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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/九段・両国・桜修館を狙え/渋谷駅徒歩十分圏に竹の会あり/思考を鍛えることに特化した塾

2017.02.26

 おはようございます。2月26日渋谷Aは2月の最後の指導日になります。気温は10℃前後ですからもうかなり暑いと思います。2℃前後を耐え忍んでくるともう10℃は恵みの暖かさです。先日、白川静博士の「道」に関する解釈について触れましたが、教室の書架を探してみたら「呪の思想」という本が見つかりました。それでパラパラめくっていたら、例の「道」の行(くだり)がすぐ見つかりました。文字というのは、本来、人が神と心を交わし、神の力を得る手段であった、と白川先生は言います。陰陽師(おんみょうじ)が呪文を唱える、魔法使いが呪文を唱える、お呪いの言葉など、そうだったのか、と合点がゆきます。「道」という語も神様と関係があった。異族の首を、しかも生首を持って歩く、というのが「道」の字です。「首を持って進むという字形」なのだそうです。道は本来呪的対象であった、ということです。生首を持って、お祓いしながら進むのは、知らないところ、自己の支配権の及ばない地域を進む場合に限られる。そこには異族神がいるからです。「我々の祀る霊と違う霊がいる」と考えたからです。古代の人たちが呪的な思想に生活の基盤を置いていたことは現代のわたしたちの生活、いや心の中にも大いなる影響を及ぼしている、いや及ぼしつつある、のではないか。昨今盛んな新興宗教に集まる人々も少なからぬものがあり、わたしたちが江戸期の人々を迷信に生活を規定された人たちだととても笑えない怪しげなことを言う人々に出会うのにも事欠かない。芸能人が占いで選択すべき「道」を決めるという話し、そういう怪しげなことにいくらでもカネを注ぎ込むという話しは時としてニュースを賑わせる。まことに人間の心というものは古来呪的なものに弱い。

 さて、わたしたちは、知らない道、未知の世界へ踏みいることを避けては通れません。勉強というのは孔子先生の人生から学べば「歴史を学ぶ」ことに尽きる、ということに辿り着くのだそうです。孔子は独学で歴史を学び俯瞰した先人です。学ぶということが先人の過去の業績に学ぶということであるのは一般論としてはその通りなのかなと思います。しかし、現代のように先端科学が日々新しい情報をもたらし、社会のあらゆる分野がさらに細分化されていき、その細分化された部分社会が専門的に突出していくとなるとわたしたちはどうしても孔子先生の教えを関係ないもの、不要な価値観として捨て去って、忘れ去ってしまいがちなのではないでしょうか。

 社会に情報が溢れ散乱している状況化にある中で、わたしたちが主体としての個を取り戻し、判断する人間になるには、先端の情報は情報として、常に、歴史的な先人の知恵に学ぶ姿勢というものを忘れないことではないか。先端知識というのは生まれては消える、使い捨ての知識ばかりで、そういうものに囚われて自己を見失ってはならないと思うのです。世の中には著名評論家と称される人たち、弁護士、医師、学者などを生業とする人たちがコメンテーターと称して社会に生起する事件全般をあたかもわたしはなんでも専門家みたいな顔をしてコメントすることが御用テレビ局などの定番になっておりますが、人生の苦労もしてない若造弁護士がずっと年上の人の人生相談に口を出すなどという滑稽な光景にはあきれるばかりです。法律の文言の解釈を専門にする人がいつのまに人生の達人にまで崇められているわけです。そしてこういった輩がわかった顔をして言っていることがどこかでだれかが言っていた話し以外の何ものでもないということになると社会の中枢から腐っているような気がしてならないわけです。世の中の専門家と称する人たちの意見が模倣、似非、偽の意見であるとしたら、こんなものに時間を費やすだけで無駄です。世の中に溢れている参考書というのが、例えば、入試問題を扱うとして、そのほとんどがまず「答えありき」「正解ありき」から出発して解説するものです。受験生の立場になって、50分なりの制限時間内に導ける解法、解答なのかということです。それから多くのみなさんが誤解しているかと思いますが、入試問題を見てたちどころに解ける先生というのがいましたらそれは過去に解いたことがある問題を根拠にしている場合がほとんどだということです。わたしなどは首都圏の高校入試問題は過去30年分はほとんど解き尽くしていますし、中学受験の問題もしかりです。ですから、たいていの問題は知っているから解けているのだというのが本音です。もし全くの知らない問題だと制限時間内に解けるか、たとえば10分かそこらで解けるかというとまず自信はないです。かつて都立西の生徒を教えていたとき、彼はよく東大のしかも理系の過去問を質問してきましが、質問されて即答できるほどの力がわたしにはなかったので、解明するのに1、2時間ほどかかりました。これが正直なわたしの実力です。もっとも彼が質問してくるのはどうしても解けないという難問に限られてはいましたが。わたしは他人の書いた、それはたいていは後知恵でしょうが、解答、解説というものを一切読まないことにしています。どんな問題も初出のように自分で考えて解くことにこだわってきました。わたしの解説したレジュメの解法はすべてわたしのオリジナルですから、どこを探してもないでしょ。自ら子どもたちの立場に立って悩んで解かなくてどうするのですか。答えを知ってその答えに合わせて正解の道筋を考える、そういう指導者が多すぎるのです。子どもたちが参考書なり、問題集なりの答えを最初に見てから、考えるということをやるのを非難できる指導者は少ないということです。指導者がわかった顔をして教えていてもその解説はたいていは後知恵なのですから、子どもたちに力がつくのか、疑わしいばかりです。

 この後知恵とか、他人に流布している見解とかに惑わされないことが肝要です。とにかく自分で考えてみる、そのときの根拠は、論理です。本来ならとか、普通なら、そもそもとか、論理のイロハにもどって考えることです。

 だからその場で即答なんかできるわけがない。そもそも即断を求めてくるヤツは怪しんだほうが無難なのです。

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