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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/はびこる無教育の小学生、いったい親は何を考えているのか

2016.08.04

 おはようございます。夏日です。これまで台風が来てないのが不気味です。毎年のように未体験の気候変動に翻弄されるようになって久しい。温暖化という未知の体験をせざるを得ないとはなんとも人為的な運命に身を託すことになるとは、と嘆いても始まるまい。政府は老朽化した40年使用の原発をさらに20年使い回すことにしたという。さらに新原発の建設にも積極的である。安倍は、30年後を目処に原発を廃炉にしていくと明言しておきながら、やっていることは真逆である。つまり安倍は大嘘つきである。原子力規制委員会が安倍政権に飼い慣らされた、原発推進委員会であったことは、すでにして明白であった。

 さて、わたしが、平成十年代に当時の小学生の惨状を嘆いて、なんとも暗澹たる気持ちになってから早十数年の歳月が流れた。わたしが小学生と新たな出会いをするのは、公立中高一貫校ブームの始まる前夜、平成17年あたりであったろうか。平成18年4月に九段中学を受けたいという小6がひとりやってきた。やや遅れて東大附属中学を受けたいという双子の女子もきた。当時いた小学生はこの3人だけ。翌年3人とも無事合格した。なんと合格率100%だったわけである。平成19年は、九段ブームだった。当時受検をするというのは、小6,特に、女子が多かった。これまで経済的理由から私立へやることを夢にも考えてこなかった女子とその親たち、いや男の子にはカネをかけても女の子にはかけない、という親たちの心理の表れであったのだろう。公立中高一貫校はこの親たちや女子にはあまりにも魅力的に見えたのにちがいない。

 わたしは平成19年を境にそれは多くの小学生の指導に携わることとなった。それも受検目的である。私立受験の小学生もたまにいることはいたが、わたしの中ではすでに私立中受験はなかった。竹の会は都立中学の対策研究への道に進むことに迷いはなかった。これまでの専門としてきた高校受験さえも公式の募集はしないこととした。平成20年からわたしは多くの小学生の指導に携わってきた。幸運だったのは、このような小塾にも時として逸材が竹の会をめざして入会してくれることがあったことだ。それにしても世の中にはどうしようもない、手の施しようのない小学生で溢れていた。受検と言ってやってくる小学生の質の酷さに辟易とした。これまで勉強というものを全くやったこともない小学生、それでもそれなりの能力があればまだいいがそれさえもないという小学生がたくさんいた。親は親でそんなことが深刻なことなのかという顔をしている。「勉強しない、してこなかった」ということの意味を全くわかっていなかった。

 公立中高一貫校制度がスタートして10年以上が経過した。今では猫も杓子も公立中高一貫校対策を謳う大手塾に入るのが普通になった。かつて塾にも満足に行かないで、という親子はほとんどいなくなった。いや通信を受けながら家庭で受検勉強をしているという親子の話は時々耳に入ってくるから、そういう親子もいるようではあるが、全体から占める割合は少ない、ないに等しいかもしれない。

 私立受験とちがって、竹の会は平成18年から、多くの大手が手探りで為す術もない時期から、都立中学の研究をしてきた。大手が適性類似問題の制作をしてテキスト化し、生徒を集めるという手段をとるであろうことは想定の内であった。平成21年には多くの親たちが大手の打ち出した「小石川対策」とか都立中別にあたかも傾向があるかのような対策講座に飛びついた。いわばヒット商品になった。世の母親たちはここぞとばかりにカネを注ぎ込んだ。大手が類似問題を根幹に据えた方法をとっていた頃、竹の会は小学生の思考力を伸ばすことが本質だと考えて、そちらの研究に埋没してきた。

 しかし、そういう思考育成を本質として取り組むにしたがって、世の中には指導そのものができない小学生がそれなりにいるし、また全く教育というか、しつけされていない小学生たちが夥しい数いることを思い知らされることになった。つまりわたしがかって小学生に抱いていた実感は全く変わることがなかった。これではいけないという思い、差し迫った危機感から、竹の会が渋谷に移転した2012年前後を境に入会試験の準備を始めた。小学生の素の能力を判別する入会試験の制作、これは大変だった。せっかく作っても逸材、伸ばせる素材を判別できなけければ意味がない。試行錯誤を重ねて実際に子どもたちに使う中から問題が煮詰まっていった。竹の会の入会試験に合格できないほどの子は指導が難しいというのはほぼ正確であった。1%の外れはあったけど。つまり時としてできない子が合格することもある。そしてそれが使用時期に関係することがわかった。小6で合格してもできない子が紛れ込む蓋然性を否定できない。

 今日の趣旨はそんなことではなかった。世の親たちがまちがった観念で子どもをバカにする、そういうことを書きたかった。そもそも塾、特に、大手が学校と同じ手法、すなわち授業方式でやること自体がおかしい。子どもというのは、犬に例えるとよくわかる。犬には駄犬というのがいてそもそもの訓練そのものができない、向かない犬がいる。いろいろ芸を覚える、能力の高い犬を見ることがあるが、すべての犬が訓練できるわけではない。もともとのDNAというものがある。よく訓練士が言うのは、好奇心の強い犬が訓練しやすいということである。子どもだって勉強に全く興味を持たない、関心のない子は無理に勉強させても無駄である。能力差、これは否定できないのである。ところが、世の親たちは、駄犬でも訓練のしかたで芸ができるようになる、と信じている、いや信じたいのである。

