画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷・西こそ都立/小石川は小4から準備すれば受かる/漢検をやらないバカ/医師は誤診を誤魔化す

2016.10.12

 おはようございます。秋晴れです。春と秋、どちらも気温は似たようなもの、しかし、内実はかなり異なる。秋はこれから冬に向かう。春はもちろん夏に向かう。ポカポカと春の陽気と言うけれど、春は実は朝夕などは秋より気温が低い、つまり一日の寒暖の差が激しいのだ。秋の一日の気温差は緩やかである。緩やかに秋が深まる。秋への移り際、人が変化に順応しようとする、このときが一番体に変調を来しやすい。疲れがそのまま免疫力低下を結果し、バイ菌に負けてしまう。過労、疲労が体の順応力を低下させる。十分に睡眠をとって体を休めて、適度な栄養と適度な運動を心がけてほしい。過度な体力の消耗が病を引き込む。この時期子どもたちの発熱の連絡が毎指導日に必ずあります。そういう時節です。

 今では学校で漢検をやるようになって竹の会で受検するという人も少なくなりました。なにしろ学校だと費用を払わなくてもいい区もあるようです。それで竹の会でももう漢検は止めようかとずっと思ってきました。今やっているのはそれでも「受けたい」という人が少数ですが、いるからです。漢検やるのはいいのですが、事務処理が煩わしいというのもあります。ただ竹の会でやるかどうかはともかく漢検はやったほうがいい。というかやらない人の気が知れない。高校受験だと共通問題出題校なら3級持ってれば国語1科目は特に勉強はなしで済ませる。独自問題出題校だと準2級、欲を言えば2級はほしい。

 ところがこの漢検をまったくやらない人たちがいる。中学生ではちょっと考えられないのだけれどいた。学校で漢字テストがあるので漢字の勉強はしている、そういうけれど、独自問題の漢字はまるでできない。そもそも漢字というものを舐めているとしか思えない。漢検は漢字というか言葉に触れるいい機会なのだ。漢字は覚えるもの、そして漢検はその覚えたことをテストするもの、そんなの下らない、とでも思っているのか。漢字はなぜ勉強するのか。端的には、語彙力をつけるため、これしかない。言葉の「意味」と「使い方」がわからなければ文章を読むことができないでしょ。漢字は飽くまでもその手段です。たくさんの漢字を知っているかどうか、そんなことが問題なのではない。それなりの論説文を読み解くのに必要十分な語彙を身につけること、これが目的である。漢検をただ漢字を覚えるだけとしか考えていないから軽視するのです。漢検は漢字についていろいろと考える機会を与えてくれる、そしていつも漢検を受けることによって、漢字、つまりいつも語彙の勉強をしている、これが大事なのです。言語というものはいつも接していて初めてものになる、真の意味に到達できるのです。漢字の世界は深いですよ。論説文を読み解くには、具体から抽象への語彙の理解が絶対に必要になる。「具体」とは、「体」を「具える」、つまり形を持ったものが具体です。小学生はこの具体という世界の中だけに棲息しています。小学生はこの具体の世界から抽象の世界へと世界を広げなければなりません。なぜなら文章というのは、この具体と抽象の織りなす布のようなものだからです。具体的なものは抽象化していき、抽象的なものは具体的に敷衍していく、文章というものはそういう本質を持つものだからです。それでは「抽象」とは何か。「象」とは、「形」のことです。「抽」というのは、ずるずるとひき出す、ことです。つまり、抽象というのは、本来「形」というものがないものから、ずるずると「形」をひきだすという意味です。難しい話しになりましたが、要するに、「形」のない言葉です。「愛」とか、「心」です。「民主主義」という概念もそうです。言葉というのは本来具体的な物とくっついてできた、だから物と関連のない抽象というのは、人間の発明の中でも驚異の発明なのではないでしょうか。語彙力をつけるというときに、わたしたちは、抽象語というものを思考の道具として、はたまた論説文を読み解く道具として、身につけていかなければならない。身につけるとは、ほかならない語彙をです。つまり、言葉の意味を咀嚼して思考の道具として使えるまでに習熟していかなければならない。漢検をただ漢字を覚えるだけという無味なものとしてとらえてはならない。漢検やらない人は受検のための勉強をしないから、漢字と接することもないままに何年も徒過することになる。そして受験近くになって漢字が読めない、書けないとわかってももう手遅れです。

 それから漢字の問題で満点とろうなんてそれは徒労です。膨大な漢字を完璧にやりきることは不可能です。2点とか4点アップするために無駄な努力をするな、ということです。だから漢字の勉強はほんとうに重要な、よく使う語彙をしっかりとやっておけばいいということです。独自問題校の漢字は20点分出ます。16点とか18点でいいでしょ。ただ0点というのはまったくアホの所業です。

