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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/九段、富士、両国の人気/親が子どもをダメにする構図

2016.08.05

 おはようございます。例年通りの夏日です。渋谷Aの夏日程は前年と同じく全12回で実施しております。8月中の勉強姿勢を勘案して、ABともに視野に入れて、9月以降の指導に見通しがもてないと判断したとき、あるいは7月までの指導の状況をふまえて、ここが区切りと判断しています塾生につきましては、8月上旬に、文書にて、退塾のお願いをする予定をしております。そうでなければ巷の塾などの批判はできますまい。とにかく大手にしても地元の個人塾にしてもいろいろと可能性を仄めかして生徒を引き留めることしか考えていない。成果も期待できないのに、あるいはすでに竹の会を続けることに逡巡した親子もいるやに思料していますが、それを放置したままに9月以降も指導を続けるなどということはとてもできない相談です。竹の会は竹の会を信頼して一心に指導にしたがってくれなければ来てもしかたない。特に、勉強しない子、勉強に逡巡のある子というのは竹の会に来てはならないのです。また大手塾に通いながら竹の会にも通われているという方もいるやに耳にしましたが、竹の会では8月を区切りに退塾を告知することになると思います。これはすでに大手塾にいるのであれば問題ないとみています。これまで竹の会の課題、指導の進み具合に疑義がありましたが、9月以降はこのような疑義は遺さないで解消したいと決断しております。

 8月の指導申し込みに際して竹の会入会も視野に入れての申し込みをされた方のみのお話しですが、9月指導開始までに入会申込手続きをとらなければ指導は当然8月限りとなります。お申込は夏期期間中にのみ受けつけます。入会の手続きとは、入会申込書及び入会金のお支払いを言います。8月の指導申し込みに際して竹の会入会も視野に入れての申し込みをされた方のみ申し込みができます。

 ◎竹の会で奇跡を見る

  病院に行けば根拠の怪しい病名を診断されて、薬を処方されて、昨今はもはや半永久に虜にされてしまう。いや下手をすれば病院で死ぬ時代である。今や医療の発達、新薬の開発が進み、老人は長生きするようになった、いや一方病院で殺されるということも多くなったけれど高齢化社会が進むとそういうことも氷山の一角のままに問題にもされない。

 病院というのは、特に、大学病院というのは、今でも封建時代そのものらしい。どんなに非合理な治療でも教授がバカなら若手医師はしたがうしかない。群馬大病院のリピーター医師が殺人医師であってもだれも何も言えない構造というのはなんとも恐ろしいことであろうか。大学というので最新の治療が期待できると思うのはど素人の考えである。バカ医師、バカ教授が平気で人を殺すところと考えていた方がちょうどいい。旧態依然とした効き目の怪しい治療が、権威的に粛々と行われる。傷口を消毒するとか、火傷の治療なんかもわたしたちは誤った病院や医院の治療で体を痛めてきたのである。最近は、そういうことを告発する医師の本なんかもちらほらと出てくるようになった。

 わたしは塾というのもこれと似ていると思っている。塾というのは大手を含めて、昔から変わらない、もっとも古い体質の世界、社会ではないかと思う。小さな塾だと、だれかが新しく入れば、早速塾御用達の定番のテキストが渡され、授業が始まる、このテキストも価格は決して印刷されないしくみになっている。これは使う塾の方で好きな価格をつけていいようにしているのである。だからたいていの塾は仕入れ価格の何倍もの値段をつけている。テキストは毎回単元どおりに進めていくことになる。もちろん授業するのが普通であるけれど、小回りのきく個人塾はもちろん大手もちゃと個人指導や個別指導などを用意していて、しっかりカネをとるしくみはできている。個人指導などと言っても集団授業とその本質は何も変わらない。テキストの単元を「教える」だけである。予習とか、復習というのも、このようなテキストで回す仕組みからきている。達成度テストも同じ。集団的扱いは大手ではそれこそがうま味なのであるから当然である。大手のテキストはさらにオリジナル性を出して、付加価値を謳い上げ値段も張る。

 子どもというのが勉強ということに対していろいろと問題を抱えたものであるとみれば、なんらかの病気に陥った患者にも喩えられる。とすればです。そのような患者を集団的に一挙に処理するなどということはまずありえないことでしょ。現代の投薬医療の現実に鑑みれば、塾も「できない」ところを教えるだけの対症療法にすぎないことをやってきたわけである。患者個人に目が行っていない。病名が決まれば病名にしたがった処方、治療しかなされない。大量の患者を処理するには、とにかく病名を決めて、薬を出す、こちらが先である。テキストの単元を「教える」こと、練習問題を「教える」こと、それしか頭にないような塾に行ってもなんの意味もないのに、それさえもわからないのが、昨今の頭の悪い親である。

 わたしが常々言うように、子ども、特に、小学生というのは、ひとりひとり訓練してなんぼなのである。それから塾が何かを教えてやるなどということはおこがましいことである。勉強ができるようになるというのは、医療で言えば、患者の自然治癒力が本質であるように、勉強だって本人の思考する力に待つほかないのである。子どもが考える、考えて解く、これを可能にするような環境を整備して、じっと待つしかないのである。世のバカ親のみなさんがこういうところ、大手や巷の塾のことです、に子どもを迷いもなく入れて、カネを貢ぐという構造が罷り通っているのは、医療の現実と変わらないでしょ。こういう親はほんとうに迷いがない、自分の判断というものはない、ただ大手だからというそれだけであるけれど迷いがないのは変わらない。なんという勘違いした親たちなのであろう。

 傷口に薬を塗る、対症療法と全く同じことをやっているのに、自ら治癒させるということなど頭にはなく、ただ傷を悪化させているだけなのに、誤解の構造を頭に中に完結させているから、厄介である。こういう人種に竹の会がいくら訴えても門前払いされるのは当然とは言えた。

 こういう塾の罪は、誤った治療が、処方が、自然治癒力を完全に駆逐してしまうところにある。病院が医師が大量の薬を出すように、大手も巷塾も大量の知識を商品価値を付加して売りつける。

 テキストも授業もいらないでしょ。なぜ塾が学校と同じようなことをするのか。自力で治癒させる、それには訓練しかないでしょ。鍛えるしかない。自ら勉強の価値を認めて勉強させるしかない。自分の頭で考えて解けるようになる。傷は自分で治しなさい。わたしは意味のない、いやむしろ有害な治療などやらない、それでけで十分です。

 わたしは基本的には自然治癒力を生かすようにしているだけです。手助けしているだけです。できるようになったのはわたしの力ではなく本人の意思、勉強したいという意思、できるようになりたいという意思、そして困難に立ち向かう強い意志、とにかく自分の力で考えようという意志の力です。指導というのは、このような意志に対してのみ有意的に可能となるのである。勉強する、解けることに喜びを感じない、そういう子には少なくとも竹の会は無意味である。

 

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