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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山を獲る技術/小石川、桜修館の知能/木を見て森を見ない子のこと

2016.09.15

 おはようございます。台風と台風の狭間の少し蒸し暑いが気温は秋の気温に違いない、今日は涼しい一日になりそうです。「渋谷A」は、昨日の指導で次は来週の水曜までお休みとなります。今度の連休は初めて休養日をいただいて上田城に出かけることとしました。一泊してきます。8月はとうとう一日も休みなく仕事に追われました。塾というのはみなさんがゆっくりとお休みするときにもとにかくフル稼働している、だから竹の会を始めて30年間でお正月に実家に帰れたのは昭和60年、竹の会開設の年の年末が最初で最後になってしまった。年末やお盆の帰省は母がいちばん楽しみにしていたことだったのにとうとう母の生きている間には適わなかった。つらい仕事です。親の死に目にも会えない。受験直前はそうです。受験生を放って帰れませんから。

 小4や小5、入会して4から6か月になりますか、そろそろいろいろと子どもたちの持ち合わせた能力の色合いが色濃く出始めてきました。竹の会というのは、入会するとまず小数から紐解く、それから分数、分数は「極める」までやる、「逆算」を含めて私立難関中レベルの計算が苦もなく解ける、そういうところまでもっていくと、いよいよ割合の指導に入る。こうした一連の指導ではやはり入会試験に合格していないと指導が進まないというのが経験である。さらにA合格している子、特に、小4でA合格している子なら指導はかなりテンポよく進められることになる。竹の会で定番の「入会試験Ⅰ」については、対象の年齢がひとつの課題であった。最近の実例では、小4の7月にA合格が出た。これまで小4の10月というのがひとつの標準と考えていたが、去年は生徒がほとんど集まらなかった年ですが、その年に小5や小6などがこの「入会試験Ⅰ」を数多く挑戦していますが、ほぼ全員が、不合格となっています。中には、「0点」という子も何人かいました。中1で「0点」という例もありました。それでわたしも小4にこの試験を適用することにやや躊躇が出始めていたもので、小4になりたてという時期、4月、5月ですが、かなり甘く対応したわけです。ところが小4でも平気でA合格をとる子がやはりいたのです。そしてやはりそういう子でないと小石川や桜修館というのはきついというのが実感です。小4の2月~小5の4月にA合格というのはどうか。本来竹の会では小4の2月前後をひとつの目安としてきました。しかし、この時期にA合格をとったとしてもそのまま伸びるということは確実ではないようです。やり小4の8月がひとつの目安なのかなと今は思っています。小4というのは、多くの親たちがたいてい大手のどこかに子どもたちを通わせる年齢です。小4,小5と通わせて、「ダメだ」と気づいたのが小6という親も多いはずです。小5の2月に竹の会にやってくるというのはいかにも遅い。仮にこの時期にA合格をとれたとしても保証はない。ところが現実には大手にいたという子たち、自宅で通信をやっていたという子たちもふくめて、そういう子たちがまともに点がとれない、A合格どころか、準合格もない、わけです。世の中にはバカ小学生が溢れていたのです。いったい親たちは自分の子をどうしてきたのか、小6になるまで何をしてきたのか、ただ大手塾に、地元塾に通わせていただけ、そういうことでしょ。塾に行かないのは経済的理由も当然ある、それで通信なんかはやるわけです、しかし、ダメでしょ。そして世の中に溢れるバカ小学生が計算もまともにできない、割合も理解していない、それなのに適性類似問題を解いている、いや解かされている、講師がすぐ解説する、だからなにもわかっていない、ただノートに写すだけ、そういうことをしながら1年、2年と大手に通い、バカに磨きをかけていく、そういうことなのではないか。

