画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷・西への道/憧れで小石川・桜修館に行けるはずがない/冬期のことなど

2016.12.02

 おはようございます。今日は青空と太陽が朝から眩しいばかりに輝きいい日よりとなりそうです。朝は6時半頃から今日返却の課題を添削しまして、レジュメ調整の前にブログの更新を思い立ちました。ブログを更新すると、血圧が高くなるので、近頃は体調を推し量りながら書くようにしています。

 さて、まず、昨日渋谷Bのお母さまから質問がありまして、これには、渋谷Bのみなさまにもご説明しておく必要があろうか、思料しました。

 質問の内容は、次の通りです。わたしが、通常課題の提出を12月16日までとし、再開は1月8日から、このブログで書いたことから、渋谷Bでは、冬期中は、「その日になすべき課題を配布し、翌日チェックするという・・」ということではなかったか、という疑問でした。

 すでにそのお母さまには説明のメールを返信しましたが、「その日になすべき課題」とは、通常の課題のことではありません。通常の課題は、提出されると、その解説、次回の課題、添削ということをするために、いちいちパソコンを開き、準備しなければなりません。指導が連日に及ぶ冬期においては、このような対応は物理的に不可能なため、竹の会では、課題の配布、提出は、夏期や冬期の指導期間中は、停止してきました。すでに長い会員のみなさんは当然そのことを知っているわけです。

 渋谷Bの冬期指導は、初の試みで、説明不足でした。まず、基本的に、渋谷Aと渋谷Bの指導内容に区別はありません。つまり、渋谷Aで配布するレジュメはすべて渋谷Bでも配布します。ただ冬期に関しては、渋谷Aと違い、渋谷Bでは、その日に指導として使うレジュメを時間内に用いることは物理的に不可能なため、午後から家庭学習でやることを前提に、配布し、翌日チェックする、という趣旨です。ただ、これもやや大雑把でした。まず、基本的には、個々がそれぞれ使用している、「小学思考の素」などの割合レジュメ集を軸にやっていくことになります。これは、午後からの家庭学習でやるべき主内容であることはもちろんです。進んだ小5につきましては、冬期は、「第1類」、「単位あたり量を鍛える」、「推論を鍛える」などの指導レジュメを使うことになりますが、わたしは、このような課題レジュメを「その日になすべき課題」と表したわけです。しかし、これらのレジュメはすべての子たちに使えることはないわけです。小4については、逆算をクリアしていれば、「算数の道」を家庭学習用として、解答は親御さんに管理してもらうことを条件に、進めることを考えております。逆算まで行かない子につきまして、家庭学習でも計算やドリルに専念していただくほかない、あるいは、通常課題を渡して、予習を進めるという形態も可能なのか、思案しております。

 さらに、冬期について、全回出席は義務ではありませんので、体調等を推し量り、あるいは年末年始にお休みするというのも自由にしてくださればと思います。渋谷Aの7時間についても、決して7時間が義務ではなく、時間調整をしてもいいですよ、ということは、例年申し上げてきたのですが、なぜか、そういう方は少ない。要するに、あまり気を張らずに勉強してほしい、そういうことです。

 ●的確な診断と処方箋、「根拠を問うこと」にこだわれ

 わたしは、新聞よりも実は週刊誌の方を信用しています。週刊誌の取材する力です。足で情報を集める力です。週刊誌には、いろんな著名人がいろんなことを言っているわけです。ただいろんな立派な肩書きのある方などが、いろいろ主張されているのですが、わたしは、その主張の根拠というものを常に確かめるわけです。ところが、主張は、明確としても、その根拠が巷の週刊誌並みということがいかにも多いわけです。「すでに多くの医師が言っている」などと言うのが、根拠になるのか、まず、伝聞ですよね、伝聞証拠というのは、刑事訴訟法でも、信用ならないという前提で規定されています。一流の人と目されているのかどうか、知らないが、医療問題、経済問題、政治問題、国際問題等について、何かを言う、論文を書くという人たちが、示す根拠にはいつも失望ばかりしています。

