高いステージで維持し続けること、それは痛みを伴うことを当然の前提とすることでもある。勉強しない子は竹の会にいてはならない、これだけは譲れないことでした。

 わたしは巷に溢れる小学生というのが、実は訓練も何もないバカ犬と変わらないままに多数棲息しているということを知っています。いや予測はしていましたが、世の中の個人塾やら大手塾やら、あるいは、自宅で通信を受けているという子たちが、実はまるで訓練されていない子たち、その意味で訓練されていない駄犬なみだということをこの目で確認したのです。親は大手に行っているから、地元の塾に行っているから、と楽観している節もあるが、バカの行く末はいずれそういう脳天気な親の目の前に突きつけられることになる。

 竹の会は、わたしは、子どもというものがどうすればそれなりのきちんとした人間になるのか、ということをわかっているつもりです。子どもというのは、訓練しなければダメなんです。まず、やるに任せるなどは、天才以外はありえないことです。子どもというのは、一般の塾のように、テキストの目次に沿ってカリキュラムを組み授業をし、子どもは授業を聞きノートを取り、帰って復習し予習し、単元を進めていき、1年経てば修了というやりかたではダメ、何も変わらない、ということである。もしこれをバカな子にしたらそれは時間とカネを無駄にするだけです。学校の優等生ならどうか。まず伸びることはない。陳腐な子にしてしまう蓋然性が高い。天才だけです。もともとの天才だけが、自らを切り拓くことができるのです。

 竹の会は、学校の優等生を想定しています。それより下の子たちは、相手にしないのではなく、わたしには無理ということなのです。それは勉強以外のことで頭を悩ますことがほとんどになる可能性もあり、本来の勉強もとても成功裏に進めることなどとても無理ということです。

 竹の会は勉強強豪塾としてその存在根拠を示したい。それは指導歴30年以上に及ぶわたしの到達点です。子どもというものをどう指導すれば伸びるのかが、わたしにはわかるのです。そしてわたしが指導して伸びないとしたらもはやその子にはそこまでの才能がない、それだけのことだとわたしにはわかっています。持って生まれた才能以上のことを求めても無理です。ともすれば親は「できない」という現状を認めたくないゆえに「やりかた」の問題として、解決できると思い込もうとしますが、徒労に終わるでしょうね。

 わたしはわたしの想定内の子であれば、訓練されていない優等生を類い稀なる秀才レベルに引き上げることができます。これはただ言っているだけではなく、実際にわたしがやってきた事実を根拠にしてそういっているのです。嘘偽りのないこと、それが竹の会です。わたしにはそういうレベルの子を引き上げるだけの根拠と自信があります。この子をどう訓練すればどこまで伸ばすことができるか、およそわかるのです。そして伸びた子がそれ以上伸びるかは伸びた時点でまた判断する、それ以上伸びると確信することもあれば、ここまでの子と思うしかない子もいる。

 ほんとうに成功する子というのは、実は最初からちがう。閃きがちがう。知能の深さというものを感じさせる。これはまじめな努力家には真似のできないものです。まじめな努力家はもちろん努力で到達できるという範囲はある。今年九段に合格した子などはまじめな努力家でした。そういう子でも秀才には仕上がる。要は、訓練すればいいのである。ただし、家庭学習もできない子には無理である。課題など出しても一度でもうわけのわからないことになる、そういうバカはだめである。家庭学習が訓練してできるようになるかと言えば、わたしには訓練のしようがない。家庭の問題である。家庭でどれだけ訓練してきたか、ということである。何も訓練しない、ほったらかしの家庭では勉強なんかするはずもない。やはり母親がしつけてこないとダメでしょ。甘やかし放題だともう言うことなんか聞かないでしょ。親を舐めてるんです。なにをやってもやらなくても自分は楽なままなんですから、言うことなど聞くはずはないのです。

 わたしは自分で指導の天才だと思っています。わたしの手にかかればまず子どもたちは伸びていく、力をつけていくことがわかっています。手に取るようにわかるのです。力をつけていくことがわかります。能力を伸ばしていくことがわかります。わたしはいつもそう言ってきました。竹の会という塾を世のみなさんに知ってもらうために、竹の会とはいい塾ですよ、訴えてきました。しかし、それを真に受ける親なんかいるはずはない。自分でいい塾ですよ、と言って、はい、そうですね、などという親なんかいるはずがない。しかし、竹の会にはほかに宣伝する方法がないのです。宣伝すれば必ず親は「またか」という顔して、実に胡散臭い顔するか、頭から信じていない顔をするわけです。信じてもらえない。これが無名の小塾の宿命です。それでもわたしは負けずに地道に訴えてきた。実際に竹の会に入りわたしの指導を受けた子たちが嘘偽りのないことを実証していった、そしてその積み重ねが少しずつ竹の会という塾の真実を世の心ある親御さんの心に響き、動かしてきた、そういうことではないかと思っています。

 竹の会に入れば、すぐに訓練が始まる。その訓練の過程を通して、大手や地元塾の方法がいかにつまらないものか、そういうことを悟るはずです。

 特に、言っておきたいのは、竹の会というのは、高校入試指導については、進学専門の大手などはるかに凌駕していると思っています。中学受験では、サピや日能研などがすぐれていることは認めます。ただたとえば、早稲アカやサピでも高校受験では竹の会はその上を行くと思っています。わたしは高校受験の専門家です。いやプロです。これだけは自信と根拠があります。竹の会で指導を受ける中学生は高校受験では類い稀なる塾にいるのだということがいずれわかるときがくるはずです。

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