画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山へ/小石川・桜修館絶対合格なら小4入会必須/対症療法というまやかし

2016.10.04

 おはようございます。台風18号の進路、速さが気になります。今のところ静観です。ただ明日の指導は予定どおり実施の方向です。

 ◎11月6日実施の漢検の申込期限は10月6日です。

 ◎現在特に小5の入会希望者のお問い合わせが多いため現在の竹の会の募集についてご説明しておきたいと思います。

 まず竹の会では、小4の8月前後をもっとも理想的な入会時期と考えております。特に、小石川や桜修館に絶対に合格したいというお子さんはこの時期の入会が適切と考えます。次に、竹の会の入会試験を受検するには、前提として学校の通知表の「よくできる」が全体の80%前後あることが理想です。これは過去の入会試験ⅠのA合格者の成績から検証した結果です。

 ※入会試験Ⅰについて

  竹の会ではもっとも信用度の高い将来の伸び、指導の成否を占う試験です。過去の実例では、小4の7月、8月、10月、11月などにA合格者が出ております。A合格というのは、6問中5問正解の場合を言います。全問正解をS合格、4問正解を合格、3問正解を準合格としております。

  無事試験に合格して入室できても、6か月を周期にそのまま指導を継続するか否か、を検証します。入会者はまず6か月を区切りに、その後も6か月おきに、退塾となる可能性を覚悟してもらわねばなりません。特に、過去小6につきましては、受検直前において、退塾相当とする場合でも、「直前」ということで宥恕してきましたが、厳正に対応すべきであったと反省しております。そのような配慮も虚しく、礼を失する、信じられない行動をとる親たちがいたからです。退塾の根拠は純粋に「指導継続の困難」です。退塾はその人の人間としての価値と全く関係ありません。純粋に、報酬をもらって指導するということ、そのことが困難だからです。成績が伸びる見通しのない指導を報酬をもらって続行することはできない、それだけです。

 報酬ということでは、竹の会では、月々の月謝は必ず前月末までのお支払いを遵守していただくようにお願いしております。竹の会は超一級の「指導」というサービスを報酬をいただいて提供するプロの塾です。竹の会の提供する指導に不満なら即退塾すればいいだけのことです。竹の会はプロですからいい加減な仕事をしていれば見向きもされない、いつもそういう危機感をもって最高のサービスを提供するように努めています。指導が報酬に見合わないとすれば、いつでも首を切られる、それがプロの世界です。ですから竹の会はプロとして常にその覚悟のもとに指導というサービスを提供しているつもりです。報酬はプロである以上当然のことです。決して人徳を売りにした奉仕をしているわけではありませんので、悪しからず。

 

 竹の会はいたって小塾です。1学年で受け入れできるのは譲歩しても5名が限界です。1学年を多く取り過ぎることは塾の経営バランスを欠くことになりできません。竹の会は飽くまでも小4から育てていき、小5の1年間を訓練に明け暮れて、小6になってようやく受検指導という手順にこだわっています。ところが近頃は小6前後、小5の秋は特に問い合わせてくる親が多い。竹の会のような知名度のない小塾がいくら小4の逸材がほしいと思ってもだれも来てくれない。去年などは入会者0でした。いや入会試験を受検した人ならそれなりにいましたから正確には合格者0です。竹の会のような小塾が入会試験などをやるのはいろいろ難点があるわけです。入会者0ということになれば塾は続けていけませんから。事実去年はその覚悟もしました。しかし、わたしは昔のように入会したいという人ならだれでも受け入れて、ストレスをためながら苦しむ、そしてバカ塾にしてしまう、そういうようなことができなくなったのです。もうバカを相手にするのはいい、わたしの培ってきた最高の指導技術を賢い子にだけ使いたい、そう思うようになったのです。わたしも歳をとりましてもう何年続けられるか自信もない、それならばわたしの好きなように見通しのある賢い子だけを指導したい、そう思ったのです。

 小5につきましては、募集はしていません。受検ではなく高校受験目的の小5、小6につきましては、受け入れております。ただし、6か月再審査という条件は変わりません。竹の会では高校受験に関しましては、より厳しい入塾資格を求めています。竹の会では学年1番はふつうにいます。過去ずっとそうでした。竹の会はもともと高校受験専門の塾でした。昔は駒場とか、新宿とか、青山ばかりを指導してきましたが、今の竹の会は最低でも戸山です。過去合格者のいない日比谷にロックしております。竹の会では勉強しない中学生は不要です。中学生につきましても適宜資格再審査をして「退塾の勧告」をする、それは変わりません。

 小4は募集中です。ただし、現在はBでの受け入れのみです。

◎「授業見学」志望について

 竹の会には授業というものがありません。よくお問い合わせの中に「授業見学」の希望というものがありますが、本来の授業を念頭におかれてこれを言われているのなら、そういうものはございません。

◎対症療法というまやかし

 そもそもリスクというのは何か。まず原因もわからずに症状に合わせてクスリを使うことに意味はあるのか。現代の臨床医療はそのようになっている。医学部は投薬について学ばせるだけ、医師は投薬するだけ、これが現代の医学です。そうなるとこれはクスリを造る会社のモラルが当然問われてくる。人命を金儲けの手段としかねない製薬会社というものが巨大な力をもってくる。医師は製薬会社の奴隷となる、確実になる。なぜならカネに滅法弱いのが医者だからです。

