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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西一直線/桜修館、小石川をめざす/思考とは何か/もって生まれた脳の質というものが

2016.09.27

 おはようございます。どんよりとした天気です。秋雨前線というものが梅雨前線に負けず劣らず湿気を含んだ空気なのだということを学習させてもらっています。空気は冷たくても締め切ると蒸し暑くて適いません。季節の変わり目はどうしてもお年寄りは当然として子どもたちが風邪をひく、熱を出しがちです。先日塾の女の子がマイコプラズマ肺炎に罹りまして竹の会のみなさまで咳が止まらない、39度の熱が出た、という場合はこれを疑ってみてください。潜伏期間が2~3週間と長いので感染の心配はあります。マイコプラズマの菌には細胞壁がないためある種の抗生物質は効かないとされています。初期の段階ではただの風邪との区別がつきにくく誤った抗生物質を投与して悪化するすることもあります。咳が止まらない、39度の熱が出たという場合、医師に周囲にマイコプラズマに感染した子がいたということを申告するようにしてください。

 中学はすでに定期試験が終わり結果が出つつあるところ、これから試験というところ、区々ですが、いずれにしても中学は定期試験という区切りが必ずあります。その都度学習の達成度がチェックされることになります。そのたびに塾としての対応を迫られる。今後の指導の可否を迫られる。指導を継続できないとの判断も当然ありうる。竹の会では、少なくとも新宿、駒場、あるいは小山台を最低ラインとしておりますので、竹の会で指導の対象とする中学生については入会資格、継続資格を厳しく吟味しております。小4の段階で「入会試験Ⅰ」においてA合格をとれるほどの子であれば心配ないと思いますが、受験適齢を外せば見通しはかなり暗い、これが本音です。竹の会には、小5でA合格どころか入会試験に合格できなかった子や小6でも辛うじて合格判定という子もいます。仮に小6でA合格としてもそれは額面通りには信用できません。受検適齢は飽くまでも小4です。小4の8月前後にA合格以上が理想です。小6の9月以降に準合格だと中学ではかなり厳しい予想です。

 能力というものはもって生まれた才能であり、これだけは後から付け足すことはできない、そういう現実を前提として、わたしたちは自分の人生というものを選択していくしかない。能力がない子が他人の百倍勉強しても、進学塾に通い、家庭教師までつけて、がんばっても結果は知れている。親というのがこれを無視するところから解決不能の問題で悩むことにもなる。能力は直視するほかない。そして認めていくしかない。

 竹の会ではまず指導が可能なのかどうかを問題にしている。竹の会のような小塾が入会試験などやるのは笑止と思われる人もいるかもしれないけれど、現実問題として指導というものが不可能な子が存在する以上選別は避けられない。入会試験に合格してきた子についての指導は超一級の指導でなければならない、これがわたしの矜恃である。入会試験をやる以上、竹の会に入会したならば最高の指導が用意されている、これは当然である。入会試験に合格したら「伸びるのか」という話しもあるけれど、必ずしもそうではない。A合格してもわからない。入会試験はまだ万能ではない。外すこともある。考え方が「甘い」子というのがいる。幼いのである。幼いが故に見えてこないことというのがある。これは能力の問題ではないので早晩解消される可能性はあるけれど受検までに解消されるという保証はない。

 竹の会というのは、指導して見通しのもてる子を指導する、そういう塾だととっていただいていい。もちろん竹の会の指導のノウハウが竹の会の期待する能力のない子たちにもそれなりに効果を有するということは承知している。しかし、それもある程度まで、ある段階までは到達できるけれどそれ以上はない、ということが経験上わかっている。

 竹の会としては、子どもがまず勉強するという一点で迷いのないことを前提として、親子が勉強を最優先する姿勢がなによりも大切なこととしています。そのうえで示される「実行力」をなによりも評価します。竹の会には、このレベルの子なら竹の会の方法で指導すれば必ず合格するだろう、という見通し、それももし高校入試なら99%確実な見通しがあります。都立中受検については、指導の過程であきらかになる事実にたびたび驚かされる、ということがある。思わぬ能力の一端を見たり、逆に、能力的な限界を直感するということもあります。小学生の指導というのは日々が劇的です。ドラマチックです。時として才能の一端を示す子に出会うこともあれば、見込んだ才能が見込み外れだったということもよく経験します。だから小学生というのはやってみなければわからないところがある。