 大手に1年もいた子というのは、特に、小4という真っ白な状態のときに大手で感化されてしまうと、取りぬぐい去れない性癖がこびりついてしまうようです。動物のあかちゃんは最初に見た人を母親だと認識すると聞きましたが、それと同じようなことが起きているのではないか、と思います。大手でいつも「わかりやすい」説明を聞きながら進めてきた子というのは、本質的にいつかだれかが教えてくれる、説明してくれる、という期待(依存心)が常に宿っているように思うのです。ですから、断崖絶壁に追い詰められてとにかく自分で切り抜ける、考えて突破するということから逃げる、そういう性癖が強い。竹の会でもかつて1年ほど大手にいたという子ほど「わかりません」、もう無理ですと放棄する傾向が強い。小4期に親が安易に大手に入れることはこういう危険も承知していなければならない。かつて大手進学教室に通う私立難関志望の小学生を見てきた経験では、実にあきらめがいいということか。難問に出会うとすぐ「わかりません」と降参する、放棄する、そして「解き方を教えてください」と言う。こいつらは塾が解き方を教えてくれるところだと思っているのである。親も塾は何か、してくれるところ、やりかたを教えてくれるところ、いろいろともらうところと考えて疑わない。

 小4期に竹の会に出会うこと、これはひとつの幸運なのではないか、わたしはそう思います。ただし、A合格をとれるほどの子であれば、という条件付きですが。逸材が小4の夏に竹の会に出会うこと、それは合格を約束されたようなものである。ここで大手に入れるのはかなりのかけになる。もしその子が天才なら進学塾に入れてもなんの問題もない。天才はめったにいない。竹の会には天才などいない。A合格をとれる子、それは天才などではない、ふつうの子でしかない。そういう子が大手にいけば洗脳されればもはや思考しないロボット、決まり切った思考回路を行ったり来たりすることしかできないバカになる。大手というのは自らの思考回路を型にしてしまい、その型でしか考えられないバカにしてしまう。事実を見ない、木を見て森を見ない、子にしてしまう。事実の意味を考えない、考えられない、事実と事実を結びつける関係性というもの、それもつまりは意味なのであるが、そういう意味というものを考えられない、そして意味と意味をつなぎあわせてひとつのまとまりのある意味、つまりストーリーにする、それがつまり考えるということなのであるが、それができないのである。それは小4というもっとも重要な時期に、問題を与えられて説明される、それで「わかった」という習性をたたきこまれてきたことが大きい。まず事実を素直に見る、そしてその事実の意味をゆっくりと考える、そういうことができないのである。それは裸の王様を裸だと言えないのに等しい。裸であるという事実をも自分で判断できないまでに彼の彼女の頭を型、単一回路が支配するようになっている。この単一回路は自らは事実を見て判断するようには作られていない、回路にインプットできるのは、たとえばどこかの講師が咀嚼して「いいですよ」と言われた情報だけである。その単一回路という理解装置は複雑な事実の意味取りができない構造になっている。小4の時期にこのような装置を1年もかけて脳に埋め込むなんて、ありえないことです。

 いいですか。小4だから試しに大手などと考えてはならないのです。それは取り返しのつかない選択なのです。それならまだ塾なんか行かないほうがましです。

 竹の会という塾は、東京に一つしかない。渋谷駅から歩いて7~10分のところです。恵比寿駅から10分、東横線代官山から10分ほどです。東京23区のみなさんなら1時間をみておけばいい。港区や世田谷区なら15分~30分、バスを利用できれば「渋谷車庫前」まで15分で他区から通える。竹の会には、江東区や品川区、大田区、練馬区、板橋区などからも通ってきています。なぜか渋谷区は少ないですね。よく言うのですが、竹の会は毎年が勝負で、来年もやれるか、わたしにはわからない。もう30年以上もやってきまして、歳を取りました、体力が持つか、今はそのことばかり考えています。東京のみなさんに竹の会が塾としていられるのはそう長くはない、わたしはいつもそう覚悟しています。いつか突然に「もう限界です」と言う時がくるかもしれない。いつもそういう悲壮感を持ってやっています。

