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最低でも都立戸山/小石川、両国、桜修館絶対合格/勉強で引く子は大成しない

2017.03.08

 おはようございます。今日は久しぶりの青空と太陽がまぶしくも輝き春の到来を予感させる朝となりました。花粉舞い散る季節となりましたが、アレルケアのおかげか鼻はさほどでもないけれどこれも目には効かないようでどうもすっきりしません。国土を覆う大量の杉は国策として植林されたものであるが、これが成長してやがて日本全国に杉花粉を大量に飛散させることをだれが予測したであろうか。始末が悪いのはこの杉の山林は光合成による二酸化炭素の取りこみはほとんどしないのだそうな。雑木林がいちばんの酸素提供者だということである。この雑木林を切り拓きひたすら杉の木を植林していった愚は、もはや取り返しのつかない愚行であった。やはり人間はバカである。かつて福島県は緑に恵まれ、住みたい県日本一だった。それが今では人の住めない危険地帯と化して6年になる。狭い日本列島に、いや地震大国に、これだけの数の原発を造っていったいどうするのか。目先しか見ていない政策、泥縄式の政策でこの先にどうなるのか。原発を推進してきた張本人たちに責任という観念が欠落しているのは、昨今のサイコパス的犯罪者のそれと変わらないのが、恐ろしい。

 わたしは現小5のみなさんに常々に申し上げております。試験本番は、8月と思え、いや7月でもいい、早稲田進学会の模試が本番と思って今勉強しなさい、と。今が一番勉強しなければならない時だ、と。夏休みが終わればだれもがみな勉強するようになる。その時からでは遅い、そう申し上げている。

 今やれるときに精一杯やる、やれるときにやる、これが勉強の鉄則です。27年の夏、当時の小6にわたしは「一日最低7時間の勉強をしなさい」と申し渡しました。しかし、これを実行したのは僅かに2人だけでした。夏休み勉強しないでだらだらと余裕を楽しんでいた子らがどうなったか、模試でいい成績をとったことが必ず合格を担保するものではないことはこれもあたりまえのことです。試験本番で力を発揮するのは模試の結果もさることながら、こしかたにどれだけ真摯に真剣に勉強に取り組んできたか、これなのです。夏にだらだらして余裕を楽しむような人間が受かるわけがない。どのような状況でも真摯な姿勢を失ってはならない。謙虚な姿勢を失ってはならない。夏連日7時間の勉強をしたという、そのことが、そのことのみが、本番に力を発揮する糧となるのである。それが失敗した者たちには為し得なかったことなのです。勉強しない親子は言い訳ばかり言う。しかし、どんなに正当で立派な言い訳をしてみてもそれで勉強の不作為が、無為が転じて有為となるわけではない。勉強しなかったという事実はそのままであり、それは落ちたときの言い訳としていることにしかならない。そして落ちた言い訳など無用である。だれが敗者の弁になど耳を傾けようか。

 引く人間はだめである。なにがだめって、攻めるときに引く人間が成功するわけがないからである。勉強というのはできるときに目一杯勉強しておくべき性質のものなのである。今はまだ小4だから、ほどほどに勉強しておく、などというような人間が、成功することはない。これでもかと言うほどやれるときにやる人間には決して勝つことはできない。

 勉強にとって、余裕は天敵である。余裕があるから落ちるのである。成功するのは余裕などない、追い詰められて必死の人間ということになっている。勉強なんてしなければしないですますことのできるものである。だから中学でもいくらでも怠け者がいる。怠けてもそれで明日どうなるというわけではないからますます怠けることに慣れてしまう。怠ける者がその怠けたことの代償を払うのは、受検、高校受験、大学受験のときであり、これさえも甘いだけの過保護な親たちはその抜け道を、安易な道を用意してやる。こうして怠け者たちが最後にその怠けたことのあまりにもの、取り返しのつかない現実に晒されるのは、社会に出たときとなる。ここでバカ親の庇護がどこまで通用するかはさておき、社会に通用しない、甘えた、怠け者たちが、奴隷労働の世界に好むと好まざると投げ込まれ、さしたる収入も得られないという現実を生身の体をもって知ることになる。時既に遅し。

 勉強という機会は決して引いてはならない。決して余裕を持ってはならない。常に追い詰められていてちょうどいいのである。試験に落ちる者は総じて根拠のない余裕感、楽観がみてとれる。わたしがこの子は知能は問題ないけれど、試験に受かると言えるためには、「なにか足りない」、「何かが欠落している」と思うとき、この子の根拠のない楽観はどこから来るのか、どうしてこれほど余裕を持ち得るのか、そういう違和感、不思議な気持ちに支配される。試験直前にへらへら笑っているような子はまず受からないことになっている。「できた」「できた」と自信満々の子が決して受かる気がしないのと同じである。大晦日というのに勉強が心配で部屋に閉じこもる子とテレビを観てみんなとおしゃべりして大笑いしている人間とどちらが受かる? そういうことです。

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