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最低でも都立戸山/大手礼賛歌バカ親協奏曲/小石川一直線/塾に騙されるな

2016.05.24

 おはようございます。とうとう昨日は夕方には37.6度、8時に塾を終えて急ぎ帰り寝込みました。今朝も37.3度ありまして、これから医者に行きます。対症療法の薬をもらうのがいいのか、迷いますが、結局体を休めて治すしかないのでしょう。とにかくブログを更新したらまた横になり、ようすをみます。

 教室では、必ずマスクをするように心がけています。杉花粉症です。しかし、それとは関係なく、特に、冬場は必須です。これまで子どもたちにいろいろ移されてきましたのでそうなりました。インフルエンザも二度、三度移されました。普通の風邪ならもういつものことです。ですから、マスクは絶対必要です。

 ◎塾に騙されるな

 大手塾に行っているという人はこれはもうすごい人数の人がいるわけです。だが東京には大手の駅前塾だけではない。それはもう数え切れないほどの中小塾がひしめき合っている。個人塾というのも多い。個人塾の中には何の工夫もない、ありきたりの教え方をしている塾というのがほとんどなのではないか。講師数人の中小塾だってその実態はお仕着せのテキストを使って授業をやるだけでしょ。

 世の中の親なんかは、どういう判断しているのかということだけれど、ただ地元の近いところにそれなりの体裁を整えた塾がある、それだけの理由ではないか。たいていそんなものです。大手はいたるところに教室を開き、「はい、いらっしゃい」と待ち構えている。口当たりのいいことをいくらでも言う。若い人を配して受け答えも丁寧で親切である。それでりっぱな教室にスーツを着た講師、世のB層所属のお母さん、お父さんも「まっ、ここでいいか」と、はい決定。なにしろ授業料は値下げ、安いし、体験入塾もできる。これで子どもも安泰と一家は幸せの予感に満たされる。

 しかし、入ると、いろいろ持ち出しも多いことに気づかされる。授業料は安いと思ったのは錯覚、いや罠で、いろいろなオプション授業が付加されて、気がついたらとてつもない額を払うはめになっている。

 ところでどこの塾にも共通の本音というものがある。バカはバカのまま、天才は天才の力で成功する。中間層はどうなのか。これも大手や他塾の経営者はよく知っているはずである。このまま続けてもバカになるだけということを。そもそも家庭学習も一切しない、部活漬けのアホがどんな塾に通ってもできるようになるはずなどないのである。ところが、塾の塾長とか、講師などというのは、調子のいいことしか言わない。長く引き留めることしか考えていないからである。「気持ちを入れ替えてがんばれば」などともはや精神論の問題にされてしまう。そうじゃないでしょ。頭が悪いのにもってきて、勉強もしない、部活のないときはだらだらしてるだけ、それで勉強できるようになれば世話はない。中間層はどうなのか、ということだけど、こういう人たちというのは、授業を受けてノートをとって、勉強した気になっている、のが、ほとんどである。つまり、自ら頭を使って、考えるという苦しみを一切味わっていない。どんな問題も数分後には学生講師が説明してくれる、それで「わかった」気になる。これを1年も続ければ、ほぼ完全なバカに仕上がる。

 塾に入ったけれど一向に成績がよくならない、それは、要するに、自分の子が頭が悪い、ということである。ところが、塾も親も絶対にそれを肯定しない、そういうことはないという前提でいろいろと話すわけである。わたしなどは、頭が悪い、指導は無理だと正直に言ってきた。それで退塾とか、入塾を断ったことは数知れない。渋谷教室でも、効果の出ない子には何人か止めてもらったこともある。しかし、わたしのように、できないことをできない、そういうことでお金をとれない、ということを正直に言うと、まず、恨まれる。決していいことはない。世の親たちというのは、決定的なことは言われずに、希望をもたせてくれるようなウソを言う塾にひかれる。つまり、騙されたがっているのである。騙されても高いカネを払う方を選ぶ。

