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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、九段への道/精神の豚~怠惰、無知、愚鈍が社会を動かすとは

2016.07.27

 今日は遅くなってしまいました。午前中は面談があり、午後からは明日から始まる夏期指導の準備に追われていました。高校入試再開ということで始めた中学生指導ですが、中1にしても中2にしてもいろいろ問題が見えてきて前途多難です。ただ親御さんに申し述べておきたいのは、別段退塾することに躊躇などされないほうがよろしかろうということです。子どもが勉強しない、もしくは何かはわからないけれど悩んで勉強しないということでしたら、ひとまず退塾したほうがよろしかろうかと思っております。わたしはもともと中学生というものが難なく高校受験の段階まで進められるか、ということにはかなり不確実性を認識しております。勉強一筋に3年間を過ごし、西なり戸山なりを受験できるほどに育つのは希有なことです。竹の会では、平成26年に都立駒場に合格しました。このときの合格者は女子でしたが、小4の5月から竹の会にいた子でした。たったひとりの高校受験生でしたが、中学3年間を挫折することもなく勉強を続けることができたのは彼女の勉強を大切に考える、強い信念もさることながら竹の会に対する絶対の信頼、それに情緒の安定した、物静かな性格というのも影響したと思います。平成27年には都立戸山に合格しました。このときは男子で小5の2月から竹の会にきた子でした。この男子も途中挫折することもなくよくわたしの指導についてきました。彼は竹の会のわたしの言うことを絶対的に信頼してくれました。28年も都立戸山に合格しました。この年はほかに都立文京に合格しています。つまり、受験生は2人いました。戸山合格者は情緒が不安定な時期がありまして途中退塾の危機もありました。とにかくもかろうじて2人は最後まで竹の会で勉強を続けることができました。このように中学生が受験まで竹の会で勉強を続けられるかはなかなか困難なものであろうと認識しております。本人の勉強に対する思い、性格もかなり大きいと思いますが、確たる信念もない、流される子たちには必ず危機の時がくるでしょう。余程に高校受験についての強い意思がなければ勉強を継続するなんてできるはずもないのです。たいてい途中で挫折する、それが多くの普通の中学生です。わたしたちを精神的に滅ぼすもの、それは怠惰、無知、そして結果としての、あるいは生来の愚鈍です。少なくとも怠惰だけは自らの意思で駆逐しなければならない。無知は勉強することで避けられる。今の世の中は少なくとも勉強する者が報われるようになっている。怠惰な者が底辺を生きることになるのもこれほどはっきりとしていることはない。愚鈍であるかどうかは、これからのあなたたちの勉強の質にかかわることである。世の中には人を騙す、判断を誤る、悪意ある事象に満ちている。愚鈍であることは世の中の悪事、悪人の思いのままにさせることを放置することであり、いつか意図しない死地にいたることになる。愚鈍は我が身を滅ぼす。だからこそわたしたちは学問に、勉強になお一層精進しなければならない。

 運動バカは愚鈍の典型と言われてもしかたない。運動選手だから政治的なことはわからないとか、こういう愚鈍になってはならない。オリンピックで金とって国会議員になっても愚鈍は愚鈍である。部活を子に薦めることが、愚鈍な子にしてしまうことを許すのなら、世の中に愚鈍な人間を増やすだけならば、そのような部活は人生を楽しんだ記憶として残るという論理などバカの戯言に過ぎなかろう。

 民主主義とは何か、などとまじめに考えて選挙している人などいないであろう。今や社会を構成するのは、大衆とよばれる、精神の豚です。精神の豚とは、放っておけばついていく体の脂肪のように、放っておけばついていく精神の脂肪に覆われた人たちのことです。今や腐りきったメディアに流されやすいバカ、価値判断というものができないバカ、これが大衆の本質です。政治権力にとって政治的無関心な大衆が好き勝手にテレビのお笑いや芸能、ゲームやスマホ、スポーツなどに現を抜かしてくれていれば、それこそ安泰なわけです。

 大衆の特質として、「自分が周囲の人々と価値判断が同じあることに喜びを見出す人々」ということがあげられます。周りがやっていることと同じことをやることで安心するのです。大手塾に親が迷わずやるのもこれです。三陸の津波のとき、周りには家にいたほうが安心だという人がたくさんいた。そういう人たちが周りが同じように家にいたことで安心したかどうかはしらないが、たちまち津波にのまれて命を失ってしまった。これが大衆である。

 わたしたちは、精神の豚にならないために勉強をしなくてはならない。勉強をし続けなくてはならない。テレビは近頃やたら健康番組を作り、いったい国民に何をさせようというのか。クスリのもたらす害がしだいに明らかになり、製薬会社と医師、それから厚労省などの国の機関までが国民を籠絡するということが見えてきたというのに、健康番組は見る人を不安に陥れて何をしてもらいたいのか。

