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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷・西/小石川・桜修館・九段/高校入試は人生の分岐点/余は如何にして子どもの眠れる脳を引き出し得たか

2016.10.20

 おはようございます。秋晴れですね。実は昨日はブログを2時間ほどかけて更新したはずなのに公開に失敗したようで消失してしまい、かなりショックでした。同じ質の内容でまた書けるかどうか、モチベーションは萎えてしまいました。今日は気分一新で再びチャレンジです。朝の太陽と青空のエネルギー補填がなければとても気の充填はできなかったと思います。

 「渋谷B」の改編については、これまでどおりで問題ないという方はそのままです。新制度の参加は希望者のみとなります。

 それから中学生の親御さんには、退塾の際には、必ず遵守していただかなければならないことがあります。退塾の際には、必ず竹の会がお渡ししているテキストを返却してください。特に、「新英語指導案」、「解説コメント集」は竹の会では門外不出のテキストとされています。数学でも先取りして竹の会著作のレジュメ集をお渡ししていますが、これらはすべて竹の会の高校入試対策のための秘策の教材群です。これを退塾の際に持ち出すことはどうかしないでください。そのため竹の会では「無償貸与」というかたちにしてテキスト代は一切取っていません。無償でお渡ししたものはすべて原則返却の対象となります。ただし、有料にて頒布したものについてはこの限りではありません。

 高校入試のための小学生募集に関しては、現在「渋谷A」に入室できる見込みの小学生は(現小6もふくめて)いないと認識しております。小学生の場合、「入会試験Ⅰ」の成績が以後大きく影響すると思っています。「渋谷A」の場合、小4時にA合格をとるほどでなければ、将来トップ都立を狙えるまでにならないと思います。現中1には、旧小石川受検組の子たちもいますが、いずれも小4の10月前後にA合格をとった子たちですが、中学ではトップクラスです。また中学から竹の会に入るには、通知表9科目中5が5個前後あるか、あるいは類い稀なる偏差値を有するか、いずれかが必要です。

 そういうことをふまえて竹の会の指導を受けたいというみなさんのために、「渋谷B」では、入会試験の成績が合格に達しない場合でも、特に、親御さんの熱心度、子どもさんの勉強への意欲を条件に入会を認めています。そうとしても受検をめざす小学生には「渋谷B」の指導時間の絶対量が少ないということはずっと気にかかっておりました。「渋谷B」でも、指導の内容は一切「渋谷A」と変わりませんから、指導時間さえ十分に確保できれば合格することは十分可能です。

 本人の勉強意欲の低下(教室の勉強姿勢、態度、課題提出などから判断)、それに伴う指導効率の低下には敏感に対応します。勉強しなくなる兆候が見えた時点で退塾の措置(退塾通告)をとらせていただきます。他塾のように勉強しないのに通わせるということは絶対にありませんので悪しからず。中学では成績低下の場合、親御さんが塾にクレームを言う以前に退塾としています。

 公立中高一貫校をめざして勉強している小学生のみなさんは、能力があっても勉強にかける時間が少なければそれだけ合格から遠のく、本人はがんばったという気持ちをもっていても実際にはもっともっとがんばっている子がたくさんいる、さらには、8倍とか、10倍の倍率の世界ですから、「落ちる」のがあたりまえの試験だ、ということはまず弁えてかからねばならない。あなたたちが、受検するという意味は、高校入試において、実際は、都立高校入試において、トップレベルの都立に合格する、ということの先取りの選択である、ということです。

 そうです。あなたたちの人生は、これまで高校入試で大半決まる、と言っても過言ではなかったと思います。公立中高一貫校を受検してもそのほとんどは落ちて結局近くの区立中学へ行くことになるでしょう。その場合に、3年後に選択することになる高校によって、あなたたちの人生の大勢は決まるのです。都立日比谷に進んだ者と都立目黒に進んだ者では自ずとこれから歩む人生はすでに格差の始まりです。ましてや底辺都立やバカ高校に進むことの意味は自ずと明らかです。社会の底辺を這うように辿る人生を選択するのか、その選択はすでに小4期に選択されているということです。