 素朴科学の分野では、根拠などというものは示せないから、どうしても「よくなった」という主観的な体験例を根拠として説得するしかないわけです。健康食品、サプリメントなどになると、もういけない。実際に、試すほかない、というのはある。人間というのは、痛みにだけは弱い、耐えられない。それで、溺れる者は藁をも掴む、という状況からは逃れられない。

 さて、塾の話しです。子どもたちを指導するというとき、子どもたちの脳段階を診断する、常に診断しながら、その診断に即して的確な処方、つまり具体的指導をする、というのは、当然の流れである。竹の会では、「入会試験Ⅰ」という診断装置がありますから、これの出来不出来を見て、指導を考える、ということは当然です。小4の8月を基準にした試験ですので、小4の11月、2月、小5の4月、7月と同列には論じられないのですが、そこのところは斟酌しながら、子どもの能力段階の進展を、推移を「診る」ということです。理想は、小4の8月前後にA合格以上です。こういう子が竹の会ではもっとも指導しやすいわけです。

 入会試験の結果はその後の指導に如実に反映します。入会試験の結果が悪ければその後の指導は茨の道になることは予想に難くない。指導に際して、能力の底を見る、ということがありますが、このときはさすがに絶望的な気持ちになります。理解が堂々巡りする、そういうこともよく経験しますが、これなどは能力の底の存在を推測させます。

 私が、伸びる芽がある、というときは、その子の能力の底を感じない、といったほどの意味です。よく壁に突き当たる、と言いますが、これなどは、能力の底に突き当たり、実は術がない、ということはあります。学校の優等生には、「言われたことだけできる」という子がよくいますが、こういう子は、伸びない。「言われたことから転移できる」子が伸びるわけです。「言われたことしかできない」というのは、やはり能力の底を思わせるものがあるわけです。わたしが懼れているのは能力の底です。こればかりはわたしにはどうにもできないからです。こういう子は入会させてはならないのだと思ってきました。基本的なことはなんとかこなせるようになはなるかもしれない。いやそういうレベルの底の深さということですが。しかし、これは将来伸びる見込みのない、そういう意味あいでの基本習得なんですね。この能力の底が見えた子というのは、どんなにがんばっても中学では芽が出ない。親は、駒場だ、新宿だなどと期待しても、現実は、そんなものではない。

 それから小4から鍛えるというのがわたしの持論になっていますけど、小4の時期を無為に過ごしたつけというのは、その後の人生を棒に振るほどに重いということです。小6から竹の会に来て成功するか、というのも場合によるわけです。もともとの能力の高い子なら、そして実行の伴う子なら、望みはある。しかし、学校の優等生レベルだと、微妙である。かつて杉山太一君は、小6の6月にきて、あれよあれよという間に学力を伸ばしていったけれど、彼は類い稀なる能力の持ち主だったということです。少なくとも学校の優等生というかっこではくくれない、高い知能を持っていた。

 一般的には、小4の8月あたりがもっともいい時期だと見ています。通知表で「よくできる」が8割前後ある子なら問題ない。ここまでいかない子なら親はあまり子どもに期待するべきではないかもしれない。これも一般的にであるが、小5の時期をどう過ごすか、過ごしたか、はその子の将来まで決めてしまうほどの重大なことと考える。受検はしないからと塾には行かない子、受検をめざして大手に熱心に通う子、前者は問題にならないとしても、後者も意味のないことが多い。わたしが小4の8月から鍛えるというときは、竹の会のような指導を念頭に置いている。小5の時期の訓練も竹の会のような訓練指導である。だから、他塾に通っていたという場合、結局は、その他塾の成果などは問題ではなく、もともとの持って生まれた知能を診るほかない。

