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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷・西・戸山へ/小石川・桜修館へ/1月最後の指導

2017.01.30

 おはようございます。本日は4月の陽気だそうです。明日からまた冬に戻るということですから、これは用心しなければなりませんね。1月も残すところあと2日となりました。小6も竹の会を去りいよいよ2月3日に本番です。本番には異常な空気があり、普段の力を出すことさえ難しいものです。つまり、普段の力を出せた者が結局受かっているということなのではないかと思います。たいていの受検生は普段の力さえも出せないままに終わってしまう、それが試験です。この普段の力を出せるかは、およそ2つの種類に分かれるのか、と思います。ひとつは、盆も正月もなくひたすら勉強のみを最優先させてきた子、いや親子、いや家庭です。こういう子というのは、合格に揺るぎない信念を持ち、ひたすら勉強してきた子です。もう一つは、俗に「開き直る」と言いますが、「落ちてもともと、今ある力さえ出せればいい」と達観した心理にある子です。このような心理にはなかなかなれないもので、たいていは「絶対合格したい」「合格しなければ」と自ら精神を萎縮させていくタイプばかりです。このような心理で成功するのは、結局ひたすら勉強してきたという子が直前に熱を出すとか、体調を崩すなどのことに直面した場合などで、習い事、稽古事その他を優先させてきたという子がそういう心理になってもダメです。

 東京の小学生というか、親も含めてですが、「小石川に絶対に行きたい」という人たちがかなりいますね。これは能力的に無理ではないか、と思われる人もかなりにいるというのが実感です。わたしのブログを読まれた方の中には、竹の会が小石川に受かる条件として5つのことを言っている、と指摘された方がいます。1つは、課題を出すこと、2つは、休まないこと、3つは、小4の早期入会、4つは、素直さ、そして5つめは、入会試験でA合格すること、なのだそうです。確かに、言われる通りだと思います。しかし、この5つの条件だけではだめです。この5つの条件には重要な、より本質的な条件が欠落しております。

 合格する子の親というのは、絶対的に竹の会を信頼されているということです。この信頼があるからこそ、上の5つの条件と言われるものが、あたかも条件のように見えてくるのです。その中の条件として挙げられているものは確かにその通りのものばかりです。特に、入会試験A合格は絶対的な要件といっていいかもしれません。ただそれとしてもそれは絶対的な前提としての竹の会に対する圧倒的な信頼が基礎になければ成功は「ない」と言いきれるものです。「迷い」のある親子は受かりません。子に「迷う」だけの才覚がないとしても、見識ある親が「迷う」ということであればそのところでもはや合格はないのです。これまでの小石川合格者だけではないのですが、成功した子の親御さんというのは、竹の会を絶対的に信頼していたこと、竹の会以外はありえないとまで心酔していたこと、その点だけは揺るぎない信念であったこと、ここが違います。この本質的な要件は、そういう信頼というものを持たない人間には決して「見えてこない」条件です。それはそういう心理の表裏にある要件だから当然といえば当然なのですが。そういう揺るぎない信念が、課題を絶対に出すという意識につながり、決して休まない、素直に指導にしたがう、といった態度に連なる、のではないか、と思います。ただA合格という点、これだけはしかたないですね。早期入会という点、これも竹の会の知名度を考えればなかなか難しいことです。

 ◎指導できない、という子たちのこと

  A合格できない、というのは、確かにひとつの問題です。通常は、学校の通知表が8割基準を満たしていればA合格できるものです。ただし、「入会試験Ⅰ」を小4の8月基準で受けた場合の話しです。ですから、小5でA合格がとれない、というのはかなり問題があります。さらには、小6だともっと深刻です。今では「入会試験Ⅰ」は、小4にのみ使います。小5については、本来入会は認めないため入会試験は必要ないのですが、高校受験の逸材を発掘するためとか、小5でも超逸材はいるものですから、そういう子たちのための入会試験は用意しておく必要があると思いました。それで作っているのが「新入会試験Ⅰ」です。ただこれは竹の会で数か月訓練した小5たちでも50%前後のできですから、かなり難しいと思います。竹の会には、小3を対象にした「入会試験ゼロ」というものもあります。これは、小4の4月までは使えそうですが、「入会試験Ⅰ」との境界は微妙です。「入会試験ゼロ」は、「問題文の中からある定義を読み取って、その定義通りに事を運べる」能力というものを徹底して試す趣旨で制作しました。小3段階での逸材の発掘は非常に難しく、それは、小3というのが、まだ未開で、潜在的な能力が眠っていることが多く、わたしとしては、なんとかその才能の片鱗を発掘したいという、強い関心も手伝って、制作したものです。

