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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷/小石川/桜修館/九段/勉強の本質を悟らないバカ親の増殖

2018.06.22

 おはようございます。今日はいい天気となりました。風はそれなりに冷たく油断していると危ない。近頃は寝るときは用心して厚着をしております。先日の中耳炎は自分の身体の弱りつつあることを実感いたしましたが、正直この過酷な仕事にいつまで耐えられるのか自信はありません。日々力を尽くすことが体力をどれだけ消耗していくのか、持病の腰痛は酷くなるばかりです。

 今は午前中は必ずやるべき仕事があります。新しく執筆を始めた「抽象語の研究」、100回をめざして執筆中の「適性のための計算問題」です。前者はようやく構想が固まり、執筆に入ったばかりです。小学生が作文を書けないのはある意味あたりまえで、貧困な語彙力もさることながら、世の中には先人がすでに遺した思想というものがあり、そういうことも知らないで、何を書くか、ということです。そういう意味もふくめて先日このブログである本を紹介いたしました。おそらくこの本を音読なり、素読なり、あるいは気に入ったところを精読なりすることによって、かなりの読解力がつくと思われます。この本は作文に必要な哲学をも教えてくれています。最初は難しくてわからなくても読書百遍意自ずから通ずると申すではありませんか。とにかく昨今の風潮はやらないで嘆くことです。なによりもまず実行することが答えをもたらしてくれるでしょう。

 例えば、「算数の魁」がほぼ完全に合格はんこで終われば問題ないのですが、何回やってもできないとき、同じテキストを何冊ももらってやることは無意味です。繰り返しやって覚えるということを考えているのかもしれませんが、「算数の魁」程度の基本事項が理解できていないことが問題なのです。問題は問題に機械的に答えられるまで練習することにあるのではなくて、つまり練習が足りないのではなくて、中核的な原理がわかっていないということにあります。だからここのところをわたしが真に理解したと認めるまでは何回でもやってもらいます。しかし、それはわたしが教室で実際に解いたのを見て判断する、それ以外は判断の対象にはなりません。家庭でやると正解率が高いのは、2度目ならすでに答がわかっていること、親御さんが教えること、そういう懸念があるので信用できないのです。

 ◎夏期(8月)集中指導の申込〆切間近

  夏期指導の申込は、6月中です。事実上は、渋谷Aは27日(水)、渋谷Bは29日(金)までですが、早期のお申込をお願いしております。7月になっての申込はできません。備忘による申込失念、思い違い等については、必ず申込受付カードの有無の確認、竹の会に確認などをして、回避するようにお願いいたします。間際に申込がなければ、空席待ちの外部生等に振り当てますので、受け入れ不可能となることをご承知おきください。

 ◎6月の竹の会日程表の区切りについて

  6月と7月の予定表は、合体していますが、6月相当日程は、6月28日(木)までです。6月29日から7月日程となります。したがいまして、6月退塾の場合は、27日ないし28日が最終日です。

🔵自分流にやるから失敗する

 高校受験を失敗する子は必ず自分流でやって勝手に落ちて行った。わたしはそう思っている。 自分流とは、自分のやりかたを優先する、裏から言えば、わたしの指示に従わない、そういうことである。 わたしの言う通りにやらない、だから落ちた。 わたしの指示を親が妨害する、だから落ちた。 レジュメを渡すのは、まずやりなさい、相当時間経ったら出しなさい、そういうことです。ところが、なかなか出してこない。中学生だと、勝手に勉強している。わたしの指示はどこかに消えて何をやるのか、どうやるのか、すべて自分で決めている。こうなったら、もうどうなるか、わたしには見えている。 落ちることはわかっている。 勝手にやるから落ちる。 何をするにも、わたしの指示を仰がなければならなかったのだ。26年都立駒場合格者、27年戸山合格者、28年戸山合格者、この子たちが成功したのは、決して自分流でやらなかったからだ。必ず何をやるにも指示を仰いできた。 「先生、次何やったらいいですか」、いつもこのセリフが行き交っていた。いつも何をすればいいか聞いてきた。 勝手にやるな、は竹の会で、成功するための、絶対原則であった。

