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最低でも戸山/小石川一直線/小4、小5で子どもの人生は決まる

2016.05.26

 遅くなりました。ようやく風邪は抜けつつあるのかと思いますが、わたしは鼻風邪、喉風邪、いずれにしても気管支まで必ず進む、そして咳に苦しめられる、咳で体力を消耗してしまいます。抗生剤の影響でしょうか、この3日間続いた下痢で体重はかなり軽くなったかもしれません。思わぬ減量となりました。

 昨日は、Aの指導日でしたが、子どもたちはみな元気にやってきて、運動会の練習で疲れている子たちもいましたが、居眠りをする子もなく、それぞれに指導課題に取り組んでいたと思います。正直入会間もない子たちについては、いろいろ懸念もあります。勉強というものに対する姿勢というか、真摯さというか、まだまだ幼い、甘い、ゆるい、まじめで素直な子たちとは思うけれど、試験というものの厳しさを知らない幼さはやはり気になります。特に、小5については、これから1年鍛え上げてどこまで変わるか、本格的な指導開始となる、小5の2月までに、きちんと思考できる子になっているのか。

 今年は、小石川や桜修館をめざせるほどの小6はいないと思う。小6前後に参加した2名は大手出身だけれど正直去年の小6と比較して1年6か月は遅れている。計算力も初級レベル、割合もこれから鍛えてどうなるかという段階である。一つだけはっきりしていることは、思考力もないのに適性問題などを練習しても全く意味がないということである。実際今は適性問題に全く歯が立たない。

 わたしが大手に憤るのは、小4、小5という貴重な時期を大手で過ごした子たちというので、まともな子というものを見たことがないからだ。

 というか、世の親たちにいったい見識などというものはあるのだろうか。なぜあれほど大手、大手と子どもを大手に入れたがるのであろうか。それで自分の子を救いようのないバカに仕上げていれば世話はない。

 ◎小4、小5期を逸するな!

 この時期の選択が子の未来を決める。そういうことが世の親にはわかっていない。

 大手塾という選択 あなたの子どもはそんなに天才ですか。もし大手が進学塾型なら天才以外は潰されます。もし大手が都立型だったら天才以外はほとんどバカになります。「天才」とはどの程度の人を言うのか。まず、学校で「よくできる」が8割以上ある優等生は天才ではありません。この程度は天才とは言いません。確実に大手に行けば伸び悩む、悪くすればバカになる。大手に行って被害を免れるのは天才だけです。そしてバカ親の子が天才なわけがないのです。

 塾に行かない選択 受検・受験しないから塾には行かない、至極もっともなように見えます。受検しないから勉強しない、もちろん塾は必要ない、というわけです。そういう子の家庭学習というものが、全くやらないか、やっても中途半端なものであろうことは想像に難くない。受験、つまり高校受験はやるとしてもずっと先のこと、こう楽観しているのが、その親の精神構造なのであろうと思う。

 まあこの手の親は救いようはないのだけれど、小4、小5期のもっとも頭が無垢で柔軟な年齢、この時に、勉強というものに対する対し方を訓練するということの計り知れない能力飛躍のチャンスをいとも簡単に捨ててしまうわけである。それどころか、この時期にゲームはやり放題、テレビは見放題、漫画は読みたい放題、勉強なんかまともにすることもないという生活習慣を骨の髄から染みこませてしまうのである。こういうのが中学になると、親には、それでも中3まで塾はいい、当面部活でそれどころではない、そういうのと、とにかくどこでも地元の塾に入れて通わせるというのと、二通りいると思うけど、いずれにしても、すでに終わっています。当然成績なんかろくなものではなく、底辺都立か、低偏差値私立へ行くのがほとんどであろう。こういう親というのは、自分がすでに小4、小5の時に、そういう選択をしたのだということがわかっていない。思考力のない子どもに教えるのは対症療法ほどの意味しかない。伸びるというのは、思考について言うことばである。思考のない人間が伸びることは決してない。

 小4、小5のときに、すでに将来社会の底辺を這うことになるであろう子どもは決められる。小4,小5期の重要性に早く気づいた親こそ幸いである。

 ただ大手でなければいいのか、というそうではない。世の中には、塾という看板は掲げてはいても何の工夫もない、ただ「教える」ことが塾の仕事だと心得ている、個人塾の塾長、中小塾の講師が溢れているからだ。ただ教えるだけのバカ塾長が腐るほどいる。典型的なのは、既製の、お仕着せのテキストを使って、授業やったり、個人指導やったり、する、それである。自前のテキストはそんな資本もないからない。塾というのは、塾に使ってもらうために教材を作る会社がたくさんあり、そういうところから仕入れるわけである。授業にしても、個人指導にしても、そういうテキストを使ってやっていく。子どもは塾業界標準のテキストに合わせて予習復習して習う、教えてもらうわけである。頭のいい子も悪い子も同じテキストを使う。頭のいい子は自分でどんどん解いていく。悪い子はわからないから習うけど結局大半はわからないままで進む。要するに、頭のいい子はできる、頭の悪い子は塾に行ってもできない、そういうことです。問題なのは、頭のいい子もそういう塾でそんなことやっていたらバカになるということです。世の中には、形態にばかり囚われて個人指導ならできるようになると信じている親もいるけれど、問題はそんなことではないでしょ。

 わたしは世の親たちが何も考えていない、ただ大手というだけで自分の子を大手に入れたがるということを嫌と言うほど知らしめられてきた。だからそういうバカ親には用はない。

 これから自分の子を、教育していこうという、小3、小4のお母さんたちに言いたいのである。

 今、この時期に必要なのは、知識など身につけることではない。今緊急を要するのは、思考力、考える力をじっくりとつけてやることです。お仕着せのテキストなんかやって、無駄な時間、思考潰しをやってはいけない。小3、小4期の子どもにどう思考力というものをつけていくのか、というのはこれはもうかなり難しい問題です。わたしだって、これだという答えをもっているわけではない。ただわたしはこれまでそういう学年の子たちを育ててきた。試行錯誤と苦難の繰り返しの中からひとつひとつ方法というものを積み上げてきた。一枚のレジュメを時間をかけて考える、あれやこれやと考える、調べる、苦しむ、そういうことの積み重ね、いつも勉強と正面から向かい合っているという姿勢を維持し続ける中か得られる勉強という習慣、生活の一部にまで組み込まれた勉強習慣、そういうものを獲得していく過程のなかから、得られる何かがある、とわたしは知っている。ここで得られた勉強というものに対するスタンスは決して長じて一朝一夕に身につけられるものではない。中学になってからでは遅いのである。手遅れなのである。小3、小4というこの時期にしか子どもたちには手にできないものがある。竹の会は、わたしは、そのことを知っている。そして少なくとも竹の会ではそういう考える力をつけるための指導というものができる、と言っているのである。

 竹の会は子どもの未来を案ずる、小3、小4のお母さんに、ぜひ竹の会にきてください、と言いたいですね。

 

 

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