 さらに大衆の特質のひとつ。自分より高い次元からの示唆に耳をかすことを拒否する。テレビなんか見ていると、弁護士や医師ほど他人の意見を拒絶する傾向がある。挙げ句には、「うるさい」、「権威主義だ」と騒ぎ立てる。こういうヤツらがいちばん大衆に近い、とわたしは思っている。

 精神の豚になってはならない。弁護士や医師には精神の肥満がたくさんいる。世の中には精神の豚化した大人が溢れている。豚に真珠と言うけれど、精神の豚が、原発再稼働とか、民主主義とか、言ってもなにを言っているのか、バカ丸出しである。豚に真珠と言うけれど、世の中は、豚が真珠をつけて歩いているばかりだ。バカ女がブランドに身を固めているのは、精神の豚と通じるものがある。

 何のために勉強するのか。まず怠惰と無知から逃げるため、そして決して愚鈍にならないため。

◎指導の天才

 竹の会では入会には入会試験に合格することが必要です。入会試験に合格した場合、当日を含めて3日以内に申し込む必要があります。3日を過ぎると入会は不可能です。過去において、3日目に電話で入会の可能性を臭わせて、ついてはと、いろいろ条件を付加してきた親がいました。たとえば、当分は日曜だけとか、1か月後に開始とか、です。こういう条件付き申し込みは入会しませんというのと同じです。こういう自分勝手な要求には、はっきりと入会をお断りしています。

 竹の会に入会してまだ半年にもならない小5が、かなり難しいと思われる算数の割合の問題などを解くということに関して、竹の会では、適性対策としての適性練習は、小5の2月スタートということを申すことがありますが、これは、大手のように決して小6までの学力を小5までにつけておくという趣旨からではありません。そもそも竹の会の指導内容は大手の中学受験対策とは全く異なるものです。竹の会は飽くまでも小6になる前に、思考力をどれだけつけられるか、ということを問題にしているにすぎません。小5の段階で、割合という概念を通して、思考力を深める、そういうことを述べているだけです。竹の会の1か月というのは、実際に入会してみればすぐわかることですが、それはそれは密度の濃いものであり、1か月の差というのは、子どもたちには天文学的な、越えがたい差に見えるようです。

 竹の会は、子どもの持てる、まだ芽の段階、埋もれて開花できない、そのような柔らかい思考の塊、それはふわふわしてとらえどころのない、ゴムまりのように伸縮自在で、かたちも実は定まらない、塊のようなもの、そういうものを相手に指導しているようなものです。わたしの書いたレジュメ集には、「算数の塊」とか、「ようなもの」というものもありますが、タイトルの由来はそんなところです。

 わたしが初めて子どもと接するとき、子どもの素の能力、いや脳と対決しています。刺激を与える、刺激調整する、レジュメというのは、刺激ですよね。子どもの脳の状態というのはいつも推し量っていると思います。「わからない」というときにはいろいろ考える。このまま考えさせていいのはすでにこれまでの訓練で十分と判断したとき、それで「わからない」というのは脳はどういう状態なのか、不可解? これは診断に迷う。事の理が読みとれないとき、文章を読むことですでに解が見えているとき、この子の脳の状態はどういうものなのか疑う。「売買益はできるけど食塩水は苦手」という子、同じ割合なのに区別しているということは、具体的な解法のレベルで型を暗記している可能性が強い、食塩水の様々なバリエーションに富んだ問題に対応できないのは型で対処できないからだ。つまりまだ思考よりも暗記で解決しようとしているということだ。ここに知能の限界を見る。より抽象的なレベルで、できれば定義のレベルで理解しなければ真の思考はしていないといえる。

 食塩水の問題ができない生徒は、思考よりも暗記が勝っている。勉強の醍醐味は思考で脳を支配することだ。暗記事項は思考で確実に減らせる。わたしが中学生では思考形成は遅い、どうしても小4、小5が勝負だ、言うのは根拠があるからである。竹の会で小6の後半に来て受検したという子が高校受験で成功するのはなかなかに難しいのは、小4、小5の時期に思考形成を経ていないことが大きい。わたしは、小4,小5の時期に子どもを預けてもらえれば確実に思考形成を成功裏に進めることができると確信している。子どもの幼い脳との対決、脳との戦い、脳の見立て、脳の認識段階の推測、これが理解できてあれが理解できないという脳段階の解析、子どもの発する言葉の断片から理解の段階を探る、とにかくわたしは指導において常にいつもいつも子どもの脳と対決している。脳を診ている。

 竹の会のレジュメだけがほしいという人がたまにいる。しかし、竹の会のレジュメはわたしの指導の道具である。レジュメだけがわたしから離れて一人歩きすことは原則としてない。わたしの指導があってのレジュメである。こんなことは言いたくないけれど、わたしは、指導の天才と思っている。それだけ子どもたちの見立てには自信と根拠がある。

 

 

 

 

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