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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館、九段の道/鉄は熱いうちに打て/絶対と相対、「合わせる」

2016.10.21

 おはようございます。ちょっと薄着をしているとすぐに喉が荒れてくるようです。この時期は少し汗ばむほど着るのがいいのかもしれません。早10月も終わろうとしております。この時節になっていろいろと思うこともあります。やはり受検の小学生を受け入れるのは小4がいちばんいいということ、小5の1年間をみっちりと訓練に使えないというのはわたしのセオリーの外にあるということです。さらには、なかなかはかどらないという子についても、早々と見切りをつけてあげて、開放してやるというのも必要なことなのかな、と自戒してもおります。

 受検ということではそういう煩悶がある、しかし、もしひとりの子をまともに思考できる、少なくとも基本の学力だけはつけてあげたい、そういう趣旨であるのなら、地道に訓練を続ける、ただし、受検成功ということにはいたらないであろうけれど、そういうことも意味あることかな、とは思っております。

 さて、子どもたちをお預かりして、いろいろ思案して、このあたりが、指導を止めるタイミングかな、と思う、そういう落としどころというのが、なかなか難しい。親御さんの期待する結果というのもあるでしょうが、それよりもわたしの期待する成果が確実に積み重ねられていっているのかということがあります。

 正直に告白すれば、わたしの中には、いつもこの子はどこまで伸びていけるのか、壁ようなものがちらついたとき、果たしてこのまま続けられるのか、そういう思いをいだきながら指導を続けています。子どもたちの反応のひとつひとつに不吉な暗雲を予感し、ときには、明るい兆しを見て喜ぶということもありますが、いつも指導で接するたびに失望と期待の中で揺らいでいる、それが正直なところです。

 正直に告白すれば、わたしの中にはいつももう退塾したほうがいい、そんな思いが浮かんでは消え、消えては浮かんでいる、そういう葛藤の中にいつも煩悶している、それが真実なのかと思います。しかし、私自身自分のそのような心の葛藤というものを押さえて、ひたすら子どもたちを導いてきた、その結果、わたしの葛藤の中にいた子たちから二人も合格していた、だからわたしは自分の葛藤に正直になれない、そういう躊躇がなんとも煮え切らない心を作り出している、そういう自覚は常にある。

 鉄は熱いうちに打て!!なんともわかりやすい格言ですね。柔らかいうちならいくらでも好きな型にすることができるけれど、いったんひとつの型に仕上げてしまえば、もう後からちがう型にすることはできない、この格言の意味がわたしにはなんとも実感をもって染み渡るような気がします。

 東京都の親御さんというのは、迷わず近くの大手塾に子どもを入れます。しかも、早い子だと小4から通わせる。ただ東京の親たちが動き始めるのは圧倒的に小5というのが通り相場のようではあります。小4から通わせるというのは、だからかなりに教育熱心な親御さんたちではあります。が、わたしから言わせれば、それぞれに裏目に出ている、そう思わざるを得ません。頭の柔らかい小4という時期に大手の型にはめて型にしてしまう恐さです。型にしてもまだなかなか定まらないということはありますが、それでも1年間、テキスト、授業、講師という型にはめこむ、型化を受けてきたというのは影響少なからずというところがあります。

 小5から大手というのは二重の意味で負のリスクがあります。大手の固化ということもありますが、小5というのが、訓練するのにもっとも大切な時期、つまり、頭を自由にはたらかせて伸び伸びと躍動させる期間、この時期にテキストによって思考を封じられるというのはなんとも取り返しのつかないことなのではないか、と思料します。わたしは、やはり小6間際に受け入れるのは荷が勝ちすぎると思います。訓練期間というものがない子をどう開花させるのか、それはわたしの中ではありえないことだからです。大手にいたという子たち、小5の期間を大手で過ごしたという子たちの基本学力の酷さはもうあきれるばかりです。世間の親たちはこういうことを看過し、1年も2年もどうして野放しにできるのか、わたしにはそれがまず信じられないのです。親というのは大手に任せきりで、信用しているから、不作為を決め込むのでしょうが、やはりバカというしかないようです。今年のいつだったか、大原という塾に2年間通って失敗し高校受験で頑張りたいという中1が入会試験を受けにきたことがありましたが、なんと0点だったのです。ちょっと待てよ、2年も大手に通っていて、子どもの力はわかっているでしょうに、母親は「大手を信用していたもので・・・」と肩を落とすばかりでした。これはさすがにわたしもお断りしましたけれど、そういう大手失敗組は恐ろしい数、夥しい数いるわけで、こういう子たちがまた高校入試で区立で頑張るとしても先は見えています。大手に懲りて地元の個人塾に行くかもしれませんけど、無駄です。二重の意味で無駄です。