 この入会試験の問題を制作する過程から、わたしは、定義を認識する段階での子どもの能力差というものを真摯に感じとっています。できない子というのは、この定義のところで認識不能だということです。だから定義を使って、問題にあたるということがそもそもできていないのです。こういう子たちというのは、定義のところを噛み砕いて教えてやると、「ああ、そうやるの」と猿真似理解で操作を覚えようとします。しかし、定義というものを認識していないので、猿真似の限界を露呈してしまいます。こういう子たちの問題性ということでは、定義を読んで理解するということができないということのさらに本質的な問題なのですが、こういう子たちというのが、抽象的な言葉世界、したがって想像世界から遮断されているということです。

 定義をどのように子どもたちに組み込んでいくか、です。現在、小5対象に「抽象化訓練」というレジュメを制作配布していますが、わたしは、この定義にまつわる、より本質的な問題をなんとか教材化できないか、を思案しております。定義というのは、最初の約束事なんですね。数学なんか、特に、高校数学なんかやっていますと、最初に、例えば、数列なり、ベクトルなりの定義が出てくるわけです。この定義のところ、つまり成り立ちというか、約束というか、仮説ですね、これをとにかく常に思考の出発点にしておかなければ、数学はダメだということです。割合という定義につきましては、その視点からわたしはいろいろと工夫をしてきたわけです。わからないという子どもたちが、実はこの定義のところから「わからない」ということは知っておくべきです。

 家庭教師や塾講師がここのところを噛み砕いて教えていれば、バカはバカのままになるずです。よく「先生、問題の意味がわかりません」と言ってくる子がいますが、この定義認識、定義の理解において、問題があるわけです。ここで「この問題の意味はこうだよ」とわかりやすく教えてはダメなわけです。そこは自分で考えて咀嚼しなければならない。わたしが「自分で考えろ」というのはそこのところなんです。できない子、分からない子というのは、問題の入り口、そもそもの定義のところでわかっていないのです。わたしの入会試験はそういうところの能力を試しているわけです。もしこのわたしの入会試験で問題の定義的意味が読みとれない、そのためにA合格がとれない、としたら、それはあとで説明したらわかったということではなく、その以前に、定義を自ら読み解く能力において問題があるということであり、ことは深刻なわけです。

 幼児に噛み砕いて食べさせるのはいい。しかし、次第に長じていくに及んで、自ら噛み砕いて食べさせないでどうするのか、ということです。食べ物なら当然にやっていることが、こと勉強となるとなかなか離乳食へとは進められない。なんでもかんでも噛み砕いて教えてやっていては、一生自分で噛み砕けない子にしてしまうでしょ。大手の塾講師が説明好きで教えたがり屋だとしたら子どもには最悪なんです。ところが大手に子を通わせる母親とか父親は「あの先生は教え方がうまい、わかりやすい」などと脳天気なことを言っている。噛み砕いてはいけないところがあるのです。

 わからないという子は、定義というものが頭から素通りして抜けている。定義にしたがって「考える」という基本能力に欠けている、と思います。わたしは、そういう子に、問題のたびごとに定義はこうだからとふまえて思考の出発点とするように指導したものです。「わかる」というのは、定義を理解して、運用できる、ということにほかならない。竹の会のA合格とは畢竟こういう能力のある子にほかならない。

 竹の会では、入会試験をして定義の段階で戸惑う子たちの指導はしないこととしてきました。いや渋谷教室になってからの話しです。それはもうわたしが年齢的なこともあり、入会試験に合格するほどの子、つまり、定義のところで躓かない子を対象に、そういう子たちをより高次のステージに引き上げていきたいと思ったからです。

 

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