 バカ高校とはどの程度の高校を言うのか。まず昨今の偏差値は信用ならない、どうも捏造された数値、匙加減で決められた数値でしかない。わたしの実感で言えば今から20年以上前の日大櫻丘高校と今では質が違う、かなり落ちている、ということです。そもそも私立高校は少子化の襲来に備えて、定員の半数を推薦で決めた。その選考の基準は恣意的な、つまりバカでももらえる内申であるのだから、私立の推薦制度は内申バカを優先する制度だったということです。さらには、単願推薦なる制度もある。これは事実上の無試験入学制度である。日大鶴ヶ丘とか専修大附属は都立駒場の併願校として渋谷区の内申のいい中学生はたいてい利用するけれど、駒場などに合格すれば行くことはないのだから、優秀な子たちは抜けてしまっている。それに半数が推薦で入るとして、一般試験を受ける受験生たちの中で、偏差値、つまりランク付けが決まっていくとして、ずっと30年間なぜに偏差値が固定されたように変わらないのか、全くもって怪しい話しである。つまり、推薦合格者はこの高校はこれこれの偏差値の高校だと思って推薦願書を出すのだけれど、これこれの偏差値は、推薦ももらえないほどのバカが一般入試で競って出すものであり、それが高止まりしているというのもおかしな話しである。

 こうしてかつては中堅優良校とされてきた高校も内申制度、それに依存する推薦制度、そして、少子化という経営基盤を揺るがす事態によって、内実バカが集まる構造になっているということです。このあたりからバカ高校と言うのなら、いったいそれより下の高校というのはどういうことになるのか。いわゆるモンキー高校の蔓延である。下位の高校では、内申なんかメチャクチャでも推薦で合格させる。かつて偏差値55の渋谷にあるK高校に入った女子生徒の数学Vもぎの点は5点だった。それでも試験当日には形式的な入学試験受けて、合格しました、と大喜びなのである。これだけでも偏差値60と言われる高校のレベルがわかる。いまや高校はどんなバカでも行ける時代である。

 さてそうとして、高校受験は人生の分岐点、格差社会では選択肢もすでに格差のある選択肢の中から選ぶことになる、そういう意味の分岐点である。ここで都立戸山、西、日比谷に進めるかどうか、ということが、自分の人生を確実に規定してしまう。先の私立高校の分析からすれば、まともな高校は、都立トップ校か、難関私立ということになる。都立なら、日比谷、西、戸山、青山、新宿まで、共通問題校なら、小山台、駒場あたりまでとなろうか。もちろん23区の話しである。そしてそうした都立高校に行くには、中学から勉強してということではまずだめで、ましてや中3になって受験勉強を始めるなどというのはお話しにならない。ここでもわたしの見解は、小4から指導開始することです。思考を訓練する、鍛える、勉強のスタンスというものを形成する、最高の時期というのは、変わることがないからです。別に、小石川や桜修館を受けるから小4から始めるというわけではない。子どもの思考を訓練する時期がこの時期がいちばんいいということからである。

 中学になってぐずぐずと勉強しないバカになったのは、小学の時にきちんと訓練してこなかったからです。いきなり中学生になって勉強させようとしても無理な話です。鉄は熱いうちに打て、ということです。冷えて変形した鉄をいくら打っても傷つくだけです。絶対に変わらない。バカが固定したら一生バカです。

 さてです。小学時代にどう親が訓練するか、という話しです。塾に行かない選択、家庭で通信という選択、たいていダメです。塾ならどこでもいいのか、ダメです。テキスト・授業・講師という既製の塾はすべてダメです。子どもというのは、教えてたらダメになります。そうじゃない、訓練するのです。だから訓練適格というのはあります。知能が足りない、集中が続かない、約束を守るという意識が低調、みなダメです。犬でも猿でも芸を仕込んで覚えるのはもともとの才能があるものだけです。ただ才能があっても教えてたらバカになります。授業というのは、教えるわけでしょ。だから子も親も「講師の先生の教え方がうまい」とか「わかりやすい」とか、そういう評価のしかたをする。自分の子どもが「考える」というところはまるで意識していない。「テキストがいい」とか、「テキストが難しい」とか、「易しい」とか、そんなことばっかり言っている。

 小4とか、小5の時期に、人の説明を聞くだけの生活を1年も2年も送らせてどうするのですか。

 竹の会は、この時期にこそ子どもの眠れる能力を引き出していく、そして自分の頭で考える、という型を作り上げていく、そのことが勉強のスタンスというものを作り上げることになる、こういう思想でやってきました。いいですか。子どもの脳というのは、最初は、それはもう「未分離」「未分化」そのものなんです。世の中のあらゆるものの区別が曖昧なんです。この時期に「教える」ということを主体とした授業をやっていれば、「未分化」から「識別能力」を獲得していくのは、もともとの天才だけです。ほとんどの可能性のある子たちがバカになっていきます。わたしは決してすべてのバカが救えるなどと言っているわけではない。わたしが可能性をひきだすことができるのはそのうちのほんの少数の子たちだけです。よく言うのは、学校で「よくできる」が8割前後以上ある子たちです。わたしが救えるのはそれだけです。こういう子たちなら、小石川や桜修館に合格できる力をつけられる、区立中学に行っても学年トップクラスになれる、と言っているのです。ですから、だれでも竹の会をめざしてこられても困るのです。

