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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷・西必勝の要は英語攻略/小石川、桜修館は知能次第/親が驚く竹の会の子たちの変貌

2016.12.19

 おはようございます。本日も素晴らしい天気となりました。気温は日増しに低下、子どもたちはだれかが体の変調を訴えるという時節です。昔は子どもは風の子などと申して寒さなんかに負けないなどという気合い注入がなされておりましたが、わたしが小学の頃の暖房と言えば、火鉢だけでした。石油ストーブが普及し始めたのはいつの頃からか、あれは暖かかった。着る物はたいてい木綿製でとにかく重ね着はしたけれどなんとも寒かった。いつもガタガタ震えていた。ただだからといって簡単には風邪など引かなかった。今の子たちとはちがう強かさというものがあったような気がします。

 さて今日は12月19日、渋谷Bの12月最後の通常指導日です。あと渋谷Bは26日からの冬期指導までお休みとなります。23日金曜日は祭日のため渋谷Bはありませんが、代わりに渋谷Aが日程調整のため入ります。23日はいろいろ予定もあろうかと思いますので、無理に出席は期待しておりません。

 さて、それから渋谷Aについては、特に、勉強に集中しない、そのために周りに影響が出ている、そういう状況というのは、決して看過できるものではなく、厳しく対応します。そうでなければ渋谷Aに入会を切望している多くの人たちを断ってきたことの説明がつかないでしょ。まず注意をして反省を促すことは当然として、二度目はなく、当然に退塾告知をすることとなります。渋谷Aというのは、勉強をするという強い意志を当然の前提とした子たちの集まりと心得ております。このことは再三現渋谷Aの子どもたちには説いてきましたが、退塾という処置をするまでわからないというのはすでにして渋谷Aの資格なしということです。該当する親御さんにはすでに注意喚起のメールを送りましたが、二度目のメールは退塾通知となりますので、ご了承ください。いったん退塾通知を発しましたら、再考することはありませんので悪しからず。

 竹の会は、勉強するという強い意志の子たちの集まりです。竹の会に来て、家庭ではもう子どもの勉強に関わらなくて済む、子どもの勉強を見なくていい、と考えている親御さんがもしいましたら早々に退塾されることです。竹の会は塾かぎりで勉強ができるなどとは微塵も考えたことはなく、当然に相当量の家庭学習を前提として指導を組んでいますから。

 また竹の会に指導に関して「注文」がありましたら、もしそれがわたしの指導の根幹に抵触すると判断される場合は、わたしに指導のやりかたを変えるように申し出るのではなく、即退塾を申し出るのが筋と思います。わたしはそのように対応してきましたし、今後もそうすると思います。よく親御さんが「先生から、子どもに勉強するように言ってほしい」というのがありますが、勉強しないのなら、わたしから何かを言うのではなくて、退塾させるのが筋ということです。まあ、似たような例はいろいろありますが、すべてにわたしはしかるべき説明をして撥ねつけてきました。子どもが勉強しないという苦情を塾に持ち込むのはおかしい、と言っています。それは退塾させるという話しでしょ。塾に何を依存しようとしているのか、ということです。竹の会の子たちの成績が急伸する、子どもが変わる、そのことで竹の会を信頼されるというのはうれしいことですが、だからといって竹の会になにもかも依存するというのはおかしいと言っています。

 竹の会というのは、常にぎりぎりのところで勝負しております。子どもの勉強するという意志はまず最低限の前提です。静寂という環境を絶対としています。そういう環境を壊す、周りに迷惑を振りまく、そういう行動には厳しく対応してきました。こういう事由による退塾には斟酌はない。指導についてこれない、指導が功を奏さない、そういうときは、わたしは、その事実を正直に親御さんにメールして報告しております。最悪退塾ということも「ある」という覚悟で日々指導しております。ギリギリのところで勝負している、というのはそういう意味です。投げやりな勉強態度というのはわたしが一番がまんできないことです。たまにそういう態度をする子がいます。そういうとき、「今日は、疲れてるの?」と尋ねます。低学年だと集中が切れて勉強しなくなる、字が殴り書きになる、みな実はわたしには不快なことです。ですが、一時限りのことであろうと我慢をしております。しかし、子どもというのは、そういうわたしの斟酌を逆手に取って、「何をしても許される」と勘違いするものです。自ら退塾せざるを得ない状況に陥る子というものがいまして、これもその子の能力がそこまでのことであったということです。

 先日も電話で問い合わせてきたお母さんというのが、竹の会の指導のやりかたというものについて、どうも要領を得ないようでした。「プリントをやるのですか?」と何か判然としないようでした。「理科、社会は見てくれるのでしょうか」という問いに対しても、確かに、理科、社会についての対応については指示していますが、具体的に、科目指導するわけではない。都立トップ校を狙う子が、理科、社会の科目指導を受けなければできないでは受かる望みなどないでしょ。もちろん「イオンがわからない」と言えば、それに関する解説レジュメは用意します。わたしは「読んでわかる」レジュメを作るのが天職と心得ていますから、精魂込めて作ります。それを読んでわからないとい程度の子なら都立トップ校なんか受けるのは止めたほうがいい、そう言っています。