 ◎大手礼賛歌バカ親協奏曲

 大手塾という、あまりにも、軽率な時間とカネの浪費ともたらされる脳からの思考というものの欠落を世のバカ親のみなさんは少しも気にしておられないようです。これは、個人塾ならいいのか、巷の塾ならどうなのか、ということにもなるけれど、まあ五十歩百歩というところでしょうか。ただ大手塾には大量の生徒が集まるから、大量のバカも発生するわけで、代表として、書いたにすぎない。

 大手も集団授業をまずいと思ったのか、それとも消費者のニーズに応えようとしたのか、個人指導や個別指導というような中途半端な個人指導をやっている。少人数授業というのも、弊害を意識した言葉である。そもそも大手の個人指導などというものに本当に効果を期待できるのか。いずれにしろ学生講師なのであろう。「教える」ことが大好きな学生なのであろう。生徒に考えさせるよりも、教えたがることに喜びを感じる。「わかりやすい」と言われるともう有頂天なのはゲームに夢中になってるヤツと変わらない。

 そもそも懇請丁寧に「教える」ことは果たしていいことなのか。子どもが「わかりやすい」と言えば、親は喜ぶけれど、教えられるということは、脳を壊す、思考を潰す。最初からあまりにも見事に説明されるということは、鑑賞型の脳は作れても、創造型、発見型の脳は、決して作れない。個人指導で、「わからない」と言えば、すぐに、わかりやすい説明が示される。解説が与えられる。子どもは、自ら考えるのではなく、ただ与えられた解説を理解し、ノートに写すだけ、いつしか子どもは問題の解説を待つだけの、解説を鑑賞するだけの劇場型傍観者に堕する。鑑賞型の子どもというのは、「わかった」気になっているのが、特徴である。

 いや翻って考えてみても、集団型横並び方式の授業でも本質は同じではないか。与えられる、習う、教えられる、子どもたちはいつも受け身である。徹底して受け身の姿勢を習慣づけられる。集団だから、わからないことも聞き取れないことも多かろう。ただ授業をノートにとるだけ、板書を写すだけ、鑑賞型にもなっていない。

 こういう子はバカになるしかない。バカ育成プログラムは完璧である。愚かな親の支援のもと、バカが増殖していくことになる。

 塾というのは、考える契機を与えること、考えるという機会をまず与えて、子どもが積極的に取り組む、そういう姿勢をもたせることが、前提でなければならない。

 考えるというのは、それは抽象的世界に入り込むということであり、指導者はそのお膳立てをしても、決して自らが主役であってはならない。考える場の提供、機会の提供、そこで思考し悩むのは、主役は子ども本人である。決して子どもを劇場の観衆にしてはならない。舞台に上がるのは子どもである。子どもが「発見する」、偶然を期待して、指導者は見守るしかないのである。

 割合を学ぶというのは、まずこの抽象世界の中で、抽象概念と現実の概念、具体的な事実の混交の中から、抽象的なものをいかにして独立して構成させるか、その対比のうちに、そのしくみを脳の中に枠づけていかなければならない。竹の会が、わたしが、開発した、ミクロマクロ法とは、抽象と現実の対比から、抽象世界を独立させて、認識させる手法にほかならない。竹の会の多くの子どもたちが、割合というものをなんの苦労もなく学びとっていく、理解していくのは、わたしの抽象世界の構成方法の開発が寄与することがあって大きい。

 わたしは今抽象と具体という分析概念の有用性を指導にいかにして生かしていくか、ということを研究している。去年執筆した「新国語読解」はそのひとつの試みであった。このシリーズで国語がとれるようになったと聞いて、さらに研究を進化させることを考えている。

 最後に、昨日、本年九段に合格した女子のお母さまから、近況報告のメールをいただきました。彼女は千代田区在住でA区分でした。その彼女が入学後の模試で、数学は、学年30番前後という報告がありました。彼女のお母さんが認めているとおり、彼女は、決して天才ではない、普通の子でした。計算で苦労し、割合も最初はよくわからずに何度も最初のところをやり直しました。「算数の魁」がなかなか解けずに、苦しんだこともありました。それでも解き直し、解き直し、と努力を重ね、課題も人の何倍もこなしてきたのです。普通の子であっても、努力する子には、神様は微笑む、それだけはわかっています。

 

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