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最低でも都立戸山/大手という業病に罹った親たちの末路/小4というチャンスを無にするな

2016.06.18

 おはようございます。今日は素晴らしい青空が広がる、空気清涼なる日です。こうして「草枕」の読者のみなさまにブログを書けることに感謝しております。実は毎日何か書こうとパソコンに向かうのですが、向かう前に気持ちが萎えることがよくあります。何か屈託があるとすぐに書き始めるのですが、今日は何も書くこともないという日もあります。それよりか一日、本を読んでいたい、思考を熟成させたい、と切実に思うことがあります。

 屈託とは、指導日に指導が思うようにいかない、そういうことから起きる様々な苦悩です。Bの子たちですが、計算を2、3題解いただけで終わる、2時間しかないのに30分以上かけて弁当を食べる、という子、小数の計算で位取りが、ずれて読み取り不能でも平気とか、正直、向上心というか、勉強に対する意識というものが、あまりにも低調、心が折れます。 どこまで伸ばせるのか、まだ始まったばかりですが、すでにしてへこんでおります。渋谷教室が始まったばかりのときに入会試験を経ていない子を一人見ることにしましたが、2年ほど通いましたか、なんとか「算数の魁」までは終わらせることができて終わりました。その子が2年も続いたのは、ひとつのことをやりなさいというと、とにかく延々と集中して続ける、そういう子だったからだと思います。わからないとき、ちょっときつい言葉に感じると涙をボロボロ流して泣きました。だからわたしも気をつけて言葉を選んで説明しましたね。できない子というのが、成功するのは、静かに集中できる、そういう子に限りますね。

 かつて分数の計算もできない子でしたが、日能研に通うのが好きで、できる子たちと一緒に通うのが大好きな子がいました。その子が、男の子だったのですが、小6の2学期だったか、竹の会にやってきた。なかなか通分ができなくて、ドリルをやらせると、止めろ、というまで、何時間でもやっていた。筆圧が強いのと、鉛筆を使うので、紙面は、まるでカーボン紙のようになりました。手は真っ黒になりました。通分はもういいかと、かけ算、割り算を教えると、また延々と続ける。もう言われたことを夢中で黙々とやるわけです。途中で診てみると、かけ算を通分してる、それでまた通分をやり直して、修正してから、またかけ算をやらせる、分数の繰り下げを理解できるのか、どきどきしたり、かっこがあるときの戸惑いとか、計算の順序とか、山あり谷ありでしたが、とにかく言われたことを真っ黒になるまでやる、それが救いでした。逆算をどうやってマスターさせたのか、覚えいないないのですが、彼はどうやら日能研時代の仲間たちと受験したようです。中1になって正負の数の「マイナス」の概念をどう理解させるか、苦労しました。マイナスの数を赤の数、プラスの数を黒の数と教えて、赤の数と黒の数のどちらが多いかを計算するのが正負の数の意味だよ、と教えました。赤は、色を変える力がある。だから赤に赤をかけると黒になる、黒に赤をかけても赤になる、そういうふうに理解させました。文字式もまた一苦労でしたね。文字というものが、どうしても受け入れられなかった。英語だって、もう大変だった。この子に単語が覚えられるのか、まず疑った。最初はもうでたらめだった。ところが、ある日、20語ほどのテストで満点をとった。誉めたらまた次に満点をとった。そうこうするうちに文法もなんとかわかるようになった。中1の1学期は、オール1でした。彼はとにかくわたしがやれと言ったことを延々と、止めろ、というまで続けるのは少しも変わらなかったし、ノートはいつもカーボン紙のように真っ黒だった。いつしか彼はカーボン職人と呼ばれるようになった。彼は中2の学年末に、なんとオール4になっていた。漢検3級、英検3級もとった。中3の6月、彼は突然竹の会を止めた。小6の時から思い続けた、進学塾へまた行きたい、そして仲間たちとまた受験したい、と思ったのだ。わたしは、彼の能力の限界というものを考え、極力難問を避け、彼の自信をつける、そういう問題を選んで、自信をつけさせていった。竹の会を止めたとき、彼のお母さんがやってきて、突然わんわん泣き出した。「わたしは竹の会に残ってこのままやってほしいのに、あの子はいくら言ってもきかない、竹の会の先生のおかげでここまでこれたのに、また進学塾に行きたい、と言い出した」、そういう趣旨のことを言った。

 その後彼がどうなったか、知らない。第一志望の私立には落ちた、それだけは風の便りに聞いた。しかし、どうなったか知らない。

 できない子の指導をするときに、よく思う。黙々とやれる子、そういう子でなければだめかな、と。できない子というのは、飽きっぽい、長続きしない、それが普通なのだけれど、時として、集中力にすぐれた子というのがいる。そういう子なら指導もできるのかなと、よく思う、そしてかつての教え子を思い出す。