 そして、能力の底を見たならば、これはもう降参するしかない。降参するのは私である。

 ●自分の答が、正しいことを根拠をもって示すこと

 答は、結果にすぎない。その答が出るに、どのような考え方をとったのか、その過程を示す、これが根拠を示すということである。ところが、何度言っても式を書かない子というのが必ずいるわけです。答さえ合っていればいい、というのは、テストの弊でしょ。私立の採点では、部分点というものがある。これは過程に重きをおいた思想である。それから式には必ず単位をつけることである。単位は式の意味を語る。また単位が式の正当性を担保する。

 ●推理するとは

 「読む」という言葉には、実は、推理するという意味もある。言葉の読み方だけに気を取られて、意味をとらないのは、読むに値しないけれど、文章を読むというのは、文章の意味をとりながら、その意味から推測される、あるいは想像されることがらについて、推理する、論理的に推論する、ということまで含まれる。

 「読む」のは、先を読む、筋を読む、背景を読む、関係を読む、背後を読む、の如く、文章の文字の意味の含蓄から当然にこうなるであろうという先を読むことである。単に、推理するというだけでは、見えてこない推理の方向がまず定まるので、わたしは推理するというよりも、読むという言葉に惹かれる。

 グラフを読むとは、グラフの変化の理由を問い、変化の背景、原因を読むことである。よく行間を読むというけれど、これなども文章の意味をとることはもちろん、その文章が意図する真意を読む、ということである。

◎権力の周辺にいる輩の野蛮

 丸山眞男の「現代政治の思想と行動」は、何冊か持っている。その中の1冊は常に手元にあり暇な時にいつも読むほどである。丸山の文章の明快さがわたしの錆びつきそうな頭を洗ってくれる、それが心地よいからいつも読む。丸山は、我が国の政治学の不妊性について嘆じているが、政治学どころか、人文科学、いや自然科学でさえも不妊的症状を呈しているのではないか。ここで不妊などという言葉を使うのはやや問題ありかもしれないけれども丸山にはこの手の表現は多い。丸山の論拠は、たいていは歴史的考察にある。

 やや文脈は違うけれど、丸山は、「政治権力にとって、何が好ましくないといって己れ自身の裸像を客観的に描かれるほど嫌悪すべき、恐怖すべきことはな」い、と述べている。どこやらのかの国々の言論弾圧を見ていると、さもありなん、と思わざるを得ない。翻って、我が国はどうか。テレビ、新聞の現状はどうか。いつの頃からか、取材をしない新聞、権力に気を遣うテレビ局の惨状が言われるようになって久しい。アメリカの大統領選挙で足で取材してこなかった日本のメディアが、トランプの勝利を微塵も予想できなかったことは、自分に都合のいい、権力者の都合のいい、記事を書いてきた、放送してきたメディアからすればありうることであったのかもしれない。週刊誌の方が、次元は低いけれど、余程足で情報を集めている。

 根拠を示せ、というけれど、昨今は、政治も偽造された根拠を示すのがあたりまえになり、国民もさしたる関心を示さない。税金が恣意的に使われ放題なのに、黙っている、不思議な国民である。足りなくなれば、増税し、年金を削り、老人の医療費負担を増やし、若者の職を過酷なまでに、奴隷化し、美味しい思いをしているのは、権力の周辺にいる人たちだけという、なんとも歪な社会がある。

 それにしても、地方議員のレベルの低さは、あきれるばかりで、バレなければいくらでも誤魔化しをやる。そういう根底の野蛮さは、いかにして人を騙すかという、社会を現出させているのではないか。

 わたしが、竹の会をどこまで続けられるのか、わからないけれど、そんなに遠くはないかもしれないが、竹の会という、システムに、その間、邂逅できた人こそ幸運である、そう思われるように、最後の体力を絞ってがんばってみたい。わたしには少なくとも野蛮な思想だけはないのだから。

 

ページトップへ