 わたしの夢は、竹の会を始めたときからの夢は、「渋谷駅のそばに塾があれば」ということでした。そして東京の渋谷に小さいけれど「こんないい塾があるんだよ」と東京のみなさんに噂されるような塾になりたい、ずっとそう願ってきました。夢見てきました。そしてわたしは超一流の先生でなければならない、といつも自分に課してきました。だからわたしはいつもいつも自分を磨くために自分に試練を課してきました。高校入試問題なら過去30年分、東京、埼玉、千葉、神奈川の難関、東京の中堅以上の高校、すべての過去問を解き尽くしました。私立中学の過去問もおおかた解き尽くしました。大学入試の数学は秀逸とされる参考書を読み尽くし、英語は、もう膨大な参考書、問題集にあたり、東京の私立で使われている参考書とわかれば必ず取り寄せて研究しました。国語を極めるために評判の書籍はほとんど読みました。読書は一日1冊、最低でも1冊ですが、今は数冊を同時に読み進めています。塾としてのレベルを落としてはならない、その一心で本は読んでいます。理科や社会は高校入試対策は極めています。平成18年ごろから公立中高一貫校対策の研究もしています。過去問は2007年のみくに出版ものから毎年解き尽くしてきました。算数は2004年からはみくにで解いています。それまでは声の教育社のを使っていました。解説は不要なのでみくににしました。高校入試は最近は旺文社の全国版を使っています。わたしのやりかたは今でもとにかくまず自分で解く、それから自分なりの解説を執筆する、これです。

 高校受験はわたしの専門です。昭和60年10月に竹の会を始めたとき、最初の生徒が、代々木中学の2年生だった、3人の女子生徒でした。最初は、週2回、1回2時間の授業をしていました。テキストは教科書です。市販の問題集なんかも利用しました。狭い一部屋しかないマンションの一室でした。今から考えてもよくあんなところにきてくれたものだと、当時のお母さま方の英断には頭が下がります。塾を始めたばかりでなにもなかった。参考書といえば、確か武蔵と開成の高校入試問題がポツンとあっただけだった。教科書もなかった。机といすは確か中野の中古を売る所で探した。天井からは蛍光灯がぶら下がっていた。わたしがやったものだから不格好で背の高い生徒がよく頭をぶつけた。それが1か月でたちまち代々木中学で評判になり、生徒がたちまちふくれあがってしまった。「教えるのがうまい、わかりやすい」と生徒や母親の評判が広がった。それから塾として一人前になるために大変だった、教材会社に認めてもらい、教材が手に入れられるようになるとか、模試を塾として申し込めるようになるとか、オリジナル教材の開発を始めるとか、わたしはもう夢中でした。平成になっての10年間はワープロ専用機の時代であり、10~20年、いよいよパソコンの時代、インターネット普及も本格化し、竹の会も変貌していくことになる。

 2011年3月11日、原発事故。あの年に竹の会は岐路にあった。廃業か、新天地に移転するか、毎日のように悩み考えた。渋谷竹の会が誕生する前夜の闇、苦しみの年であった。東京の一等地に竹の会が移転なんかできるのか、そう考えるといつも絶望した。それでもわたしはあきらめずに1%の望みにかけて手を尽くしてきた。

 2012年5月6日竹の会渋谷教室スタート。1985年10月に始めた小さな塾、いつも先生はわたしひとりだけ、いつしか30年以上の歳月が流れてしまった。竹の会、東京の渋谷に竹の会がありますよ、わたしは心あるみなさんにいつもこの「草枕」で呼びかけてきました。どこまでがんばれるのかわかりません。でもまだ今、今年は呼びかけることができそうです。

 東京の渋谷の駅近くに「こんないい塾がありますよ」とわたしは東京23区のみなさんに呼びかけています。小4の夏までに竹の会にきてください。あなたの大切な子を思いつきで大手に入れて取り返しのつかないことにしないでください。東京には竹の会があります。今ならまだあります。わたしの、竹の会、わたしにはかけがえのない竹の会が、ありますから。

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