 最近、「竹の会に入会するメリットは何ですか」と問い合わせてきた父親がいましたけど、これがメリットです、などというものを挙げるほど虚しいことはないでしょ。その挙げたメリットがすべてでほかに何もない、と判断するのも、おかしい。よくある塾ツアーということをやる親もそういうメリットを比較考量して塾を決めるということなのであろうが、いったいどんなメリットが見てとれたのであろうか。竹の会に入会してすぐわかると言われるのは子どもの変化であり、勉強にシフトしていく子どもの生活意識の変化ですが、子どもたちの学力が急に上がる、ということもよく言われます。しかし、こういうものというのは、予めメリットとして確約できるものではなく、結果としてそうなった、幸運にもそうなった、という意識が私的にはある。こういう予測の範囲のこと、未来のこと、その意味で不確かなこと、目に見えない変化、そういうものを、これがメリットですなどと客観的なもののように挙げられるわけがないでしょ。だからそういう即物的にメリットを求めて塾ツアーする人には竹の会など目に映らないはずです。かつては冷やかしの入会試験受検者が多発しまして迷惑しました。子どもの話など一切しない、試験の間、外で用足しをしてくる親、合格しても傍観者の体で帰って行くわけです。前にも言いましたが、竹の会の入会試験に合格しても他塾、特に、大手に行くのでしょうけれど、大手に行って「伸びる」ことを保証したものではない、竹の会の指導方法によれば「伸びる」という判断をしたまでです。そこのところを勘違いする親が多いわけです。大手に行って成功したかどうかは知りませんが、成功したという話しはとんと聞こえてきません。今は、冷やかし受検はお断りしていますが、どうもそのニュアンスの親がたまにやってはきます。子どもの話は一切しないとか、通知表は忘れたなどという親はどうも怪しいわけです。

 勉強熱心な親子というのは、竹の会と他塾、特に、大手とのあきらかな違いというものについて、悟るようです。竹の会に通ってみて初めて竹の会の真実、ほんとうの凄さ、本物ということを納得される親御さんがほとんどです。つまり、いくら口でそれこそ口角泡を飛ばせて説明したところで竹の会の真実は伝わらないと思います。だから問い合わせてきて電話で竹の会の真実を知ることなど実は不可能なわけです。これはもう竹の会を信じて「ここしかない」と飛び込んできた人しかわからないことです。平成27年に桜修館に合格した女子のお母さんは、小4の1月に入会試験を受けにきましたが、もう最初から「竹の会しかない」ということをはっきりと申されまして、ここでだめだったらもう受検はしない、ということを明言されていました。竹の会にはもう「竹の会しかない」と決めて来られる親御さんがいまして、こういう親御さんというのは、成功することが多い。「人に薦められて」来たという親御さんや「紹介されて」来たという親御さん、ブログを読んで半信半疑で来たという親御さんなどいろいろいますが、そういう親御さんというのは、竹の会というものを信じ切ってはいないわけです。半信半疑なわけです。ただこういう親御さんたちも竹の会に実際入ってお子さんを通わせてみて初めてその真実に触れる、中には感動する親御さんもいます。

 わたしは世の多くの親というのが、塾というものをわかっていない、と思うのです。いったい塾に何を期待するのか、期待しているのか、ということです。「教えてもらう」、そして「受験に成功する」ですか。この発想にはいろいろツッコミの余地があります。知識の売買か、当の子どもの知能は問わないのか、子どもは勉強することをどうとらえているのか、そもそも家庭の勉強環境はどうなのか、カネかければ受験は成功すると思っているのか、まあいろいろあります。竹の会は、既存の塾概念を全く否定しています。子どもを勉強する意志ある主体として、そういう子どもは訓練することしかない、という基本認識から出発しております。何かを教えて、あとは子どもの能力に依存する、任せるということではない。最初から子どもの未確定の能力、資質などに預けることなど考えてはいない。いいですか。子どもというのは、訓練してなんぼなんです。これは観阿弥・世阿弥の教育論と全く同じです。芸を仕込むのです。考えて何かをやってくれるなどと儚い期待などでやってられないでしょ。幼い分だけ厳しく仕込む、訓練していくしかないのです。計算も徹底して仕込む、訓練する、妥協はしない、徹底してできるまでやらせる、それから割合を仕込む、もう徹底して訓練する、これしかないのです。小学低学年、中学年の時期にこうした訓練を徹底してやる、そこから子どもに劇的変化が生まれるのです。子どもが変わるのです。子どもに教えるべきなのは、勉強というものの取り扱いなんです。そしてそれは生活姿勢までを規定してしまう。勉強中心の生活、ひいては人生にまで及ぶ。わたしは、そういう中において、何が本質的ことなのか、例えば、子どもたちの中に「定義」というものをどう訓練するか、「抽象化」というものをどう認識させていくか、そういう訓練の方法を具体的に考えていく。竹の会に入会されてわたしに指導を任されたということは、わたしにそういった指導の裁量を許された、託されたということで、そこはかなりの責任を感じながら、指導に頭を悩ませているわけです。

 竹の会というものをほんとうに言葉だけで理解しようとしてもそれは無理です。だから最初から「竹の会しかない」と言って来た、そういう人がわたしにはいちばんです。しかし、そういう人は少なく、竹の会には、大手から来た子たちがたくさんいます。どうか23区のみなさんが、早くに竹の会に出会い、竹の会を体験されることを心から願うばかりです。

 

 

 

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