 実は受験勉強も戦略は同じなんです。80点取れれば合格できるのに、バカは100点とるための勉強をするわけです。20点分にかける時間は80点分にかける時間の何倍もの時間をかけなければならない。20点分というのは難問です。難問を解くための努力なんかに時間をかけるより、合格者なら必ず解かなければならない普通の問題に十分時間をかけろ、ということです。難問ばかりやってる人間は本末転倒なんです。そういう人間は難問ボケして基本の問題さえも解けないほどに固まってしまっていることが多い。難問には手を出すな、それよりもみんなが解ける、解かなければならない問題は必ず解く、解けるようにすることである。

 最近、国語の指導で論説文にわたしがつけた問いに答える形式の「読解の素」というレジュメの配付を始めた。いやそれまでは同じ形式なのではあるが、「天声人語質問集」というレジュメをやっていた。しかし、今の小学生にはレベルが高すぎて意味がない。あまりにも幼い、世間の「意味」を知らない、だから読み解くことなんて不可能なんです。それで別の方法を考えた。なんとか子どもたちに抽象と具体の識別感覚を植えつけなければならない。それで中学生に使っている「新国語読解」と同じ手法で小学生のために執筆を始めた。添削してみるといろいろなことがわかってきた。天声人語よりも正解率がぐんとよくなった。それでも正解率の低い子たちもいた。それが算数、つまり割合やその他の問題の正解率とほとんど符合しているのだ。つまり、国語の読み取り能力の低い子ほど算数ができないというのは本当のことである、それを図らずも証明したかたちになった。

 人間というのは持って生まれた才能の差というものが歴然として「ある」ものです。これだけは争いようがない。そしてこの知能差というものが努力でどこまでカバーできるか、ということで多くのできない子を持った親たちは苦悩することになる。竹の会の入会試験においてもその差というものは如実に表れてくるわけです。小3が「解けた」問題を小5や小6さえもが解けない、そういうことが現実に起こるわけです。親御さんは「読解力がない」と慨嘆するわけですけど、それ以上にこれは知能の差を表している、しかし、そうは思いたくないという心情が透けて見えるわけです。

 実はここで将来の結果はほぼ見えているわけです。竹の会の入会試験はそれほどに正確に子どもの知能の状況をスキャニングします。特に、「入会試験Ⅰ」と言われる、竹の会が小4を念頭に制作した試験はそうです。今の子どもの知能を正確にスキャニングしてしまいます。今小3用に開発した「入会試験Ⅹ」はそこまでの正確さはない、というより未来の「伸び」までは保証はしない。わたしはただ「この子なら指導できるであろう」という、そういう基準で作っている。ただ誤解している親もいますので、言っておきすが、仮に合格したからといって、それは大手塾に行って成功するということを保証した意味は全くない。竹の会でわたしのやりかたで、わたしの方法で指導し、訓練した場合に成功するであろうということがわかっただけなのです。かつて竹の会の入会試験を受けて合格し、大手に行くという親たちがいましたが、っかじゃないの、というしかない。竹の会の入会試験は学力を測る偏差値試験ではない。知能を測定したのだ。その無垢の知能に竹の会の指導の方法で訓練する、そういうことである。竹の会で知能があると判定されても、大手のやりかたでは潰れてしまうことは前提なのである。だからバカというのである。大手、特に進学大手で通用する知能というのは、竹の会の想定する知能の数倍上、天才水準である。学校の優等生がのこのこ行って通用するものか。潰されてただの人になるだけである。竹の会は、わたしは、そういう学校の優等生たちを「生かす」ことに長けている、そういうことを言っているのである。勘違いした母親や父親がその後、つまり竹の会の入会試験合格後、大手に行って成功したのかどうか、全く知らないし、また関心もない。ただそのような親の間抜けぶりだけは印象として残っている。

 竹の会の方法が機能しないということも当然にありうる事態です。わたしに言わせれば問題は子どもよりたいていは母親にあり、と思っています。母親が子どもに関わりすぎてダメにする、支配することがただの管理から専権支配になるともう子どもは潰れます。過干渉は子どもの自立心を損ない、過保護は子どもを際限のない欲望の世界に追い込み、怠惰な子どもに仕上げてしまう。いい子に見てもらいたくて、カンニングをして誤魔化す、そういう子も出てきます。母親が「できる」ことをことのほか誉めているとそうなります。子どもは母親を喜ばせたい一心でなんでもやります。

 子どもが失速する、そういうときには、とにかくわたしにもどうにもできない、だから竹の会にこだわることはない、竹の会が「いい」のは、子どもが正常に機能しているときだけです。歯車が狂ったら、いったんは休む、離れる、それがあたりまえです。中学だと親の制御を離れる、そういうことは普通に起きる。思春期、反抗期と心理学的な名称はともかく親が子どもを制御できないということは普通に起こりうる。そういう時に竹の会を期待してほしくない。竹の会には親が制御できない子を制御する力はない。

