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日比谷、西一直線/小石川への道/竹の会という指導の妙を知る~身につけるべきは勉強という姿勢

2016.07.29

 おはようございます。梅雨も明け東京は夏日となりました。本日から渋谷Aの8月指導が開始いたします。8月は気がつけば終わるほどに速い。一日一日、「今を」生きる、そうすれば勉強しない日、4時間にも満たないで勉強した気になる、などということは考えられないことです。ある哲学者は、人は、未来のために生きるのではない、今を生きる、のだということを言っておりましたが、その意味するところは、なかなかに深い。未来のために現在を犠牲にする、そういう考えで勉強しているわけではない。未来を信じないからこそ今、このときに勉強するのだ、ということです。「現在ただいましかないという生き方」をすること、これは目的を捨て去ることを意味しない。今を生きる、というのは、勉強するしかない、という選択の必然性を悟ることである、とわたしは思う。今を考える、これはとりもなおさず先人の遺した無限の蓄積を知るということである。すなわちわたしたちは勉強するしかないのである。哲学者は言います。「自分の背後に、過去の無限の蓄積を見出すこと」である、と。今ある自分を考える、それは過去に、先人の知恵に学ぶことにほかならない。わたしたちは勉強するしかないのである。

 現代は後知恵社会です。テレビや新聞、これらは腐ったメディアの代表ですが、そう、真実を報道しない、事実を隠蔽する、そういうメディアは腐っているのです、そういうメディアで知ったかの、他人の言ったことを平気で自分の意見とする連中が、闊歩しています。何か起きればいつも結果論、後知恵の論理で、最初からこうすべきであった、ああすべきであったなどと言うわけです。弁護士や医師などが大きな顔をして、好き勝手を言っています。彼らはごく狭い分野の専門的知識を持っているにすぎません。それを世間はまるで医者と言えば、弁護士と言えば、まるですべてを知る人のように扱う。そういう人間たちが、また知らないことに圧倒的な自信をもって口を出す、わけです。こういう人間は、利害で平気で信念を変える、いやもともと信念などないのですが、とにかく言うことは、後知恵、他人の意見の借用ばかりです。いや専門家と言われる人たちがどれだけ嘘つきなのかということだけは知っておいたほうがいい。

 わたしたちは、もはやこうした専門家と社会的制度でされているだけの人たちの言うことを鵜呑みにしていては生死にかかわるということを知らなければなりません。メディアが原発の現実をどれだけ伝えてきたか、福島の事故のその後の自然界の現実は何も伝えられない、まるで事故などなかったかのようにメディアは、恐ろしいくらいに沈黙を護る。これはかえって不気味です。これだけ何も報道されていないと、事態はかなりに深刻なのではなかろうか、そう思わざるを得ない。われわれは新聞やテレビで報道されることなどどうでもいい、報道されないことにこそ目を向けなければならない。政府の嘘が知らぬうちにわれわれを死の淵に立たせる。都合の悪いことはすべて隠され、なにもなかったかのような日常が擬態される。これは恐ろしいことである。

 大手塾に通っている子、親というのは、勉強というものを完全に誤解している、勘違いしている、と思いました。大手の夏期講習など受けるだけ無駄だということがわからない。そもそも何か知識を得ようという態度、考えが間違っている。そういう態度では、いつもどこかで知識を買うという発想から逃れられない。知識をカネで買うという発想です。知識は与える、与えられるものとして疑われない。思考でものごとを解決するという態度、こういう人間にとっては、知識のもつ意味も違うということです。思考が主人で知識は使用人です。大手に子どもを通わせる親は知識が主人で思考というものに重きを置かないから、いつも何々講座、何々ゼミ、志望校別講座などで何か特別の知識を手に入れられるのではないか、と期待して追いかけることになる。思考がないままに、そのままに1年、2年を過ごす。バカです。

 形だけの、形式だけの大手の夏期講習などただのこなし仕事だということにも思い到らない。小4,小5という時期に身につけなければならないことがある。この時期を逃したらもう二度とそのチャンスはない。考えるという経験を積むことである。考えるきっかけ、刺激にできるだけたくさん出会うことである。竹の会は、特に、算数の中の割合という概念を思考を引き出す道具概念として位置づけた。大半の小学生がまともに理解することのないままに中学生になってしまう、そう、例のあれ、つまり割合である。割合を基軸におくと前提として分数、小数の理解が求められる。分数や小数は計算という、特殊な技能を要することでまたひとつの壁となる。竹の会では、計算をなんなくこなすことをまず重視する。その上で「割合」という概念を軸として、さまざまな概念、定義を学んでいくという構成である。割合は竹の会独自の指導システムによって円滑に理解が進むことであろう。子どもたちは小5の一年間を割合いう世界で常に思考をはたらかせるという生活をすることになる。この一年間の貴重な経験が多くの稔りある成果をもたらすことは予測に難くない。多くの竹の会の出身者たちが口をそろえて言うのは、竹の会で考えるということ、勉強するという姿勢、集中するということを学んだ、と言います。竹の会では、割合を理解するという思考訓練を通して、実は、その真の狙い、勉強するということとはどういうことか、勉強するという姿勢を体得させていた、ということに気がつくときがきます。勉強というのは、ひとりで孤独に耐えながらじっとがまんしてするものだということを学んでいくのです。いつもだれかに教わる、教えてもらう、いつも考えるより先にだれかが説明してくれる、だれかに聞いている、そういう生活を1年、2年と続ければどうなるか、だれでもわかりそうなものですけど、大手に通わせるバカ親にはわからない。バカを説得することほどバカらしい、虚しいことはない。洗脳された信者に事の理を説いても虚しいばかりである。

 バカは死ななきゃ治らない、というけれど、それは真理である。

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