 これに対して中学生というのはすでに能力というものが確定していることが普通です。実は小学生の4年の時の能力がそのまま中学生の能力を規定している、そう思います。だからこそ高校受験は小4から訓練する必要があるのです。受検しないので自宅で自由にしてきたという子はやはり終わっています。あるいは大手で2年、3年と勉強してきたという子が受検に失敗したというケース、これが圧倒的に多いケースなのでしょうけれど、こういう子たちも大半は終わっています。そもそも小学生に何を学ばせるか、です。大手で、テキスト・授業という形式でやってきた子たちというのは、いろいろな弊害をまともに受けてきた子たちです。授業するのは、たいていは学生講師です。ですから講師の質によっても左右されます。かれらは「教える」ことがいいことだと信じています。教え方とか、わかりやすい、ということに価値があると信じています。それから「易しすぎる」テキストも問題です。これを使って授業する、子どもたちは「聴く」、「ノートをとる」、達成度テストがまた「だれでもできる」レベルだと完全なバカ育成システムということになります。学校の優等生でもアホになるシステムです。こういうのがそのまま中学になっても少しも恐くないでしょ。中学の授業のレベルも知れていますから、よく塾にも行かないのに学校で1番とかいう、特に女子がいますけど、その中に真の天才は数%でしょ。たまにほんとにすごいのがいるけれど、ほとんどは受験失敗の可能性に満ち満ちている。 

 わたしは小学生というのは訓練してなんぼだと思っています。訓練でポシャる程度の子ならしかたないでしょ。小4ですでに怠惰心が芽生えてなにかとサボるというのは見込みなしです。ここは親が厳しく教育するしかない。親の言うことを聞くのは小学生、特に、4年、5年までです。中学生になったらもう親の言うことなんか聞きませんよ。思春期と反抗期をもろに被って不安定な子ほどもうダメです。中学で部活をやるのはいいとしてもそれが勉強しないということと同時進行ならもうあきらめたほうがいい。早くも将来は見えている。勉強しなければ陸なものにはなれないのが今の社会です。親が教育できるのは小学生のうちです。小学生のうちに訓練することです。教育とは子どもにがまんを覚えさせる、それを通して自分の心を「律する」ことを経験させることです。過保護、過干渉は将来陸なものにはしません。わがままで自己主張の強い子は社会では生きていけないでしょ。電車で大股広げて座っている、まだ若いバカがいますけど、コミュニケ能力ゼロ、どうせまともに勉強なんかしてきてないでしょ。金持ちのボンボンが大人になって事件ばかり起こすのはそういうことです。家が貧乏過ぎるのも困りますが、子どもの教育には適度に貧乏なほがいい教育ができる。ただ例えば東大生の親の多くが裕福だいうレポートはある。司法試験もカネがなければ受けられないご時世ではある。費用のとてつもなくかかる予備校に行ける者、メチャクチャ高い学費のかかる法科大学院に行けるだけのカネのある家でなければまず無理である。これはおかしい話しである。いつしか日本の社会はそういうことになった。貧乏では高校に行けないとか、大学にも行けない、ということになっている。

◎思考というもの

 子どもというのは、まだ学ぶというには適しない。7歳というのは、訓練に適した年齢である。すくなくとも今の親のように怠惰をしつけてはならない。姿勢正しく集中するという姿勢、ゆっくりとていねいに字をなぞるという訓練、これを毎日続けるというしつけ、ここが大切である。親の都合でやったりやらなかったりというのが一番いけない。親の都合が子どもに怠惰を覚えさせる。楽をすることを覚えたら子どもは親の目を盗んで楽をするようになる。子どもというのはそういうものである。昔は生活に追われていた家庭が多かったので、子どもはほったらかしのところが普通だった。だから勉強なんかしない、そういう子ばかりで、まじめに勉強する家庭の子というのはたいてい医者の息子、娘とか、役人の子どもだった。わたしなんか小学生の頃にまともに勉強したことなんかない。それでも知能というものがそういう方向へと進めて行ったのだと思う。小学生時代の秀才と言われていた同級生のほとんどは偽者だった。もちろん小学時代の秀才が旧帝大に行き、商社マンや医師、弁護士にもなってはいる。しかし、少ない。たいていはバカになった。ほったらかしでも最後は持って生まれた才能が規定するというこは確かにある、いやあった。