 小学生だと、これはもう退塾したほうがいいでしょ、ということもある。そういうときは「退塾のお願い」のようなメールが気軽に出せれば、とわたしは思っている。そういうときには、竹の会とはそういうものだ、そういう塾だと気軽に応じていただければと思う、それがわたしのお願いです。別に竹の会にこだわることもない、今の若いお母さんやお父さんならわたしの気持ちをわかってもらえるのではないか。

 わたしが「止めてほしい」とメールすると、「子どもは止めたくない、言っている」といつもひと揉めする。子どもの意思ではなく、親の意思を問うている。竹の会という方法でもはや責任をもって指導できる状況ではないですよ、と言っているわけで、こで心情論を持ってこられても、違うのである。竹の会は入会の時に申し上げたとおり、勉強する意思のある子どもたちにその効果を見込んで訓練する、そういうことができることが前提でした。その前提が崩れるとき、それはわたしが、実際に指導に携わるわたしが正直に申し上げるべきことで、わたしが、「退塾」を持ち出すのは、ほかに塾を壊す子たち以外には、これだけです。

 ◎医師は誤診を誤魔化す

 世の中というのは、誤魔化す輩に満ちています。わたしの身のまわりにも、中には医師会の会長いうのもいましたけど、誤診して命さえ危うかったのに、誤魔化しているのがいます。何かの本で読んだ体験談には、喉が唾も飲み込めないほど痛いので内科に言ったら年配の男性医師が、ただの風邪だと言って薬をくれた。それで何日かしてまだ痛みが収まらない、いや酷くなった気もする、それでまた同じ病院に行くと今度は若い医師が陸に診もしないで同じクスリをくれた。ますますひどくなって、友人に聞いた耳鼻咽喉科に行ったら、こりゃー大変だ、と言って、注射器で膿を吸い上げて、「ほらこんなに溜まっている」と見せてくれたらしい。病名は風邪とは全くちがううものだった。この話しを読んで、別に驚くこともない。医師なんていい加減なもので、陸に診もしないで、判断してしまう。たいてい風邪で片づけてしまう、バカばっかりである。内科の誤診率は90%以上だと言っていたベテラン内科医の本があったけど、そんなもんでしょ。こいつら誤診しても誤魔化すことにも長けている。神経が麻痺しているとしか思えない。

 弁護士が訴えれば勝つ事案でも、まあ額にもよりますが、とにかく和解にしてしまうのはだれでも知っています。なにしろ日本の訟務は8割以上が和解案件、つまり和解で片がついているのですから。こいつらも自分の都合で依頼人を誤魔化している、ということです。わたしのように少しばかり法律を囓った人間ですと、やつらが何を考えているか、察しがつくのですが、法律のホの字も知らない人たちを騙すのは赤子の手を捻るくらいに簡単なのだと思います。特に、弁護士センセが言ったらなんでも正しいと信じている人間はネギかもです。

 東京都の官僚たちが今せっせと誤魔化しをやっているわけです。豊洲移転のあれです。調査資料という誤魔化し書類、捏ち上げ書類もさすがに根掘り葉掘りのワイドショーには通じないようです。週刊誌なんかもよく取材していますね。石原もそうでしたが、猪瀬、桝添と威張っていてなんぼの都知事たちが税金を湯水のように使うことを放置していたという、いや自らも湯水のように使っていたわけですから、都民というのはほんとうに人のいい人たち、ある意味バカですね。

 さてです。大手好きの親たちが大手に子どもを2年も3年も通わせて、通常週3回ないし4回らしいですけど、それ以外に毎月のように土日は特別講座みたいなものがオプションとしてあるらしいですけど、春、夏、冬の講習もしっかりとカネとって、親は思っていた以上のカネを最後は収める、蟻地獄に落ちていく、そういうことなのですが、それでも受かればまたそういうことは忘れてしまうこともできる、しかし、現実には大半のバカ息子、バカ娘たちは実は期待通りに落ちてしまうわけです。さてです。このときに大手塾なりが何か誤魔化すか、ということです。彼らの誤魔化しは、合格者数がどれだけすごいか、ということに向けられるだけです。落ちてしまった子どもたちなんかどうでもいいのです。落ちたほうももう逃げるように隠れてしまう。恥ずかしいのですね。無言で去ってしまう。消えてしまう。なんと都合のいいことでしょう。あれだけ「こうすれば受かる」「ああすれば受かる」「これをやらないと受からない」などと散々勧めてカネを使わせて、落ちたら「はい、さいなら」です。誤魔化された親たちは何も言わない。クレームひとつ言わないで、中にはまた大手な通うという重症バカまでもいる。誠に大手というのは大手というだけでどんな阿漕なことをやっても許されるという構造なんですね。

 それにしてもいくら誤魔化されても誤魔化されたことさえ気づかないアホのなんと多いことか。

 

 

 

ページトップへ