 さて原因がわかっていたらどうなるのか。原因に有効なクスリがあるかどうか。原因がわかってもクスリはないということは通常のことなのではないか。してみれば今のように原因もわからないのに、症状を鎮静させるためにクスリを使うというのは、実は始末が悪い。原因がわかっている以上に始末がわるい。症状に効くならいくらでもリスクのあるクスリが使われることになるからである。

 ところで原因にはさらにその原因を生ぜしめた原因というものがある。元があるのではないか。昨今は症状に効くはずのクスリが実は他の病気の原因だったというお笑いのような話しも尽きない。なにしろクスリは毒物であるという認識がまるでないのだから。患者はクスリを欲しがり、医者は必要性の怪しいクスリをいくらでも処方する。今の日本の患者のほとんどは実はクスリに、正確にはクスリの副作用によって作りだされている疑いさえある。クスリは毒物なのだ。クスリは当面の痛みから解放してくれる。しかし、その代償はいたって大きいことがあとあとわかる。

 クスリは精神にどのような影響をもたらすか。肉体の病変に効くということで投薬されたクスリが心に及ぼす影響である。痛みから解放されて心は安らぐであろうか。確かにそういう効用は期待できる。なにしろプラセボ効果というものがあるくらいだから。偽薬でも本人が効くと思えば楽になる。しかし、クスリの毒性は実は精神に依存心が鞏固に支配するようになるという点において深刻である。クスリなしには健康でいられない、そんなバカな現象が現代人に蔓延してしまった。

 ここで教育について。わからないという症状に効くクスリはあるのか。「わからない」という症状が、持って生まれた能力のゆえだとしたらつけるクスリはないでしょ。ところが大手塾も巷塾もこれを区別しないでみな治せるみたいなふりをする。明言しないのはできないとわかっているからである。バカにつけるクスリはないのであるから。

 現代の塾というのは、集団相手にボロもうけを企む企業にほかならない。地元の塾はそのおこぼれに預かろうとする同類である。現代の塾が用いる集団を処理する営業の手段が、「テキスト」、「授業」、「講師」の三種の神器である。いや三バカ大将である。中でも「テキスト」によって個別化するのが大手塾である。授業はテキストにしたがい、講師もテキストにしたがう、当然生徒もテキストにしたがう。だからテキスト次第でどうにでもなる。進学大手だとテキストも難しいから落ちこぼれも出てくる。テキストが難しければ講師の腕の見せ所でもある。みなテキストを中心に回っている。テキストは、画一的処理に向き、大量的処理を可能にする。いくら生徒が増えても同じテキストを使うのだから大歓迎である。大量のお客さんからカネをかき集める最高の手段といえる。

 いいですか。同じテキストを使って、1000人が同じ授業を受けたとして、1年後、2年後に何かが変わるのでしょうか。講師はテキスト以上のことは何も言わない。夏期講習もみんな同じ、冬期講習もみんな同じ、特別講習もみんな同じ、それで1年、2年経って、何がどう変わるのか。100番にいた子は1年後100番のままでしょ。もし上がったというのならそれは他の怠けた子が落ちたときだけでしょ。100番の子は同じ条件ならずっと100番です。がんばっても変わらない。みんな頑張るからです。同じことやってたら順位はもともとの知能、地頭の順でしょ。

 ところが、世の中のバカ親は、そうは考えない。大手に集まってみんな受かる気でいる。「うちの子は受かる」とそう本気で思っている。100番だった成績が10番に上がると思っている。それで1年経って、2年経って、一向に上がらない。それで「大手のやりかたに疑問を持っている」などと小6のこの時期に言うけれど、っかじゃないの。そんなこと最初からわかっていることでしょ。

 大半はこのテキストも消化不良で終わるわけです。次から次にテキストを売られるので、ひとつのテキストも陸に時間もかけられない。みな中途半端です。商売本位ですからこうなる。だいたい予習、復習というのがわからない。テキスト以下のことやって予習とか復習とか、結局テキストだけやってればいいということでしょ。それで思考力はどうなの、と訊きたい。

 大手はテキストを中心に回る。地元の塾もテキストを調達してあやかり商売をしているのは変わらない。

 竹の会は子どもの思考を中心に回転している。比喩的に言えばそうなる。天動説と地動説ぐらい違う。

 テキストが中心で講師も授業もテキスト中心に回っている、これが大手とバカ親の信じる天動説である。そうじゃないでしょ。回っているのは、中心にある子どもの思考に合わせた、等身大の刺激でなければなるまい。回っているほうが子どもの思考の寸法に合わせて、寸法を合わせるのである。

 それに子どもは訓練してなんぼである。決して何かしらないが、「教える」対象、知識を「与える」対象ではない。

 実は地動説というのは、実体に即した指導をということで、天動説というのは、真実に目を背けて、「みんな」がそうしているからとか、「大きいから正しい、信頼できる」とか、そういう直感を根拠に行動するするバカ親のとる態度を比喩的に言ったものである。世の中にはそういう頭の空っぽの人間がうようよいる。

 

ページトップへ