 わたしが指導を始めるときに思うのは、子どもの脳があまりにも具体的な概念でしか受け入れられないほどに未分化な状態であることです。わたしは如何にして子どもたちの脳に抽象という思考にはなくてはならない要素を組み込むか、このことに苦慮してきたわけです。

 思考の要素、抽象という契機、概念の組み込みです。まず、物と対応を外していく作業です。それが計算です。計算という形式的ではあるけれど、抽象化作業に取り組ませることです。小数の計算、特に余りの出る、小数の割り算、小数点、四捨五入、概数といった抽象語を認識させていきます。分数では、分母、分子の機能、最小公倍数、通分、繰り上がりと繰り下がり、剰余、かっこなど抽象世界に脳をはたらかす訓練をします。逆算は仕上げです。どんな複雑な四則混合演算も正確無比に出せる、そこまでこだわります。さて、抽象世界の一端に触れた脳にいよいよ「割合」という概念を植えつけていきます。割合という世界は抽象的世界ではありますが、幸いなことに対応物があります。まだまだ完全な抽象世界ではないのです。抽象世界の住人となるには、国語読解によって、抽象語を言語として蓄積していかなければなりません。思考世界の、つまり抽象世界の公用言語は、抽象語です。幼い頃頭の中でめぐりめぐっていた具体的事実、具体的もの、そういう世界からの訣別が、つまるところ、竹の会の指導の目的なのです。

 読解演習において、わたしは、子どもたちにある思いを伝えようとしているのです。読解文というものが、抽象と具体の織りなす布のようなものであるということ、抽象的な文章は、必ず具体的に説明していき、具体的なものは最後には抽象的なものに収斂していく、これが読解文の本質です。わたしの執筆している「読解の素」というレジュメはこのことをみなさんにわかってほしいと思って書いています。去年の10月のことでした。同趣旨の「新国語読解」で0点を何回かとった生徒がいました。その生徒が11月のVもぎで国語偏差値70をとったのです。その生徒は、「新国語読解で、国語の考え方がわかった」と言いました。かれは戸山の国語で87点をとったのです。わたしは、国語というものが、決して自分で問いに対する答を考えるという科目ではないということを伝えたかったのです。答は本文の中に常にある。それも抽象の答は具体、具体の答は抽象、その原理さえわかれば簡単に解けるのです。選択肢問題を解くのも抽象-具体の思考でいいのです。これがわかってほしくて子どもたちのために「読解の素」を書いています。

 竹の会のような塾を23区に探すのは不可能です。竹の会は東京の渋谷にひとつあるだけです。だれも竹の会の真似はできません。竹の会という指導の技術・方法は、わたしが30年の間に、日々休むことなく工夫を重ねて辿り着いた、究極の方法だからです。オール1のバカをオール4にまでしたこと、中学のビリから1番、3番でもそれなりの高校に合格させたこと、偏差値38の生徒を久我山に合格させたこと、数学5が常に10人前後いたほどの数学評判塾であったこと、都内のほとんどの高校入試の過去問を10年分から30年分解き尽くしてきたこと、中学受験の過去問も解き尽くしたこと、大学入試の授業もしてきたこと、様々な膨大な量の英語、数学、国語、理科、社会の参考書、問題集なんでも読んできたこと、数多くのテキストを執筆もしてきたこと、そういうことをこなしてきたわたしという存在が、すなわち竹の会であり、それは余人のだれもまねのできることではないからです。かつて竹の会を退塾した人かと思われますが、他塾に移り、その後「竹の会のような塾」と検索する人がそれなりにいましたが、そんな塾ないでしょ。

 大手に長い間通っている親というのは、竹の会にいつものように聞いてきます。「先生はひとりですか」、「グループ指導ですか」と不信は尽きないようです。大手のようなシステムを正統と考えて、個人だ、個別、グルーブだなどとなんとか既製の概念で理解しようとしているのでしょうけれど、竹の会をそんな腐った枠で理解しようとしても無理です。関心はあるようですけれど既存の大手志向、大手信仰からまず逃れられないでしょう。

 

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