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最低でも戸山/小石川、桜修館への道/個人指導という害悪

2016.05.29

 おはようございます。本日は5月最後の渋谷A指導日となります。季節はこのところ初夏、時に真夏日という日が続いております。気象庁の長期予報は外れてばかりと承知していますが、その気象庁が今夏は灼熱の暑さを予測しております。また台風が集中するなどということも言っておりますが、いずれもそもそも予測なのか、温暖化が年々進んでいることも考えて、去年以上の夏が再現されるであろうこと、当然わたしのような素人でも思い及ぶところですが、これを予測と言ってはばからぬのはさすがに気象庁らしく、熊本地震では、判断放棄したことも合わせて、判断に迷うどころか、大手即信用という判断放棄に等しい、昨今の親のありようにも何か通じるものがある。

 「竹の会はネットでは有名ですよ」と、よく言っていたのが、27年都立戸山合格の生徒でしたが、実際のところどうなのかとよく考えます。去年はほとんど、入塾の問い合わせはなかったのではないか、つまり、わたしがもっとも理想とする小4の2月入会者がひとりもいなかった。そういう年もある、平成20年がそうだった。結局翌21年の受検者はなし、事実上なしだった。竹の会というのは、もともと受検者は少ない。3~5人ほどか。小4の2月スタートなら合格までもっていける、合格させられる、そういう思いは強い。今は、小4の逸材が竹の会に来てほしい、というのが正直な思いである。

 ◎個人指導、家庭教師というのは、いい方法、選択なのか

 個人指導というのは、集団授業のもたらす弊害を避ける趣旨で、1対1の授業ということでわかるけれど、これが個別指導となるとよくわからない。大手のチラシの写真にはパネルで机を仕切った光景が見えるが、どうも生徒に質問されれば講師がその生徒のところへ行き教えるということらしい。他の生徒には見えない仕組みというのがミソのようで話し声は筒抜けである。個人指導では、講師独占、空間も独占で、いかにも売上の効率は悪いから、個別指導は、収益を上げることを考えた苦肉の策と思える。

 わたしなどには、そういうところに申し込む母親の心境というものが、手に取るようにわかる。まずもって、集団とは馴染まない、たぶん自分の考えを声に出すこともできない、内気な子どもたちというのが多いのかと思う。もしそうだとしたら、最初から環境への順応(という教育)を放棄したということで教育できない子どもたちなのだということである。最近の親、特に母親というのは、子どもの環境適応力というものを「摘む」傾向が強い。将来社会に出て、1対1などという会社などないのであるから、いや大学などはもう何百人を相手に大講義室で授業をやる、そうなるとその環境適応能力を欠いた、内気な少年、少女というのはいったいどう生きていくのか。

 親が、集団授業ではなく、個人指導、あるいは家庭教師を選ぶのは、典型的な場合を考えてみれば、「うちの子は大勢の中ではやっていけない」という判断があるのであろうが、それは性格の問題なのか、はたまた集団ではとてもついていけないほどに、頭が悪いということなのか。親は性格の問題にしたがるが、本音のところは、自分の子が頭が悪いと気づいているのではないか。

 個人指導の何がいいのか! 先生が自分の子だけを見るのだから安心ということか。まあ、わたしから言わせれば個人指導なんかやってれば、バカが加速するだけだと思うのだけれど、親にはいいことしているという意識があるのであろう。ちなみに、家庭教師はさらに悪い。家庭教師の場合、生徒や親に阿るので、特に、学生アルバイトだと、もう仲のいい友だちみたいになって、親もそれを喜んでいる節があり、ただ熱心な先生、わかりやすく教えてくれる先生、優しい先生という人柄の良さだけが高く評価される。本質的なところでは、つまりそもそも家庭教師を頼んだのはなぜなのか、というところはもうどうでもよくなっている節がある。

 何がいけないのかって、習う、教えてもらう、「わからない」とすぐ習う、教えてもらう、いったい、いつ考えるの? これである。個人指導や家庭教師は、そもそも勉強の本質に反する、思考というものを駆逐する、営為にほかならない。家庭教師に多いのは、とにかく教えるのが好き、自分のできることをとにかく人に知ってもらいたい、自分がどんなに頭がいいのか知ってもらいたい、そういうタイプである。「わかりやすい」などと言われるとたちまち木に登る。気をよくして頼んでもいないのに、やたら教える。問題を読む前からもう、「これはね、・・」と説明し出す、解き方を示すのである。生徒に考えさせるというか、そもそも考える時間もほとんど与えないで瞬発で解き明かす、教えてしまう。こういうのは学生に特に多い。まあ個人指導を謳いながら、子どもに「考えろ」とばかり言ってなにも教えなければ、子どもはすぐ不満を母親に言うだろうし、母親はそれを受けて、高いおカネを払っているのに、と切れるのは必然でしょ。だから講師は最初から最後までベラベラと喋りまくるしかない。生徒に「この先生はダメだ」など烙印を押されたら、講師は外されるのだから、やたら阿ることにもなる。バカ親、バカ息子、バカ娘には、こういうバカ講師がお似合いなのである。

 世の中には、頭の悪い親がいて、個人なら「できるようになる」と信じている。わたしにはバカが加速するだけにしか見えないのだが。

 いいですか。子どもが伸びるというのは、思考が、思考力が「伸びる」ということなのですよ。思考できる、自分で考えることができる、そういうことが伸びるということなのです。バカが解き方教えてもらったら、バカになるだけでしょ。具体的な、「その」問題の解き方を教えてもらって、その解き方、その問題だけに通用するその解き方を覚えて試験を受ける、同じ問題が出れば「できた」と喜び、見たことのない問題には手も足も出ない。習った問題だけ解ける。この問題と解き方を覚える、そういうバカ生徒には、思考の欠片もない。そもそもこの個人指導では、思考というものを育ててないから当然である。抽象の欠片もない。具体的なことを覚えるしかない、アホのまま、高いカネ払って、全く救いようのない完全バカに仕上げるのであるから。

 思考、考えるという、抽象化という契機、過程の積み重ね、そういう精神作用の訓練は全くないわけである。わたしにはこの個人指導という、選択が悪魔の選択にしか見えない。

 個人指導とは、自分のバカさ加減に合わせて教えてくれる、阿り先生が、四六時中、契約時間内はマシンガントークしてくれる、サービスである。自分で考えることはない。

 

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