 ◎小4というチャンスを無にするな

 都立中受検を契機として、小学生の指導という世界に踏み込んで、早10年以上の歳月が流れた。平成19年に教えた子たち、小6にもなって通分ができない、割合を教えてもほとんど理解できない、ある女子は、小6の7月頃に来て、受検に当然のように落ちて、「竹の会の先生の言っていることが全くわからなかった」と言って去っていった。猫も杓子も受検、受検と狂乱した。頭の悪いと言われる子たちも、親もとにかく受検を言い募った。計算もまともにできない子たちが、いきなり適性問題をやったのである。白紙、白紙、白紙答案ばかりが目立った。割合はいくら説明しても、馬の耳に念仏であった。わたしには教えられない子たちがいる、限界児がいる、わたしにはどうしようもできない。どれだけ悩んだことか。それでも学校で「できる」という子たちでさえ、まともに理解できない、割合とはいったい何なのか。そこから始まった。わたしは来る日も来る日も、割合の教え方に悩んで、本を読みあさり、みずからもいろいろと工夫したレジュメを試作した。平成18年、19年、20年の3年間でわたしが試作した指導レジュメの種類、量は夥しいものになっていた。平成21年、22年とわたしの研究は続いた。平成23年のことであった。そのときに指導した、算数のわかる小6、二人が話しをしていた。「でも、あのレジュメはすごかった。あれで割合がわかった」と言っているようであった。聞き耳を立てて、わたしは、「どのレジュメ?」と割り込んだ。それが今竹の会の定番レジュメ集「算数の魁」だったということです。長い、苦しいときを過ごして、わたしはようやく算数指導のきっかけを掴んだのだと思った。それからはわたしがミクロマクロと名付けた、その方法で竹の会の算数はすべて統一されていった。そのミクロマクロが、多分今年の秋にはアマゾンから出版されるはずである。

 子どもたちに適性問題の指導をすることから、わたしは小学生指導というものに開眼していったのだと思う。育てた子が受検する、そういう過程を10年以上にわたって見てきた。その中からわたしなりに小学生指導のタイミングというものが見えてきた。小4こそ好機、このタイミングを逃したらもう取り返しがつかない。しかし、親たちはそういうことに一向に気づくこともなく、小4から大手に、小5から大手にと大手に迷いもなく入れてしまう。自分の子を破滅させるのか、いやそれは親自身の末路の選択でもあった。まず公立中高一貫校専門の大手塾というのは、できる子もバカな子もみな同じテキストでカリキュラムを組み、集団授業をやるわけです。これがいいはずがない。バカな子に合わせればテキストは平易にならざるを得ない。また、とにかくまずいのは、思考力を伸ばすという視点が欠落していることだ。割合をテキストの一単元として2、3ページで扱い、終わらせてしまう、そんなばかなとおもうのだけれど、ありえない話しである、と思うのだけれど、・・・。いきなり適性問題を練習させて、ほとんど学生講師が解説していき、子どもたちはただノートに写すだけ、そんなことをよく一年も二年もやれるものだ。親がバカなのだと思うけれども、ここまで「大手を信用する」と言って、親そのものが思考する力がないのでは、と疑う。大手というのは、すごい。教室を開いてるだけで人がやってくるのだから。そういう大手を頭から「信用する」親は大手病という業病にかかっているとしか思えない。いやそういう親はたいていは権威に弱い、流される層、自身の判断を持たない、他人がどう動いたかで、自己の行動が流される人たちなのであろうとは思う。

 自分自身に特殊な価値を認めようとしない人々、自分が周囲の人々と価値観が同じであることに喜びを見出すような人々(適菜収の言)、そういう人たちが大手を迷いなく選択する人たちなのであろう。彼らの特徴は、「自分より高い次元からの示唆に耳をかすことを拒否」することである。竹の会のチラシが一瞥もされることもなく、ゴミ箱に直行するのは、こういう人たちのなせる業である。こうしてこういう層の親たちに竹の会が出会うことはほとんど皆無となる。かつて竹の会に入会試験を受けたい、と言ってやってきた親子は、合格しても、最初から入会する意思などなく、物珍しげに竹の会のレジュメを見て、国語のレジュメを見て、「ああ、こういうのもあるんだ」とどうやらすでに大手に行く前提で、どうも高みの位置から見ているオーラが出まくっていたけれど、「上から目線」などというものは、現代のような大衆社会ではそもそも存在しえないのに、あえてそういう主観に引き摺られ、風を装うなど、すでにしてアホの域に達していた。

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