 ところで、いつも遅れてきて、やがて熟睡という中学生が、退塾して、久しいが、彼の退塾が遅れたのは、成績がよかったから。しかし、そういう態度というのは、そもそも指示をやらないということで、お話しにならない。竹の会が優秀な子に想定して実施するプログラムは悉く頓挫していったのであり、退塾は時間の問題ではあったのだ。 指示を守らない、やらないというとき、母親の妨害が原因という例が最近多い。昨今は受験情報にやたら詳しい母親というのがいて、わたしの指示を仰がないどころか、勝手にいろいろ進める。自分勝手にやるのだ。次に何をやるかを母親が指示している。もちろんわたしの指示を無視するわけだはなく、それを含めて、何をやるかの優先順位を母親主導で決めていくのである。しかし、悲しいかな、受験直前の危険を感じ取る能力に欠けるがために、指示を誤る。竹の会を舐めてはいけない。受験直前こそ竹の会の神指導が冴えるときである。それは、高校受験の何たるかを知り抜いた者のみが感じ取ることのできる神の感覚なのである。そこから出す指示がこれまでどれだけ多くの受験生を救ってきたことか。何も知らない母親が成功し、雑情報に振り回される母親が失敗する。これも受験の真実である。 ついでに言えば、習い事、稽古事、体育会系活動、すべて自分流判断を優先させているのだということを忘れてはなるまい。少なくとも、合格を考えるなら、わたしは、そういうものを勉強に、わたしの指示に、優先させるべきこととは、思わない。 わたしは、ある段階への到達を想定して、次はこれという指示を出している。その時、わたしの計画を中断させる、先送りさせる力がはたらく。家庭の事情というやつである。法事という長期帰省、何よりも絶対優先の帰省、お盆という帰省、年末帰省、発表会、大会、昇段試験、試合、いや結構なことです。ただわたしの指示は消えてしまい、したがってわたしの見通しはなくなり、後手後手の泥縄策しかなくなる。ただそれだけのことでして、後は、試験まで、頑張れ、頑張ります、という掛け声だけが虚しく残るだけです。これが真実です。 わたしの打つ手を悉く流した家庭、母親、当人に、すでにわたしに策はない。本能寺の変、蘭丸が信長に指示を仰ぐ。「殿、陣立てを」。信長曰く、「ない」。 親が竹の会の牙を抜く構造は昔も今も変わらない。 成功する人、した人に、一致しているのは、常に、指示を仰ぐ姿勢であり、指示をただ実行する姿勢である。 中学生で失敗するのは、もう指示とは関係なく、自分で勉強を進めることです。わたしが何を勉強しているのか、全くわからない状況です。いつからZ会の通信を受けていたのかは知りませんが、わたしのレジュメを全く出さなくなったのは、中1の終わり頃だったと思います。レジュメが返ってこない、何か自分で調達したのであろう、塾で参考書をやる、こういうことをやっていて、中3の夏、最初の模擬で、信じられない学力、ドン底の学力を露呈してしまう。末路はたいていこうなる。 わたしは指導を任されたら、その子に処方箋(指示)を出して実行させる。処方箋は一定の見通しのもとに、達成段階を微細に診て、出す。次の処方箋、次の処方箋と出していく。ところが、わたしの処方箋は度々実行されないままに無に帰する。家庭の事情が、邪魔をする。わたしの指導計画は、いつも家庭の事情とやらで、リセットされる。わたしの邪魔をしているのは、常に、家庭の事情である。 竹の会にそぐわないのは、竹の会の期待する勉強姿勢像からかけ離れていることである。もちろんこれには程度がある。だからどこまでわたしが、わたしの許容限界にあると判断するかではある。 これはもうわたしのコントロールの外にある、明らかに外にある、と判断すれば、退塾を通告するしかない。 親のさまざまな要望が、わたしの指導の妨害になることもある。要望はかつてはクレームに近いものが多く、これがかなりのストレスになったこともあった。なにしろわたしの思うように指導できないのだから。たいていは決裂して退塾を通告する。わたしの我慢の限界をはるかに超えたということだ。昔の親は、退塾してくれ、と言うと、何時間でも、夜中にでも、電話してきて「子どもがやめたくない」と言っている」と往生際が悪かった。 三十年以上の竹の会の歴史の裏には常にこうした、わたしから見れば異常な親とのやりとりの歴史が、あった、クレームを言う父親、モンスター母親というのにも何度か遭遇した。正直、指導妨害どころではない。わたしの生活をさえもかき乱して、突然現れて、突然消えていった。消えていったのは、竹の会は私塾てあり、学校のように気長に付き合うことはないからだ。

 

 

 

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