 まず、鉄は熱いうちに打て、ということです。冷えて固まったらもう何をしてもだめです。次に、地元塾だって同じことです。バカを固定するだけです。中学で定期試験のたびに落胆することは目に見えています。そのうち子どもは親の言うことなど聞かなくなる、成績が悪ければひねくれるに決まっている。勉強なんかしなくなる。これが多くの大手に吸い込まれていった親子の辿る道です。高校は推薦で、つまり無試験で低偏差値の、中途退学率の高い、高校にいくことになる。そのまま社会に押し出されてさてどうなることやら。小4、小5の時に、大手に放り込んで、まだなんとかなると楽観していた、あの時の選択が、高校入試のときに清算されることになる。バカ親はそのときに安易な選択のつけを払うことになる。

 鉄を熱いうちに打つことの重要さをいくら説いても説き足りない。小4期はおまけです。小5の1年間を思考の訓練に明け暮れる、その前の準備期間です。小5に入ってからではどんどん負のスパイラルに入るばかりです。訓練しないという日々、型にはめこまれる日々、二重に子どもはバカへの道を歩むことになる。

 勉強するという生活スタンス、勉強するということの意味、考えるということの意味、そういうものを小5の一年間でたたきこむ、訓練するということですが、それが後々に、中学になってからのスタイルまで規定してしまう、そういうことです。

 わたしは願っています。竹の会に来る理想の時期は小4です。このおまけの期間にじっくりと下準備を済ませておいて、小5の1年間をみっちりと訓練に注ぎ込むのです。このわたしのもっとも得意な型になれば、小6に確実に開花する、開花させることができるのです。よく去年の小石川受検組の子たちのことを考えますが、あの子たちは小4の時に入会試験に合格した、しかもA合格した、しかし、指導開始したのは小4の2月、つまりほぼ小5です。これが意味するもの、それは、おまけの期間が「ない」ということです。ですから、最初の3か月は準備に時間を使う、しかも急がせながらです。それだけ訓練期間が減る、そういうことです。それほど小4期というのは大切なんです。じつくりと自分ペースでやれる、それが小4です。この時期に大手に行かせたら、どうなるのか。いきなりテキストを渡されて、教えられる、家庭で母親が予習やらせて、復習やらせて、授業で説明聞いて、確認テストを受けて、こういうことをやっていたらどうなるのか、思考ということを軸におかない生活をいきなり始めてどうなるのか、思考は飽くまでもテキストに付随するもの、理解できるかどうか、だけいつも親や講師は聞いてくる、そういう生活をしていてどうなるのか、思考は、いつ訓練されているのか。

 芸大の声楽科の学生がセオリー通りに歌うとカラオケ採点機はいい点をつけない。わたしは絶対的にいいというのと、相対的にいいということの区別がわかっていない、天才が多い、いやそれは天才の宿命的な欠陥であり、絶対的な正しさ、完全さというものを追求する、そういうところに大きな落とし穴があるのではないかと思う。

 「合わせる」ということをしないのが天才である。この「合わせる」というのは、試験においては、ひとつの極意であると思う。問いに合わせない子たちがいる。問いとは関係なく自分の思った正解を書く子たちがいる。試験というのは、徹底して自分、我を消す行為ではないか。数学なら数学の与えられた約束にしたがい、記号言語で答案を書く、算数なら文字という契機を一切遮断した中で、知恵の妙味を披露する。もっとも算数にも算数言語はあるのだが、たとえば、鶴亀算も算数言語のひとつである。勉強というのは、自分勝手な思い込みでやるものではない。常に、「合わせる」ものである。理科でも社会でも「合わせる」ものである。だから天体の動きの問題を解くためには、天体の原理、しくみを知った上で、そういうものとして、合わせていかなければならない。自分の思い込みではない、だからまず「合わせる」というのは、それぞれのしくみなり、原理なりを虚心坦懐に反芻することなのである。合わせるとは敵を理解すること、対象を理解することにほかならない。だから「合わせる」以上に対象に引き込まれて勉強するのもバカであ。天才はこの弊が大きい。

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