 さて本日は竹の会では指導の核となる思考というものについて少しく述べてみたい。わたしは子どもたちに思考の芽というものを見出し、それを伸ばし育てるというようなことを仕事としている。小学生の場合、まず頭の中は未熟、未発達にして、概念というものに抵抗を示す、拒絶反応を示す、ということが一般です。頭の中は身の回りの世界、家庭とか、学校とか、とにかく狭い世界の中で、物事をとらえる、しかも具体的な物を介してしか理解というものができない。狭くて窮屈な世界です。子どもたちの頭の中には抽象的な言語というものがないのです。言葉と物が一対一で対応する、だから言葉は必ず具体的なものとの対応で理解される、そういうところで完結しているわけです。抽象的な言葉には本来対応する「もの」がない。ものとは関係のない言語世界です。思考というのはそういう抽象的な言語を使う世界です。子どもたちの心からものとの対応を解き放つ、まずこれが最初の、最大の難関となる。計算というのは、高度で抽象的な精神作用を必要とするものですが、ここではまだ「数」という「もの」が対応しているだけ、その抽象性は緩和されている。通分、約分、分数の繰り下げなどは抽象的ではあるけれどもとにかく数の変化という具体的なものとの対応はあるわけです。

 特に、小学生男子というのは精神が幼い。だから「アホかいな」というほど事実を理解していない。面積を体積で割ったりとかするわけですが、そのことを指摘してもピンとこない、そういう子がいるわけです。ものとの対応がもう絶対になっていて思考の壁になっているわけです。抽象世界で抽象言語を操れるほどになること、これが思考訓練の最終目標なわけですけれど、未知の問題に出会うと「もの」との対応ばかりに囚われるものだから、だれでもわかるあたりまえの事実の意味さえもわからないということになる。

 わたしは割合という概念を思考の型というものにして、つまり抽象概念を理解させるために、わざわざ抽象的な「もの」を作って、理解させようとしたわけです。ここには抽象的なものの理解のひとつの方法が示されています。もともと物との対応が遮断されているのが抽象言語ですが、そこであえて「もの」を擬制したわけです。幸いにしてこの手法は大成功を収めて竹の会の子どもたちの割合を理解する速度も深度も長足の進歩を果たしました。ここから感得できることは、子どもたちに思考力をつけるということの方法として、いかにして抽象世界の中に抽象語の対応物を提供してやるか、ということです。

 自然という概念なら子どもたちは山を思い、海や川を対応させるかもしれない。では民主主義という概念だとどうだろうか。対応物はない。ここで大切なのはまず定義です。わたしは子どもたちにまず定義を覚えさせることだと思っています。定義というのは抽象的な言語による必要最小限の言い切り型の表現で形成されています。民主主義について語るのならまず定義を理解し、覚えることです。こういう定義を前提にすると論理的にこういうことが言える、これが抽象的な思考なんです。自然も曖昧なイメージとの対応で漠然としたままにしてはいけません。まず定義です。そして考えるのはその定義を前提にしてしかできないのです。地球温暖化について述べるのであればまず定義です。理科ですから、科学的な原因をふまえた定義です。定義を曖昧にしたままにいろいろ述べるジャーナリストや学者、識者と言われる人たちがいますが、アホです。お互いの定義がかみ合っていないのがわからないで言いたいことを言っているということがよくあります。

 中学で数学のできない子というのは、必ずといって定義が言えません。平行四辺形が苦手な生徒に平行四辺形の定義を問うと答えられない。勉強の基本というものをしつけられてこなかったのです。先ほど述べた面積を体積で割るということをしていた子というのは、この定義のところから破綻していました。単位の違うものどうしの割り算とは、単位あたりを出す計算です。一体積あたりの面積とは何でしょうか。わけがわかりません。要するにわかっていないのです。概念負けしているのです。

 思考するというのは、抽象世界に身を置くことです。抽象概念、命題について記述するとき、わたしたちはさらに具体的に話しを進めます。これは相手に、読者に、理解をしてもらうためです。できるだけ具体的なかたちで示すことが理解してもらうにはいいという認識があるからです。抽象言語にはものとの対応がありませんから、さらに抽象言語を普遍的な、いや通俗的なそれに言いかえるということをします。思考というのはそういう流れです。そして具体的なものについては、共通項を抽出し、つまりそれが抽象化ということですが、抽象的な概念へと置きかえていきます。思考の流れとはそういうものです。抽象から具体へ、具体から抽象へ、と思考というのは、まるで浸透力のように平均化する力がはたらくようです。

 定義のレベルであたふたしてるとき、わたしはその子の能力の底を見てしまう、そういうことです。子どもたちはみなこの抽象化というところで頭を悩ましているわけです。

 思考の訓練というのは時間のかかる仕事です。決して3か月とか、6か月でやれることではありません。小6の9月にやってきたという小学生がもし持って生まれた才能というものを持ち合わせていなければやはり見通しはよくない、というほかありません。わたしが小4の8月前後にこい、というのはいろいろな深い意味あいがあるわけです。

 さて、いずれにして、これからのわたしの指導というものが、いかにして子どもたちに抽象と具体の浸透化を定着させていけるか、それを課題というか、目標にしているということはわかっていただけたかと思います。 

 

 

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