 それはいい。問題は世の親たちが自分の子どもを全くといって教育しないということだある。まずなぜ「字」を訓練していないのか。これは小1前後にたたき込む、厳しくしつける以外にない。しかし、わたしが出会う子たちというのは、この基本的しつけのできていない子ばかりである。それから勉強の習慣というものも親がつけさせることである。子にはなんでもかんでも好きにさせて、欲しい物は大概買ってやる、過保護である。過保護というのは教育の放棄に等しい。子どもにがまんすることを覚えさせる、そういうこともしないで、習い事や稽古事ばかりに夢中になっている。こうして字がまともに書けない小学生が蔓延することになった。上手い字を書け、というのではない。読める、少なくとも字の最低限の「かたち」だけ、原形だけは再現できないで、文字と言えないでしょ。

 家庭で母親が教えた自己流の勉強もさることながら、大手に通う子どもたちの酷いこと、なんでこんなバカが蔓延することになってしまったのか。親の教育の放棄、大手に入れてしまえばもう親は何もしない、することはないと思っているのか。犬を集団で訓練することなどできないでしょ。犬を訓練するときは1対1です。大手の集団授業というのは、これをやろうとしている。しかも、適性類似問題を解かせるのが訓練の中身です。そうじゃないでしょ。まず小学生というのは、基本的に訓練するものです、勉強するというのはない。自主的に学ぶということもない。母親が「これをやりなさい」と言うのは訓練にもなっていない。マルつけしてして、できなかったら下手くそな説明して、終わるのがオチでしょ。

 わたしが長年かかってわかったのは、小学生というのは訓練するものだということです。通分を訓練するのです。なんでも訓練させて先へ進めることができるのです。ただ授業聞いて、バカ講師の懇切丁寧な説明を聞いて、仲間たちと楽しく過ごして、テキストを予習して復習して、だれでもできるテストを受けて、見事なバカ養成学校です。バカな母親たちは1年も経てば、勉強も結局は集中しないで煮え切らないバカ息子、バカ娘の姿を見ることになる。訓練されていない犬がしっぽを振って遊ぶのと似て等しい。

 子どもというのは訓練しなければただのバカ犬である。無定見な親が、自分の子をバカ犬同然にしてしまう。ういう親は事態の深刻さというものを全く認識していない。脳天気なものである。目先の損得で塾を選ぶ親も多いが、いとも簡単に子どもの将来を棒に振る、バカな母親の選択は嫌と言うほど見てきた。竹の会は、すでにこういう親たち相手にチラシを配るアホらしさにようやく見切りをつけた。いくら竹の会のチラシを配付してみても誰ひとりして見向きもしない。受け取っても読むこともない、ゴミ箱直行である。そういう親ばかりだとわかったからです。こういう親たちが竹の会という自らを宣伝することが不器用な、しかしほんとうにすごいことをやっているという自信のある塾を無視する、そういうことで折角の出会いを消し去る、そういうことがわかったからです。こういう親たちとの出会いというのはまず100%ない。だからチラシを配る意味もない。

 結局子どもの将来をどぶに捨てる親たちのことなど考えることもないわけです。

 世のバカ親の、そうあなたちの子どもの90%はバカのままに終わるでしょう。訓練されていない子どもたちのあまりにもの学力の低さもさることながら、勉強するということの戸惑いはいったい何なのでしょうか。わたしはこのところ小5の訪問をそれなりに受けてきました。しかし、まず入会試験がほとんどできない。その大半が大手や個人塾にもう1年以上通っていた、そういう子たちなのです。通う前と1年後の学力が変わらない、いや思考力が未開発のままなんです。

 まず学校の授業がダメです。駄犬が大半の相手の授業が上手くいくはずない。教師も質は高くない。これは公立中でも変わらない。公立小や公立中でできるのは、もともとの頭のいい子なのです。別に教師が頭をよくしたわけではない。ところが、塾がまたこの駄犬をたくさん集めて学校と同じようなことをやる。補習塾なんか、程度の低い学校の授業さえもわからないバカの集まりでしょ。とにかく塾も親も何もわかっていない。子どもというのは、訓練してなんぼなんです。竹の会は訓練するところです。まず世の親や塾が信じて止まない「教える」ところではない。そしてバカを教えて利口にするところなどではあり得ない。そんなことできるわけてはないでしょ。お手もできないバカ犬がいるけれど、訓練しない子どもはあれと同じです。犬は自ら勉強しなくてはならないなどとは思わない。飼い主にひとつひとつの技を訓練されて覚えるのです。そうひとつひとつこれをマスターさせたいという目標がある。それを訓練していくのです。子どもの自主的な勉強で学ばせるのではない。竹の会の課題はすべて訓練の思想からなっている。訓練しているのです。ただの宿題などと呼んでほしくない。大手の宿題と一緒にするな。

 子どもは訓練してなんぼである。それがわかっていないバカ親ばかりである。自分の子を、大手などの集団に入れて、いったい何の訓練ができるというのか。だから大手に1年も2年も通って、計算もミスばかりでまともな正解がほとんど出せない、割合もベタな暗記で理解したことにしているだけだから、ちょっと形を変えたらもうアウト。バカでしょ。なんで適性に最初から慣れなければいけないのか、さっぱりわからない。基本的な割合の問題も解けないバカになんで適性問題なんかやらせるのか、さっぱりわからない。やるべき訓練は全くやらないで、なんとか講座とかわけのわからん講座に嬉々としてカネを払う。だいたい母親というのは、目先の利益が勝っているから、無料体験講座なんかにすぐ飛びつく。子どもというのが、講座を受けてなんとかなるとでも思っているのであろうけれど、子どもは訓練しなければただの駄犬である。とにかく訓練などしてこなかった子たちを竹の会は訓練してきた。訓練してまともにしてきた。訓練というのは、ある一つのことを理解させる、使えるようにするために、訓練するのである。何個ものことを一度に覚えさせるなどのことはできない。訓練は常にまず一つのことを、それをマスターしたら、次にまたひとつのことをマスターさせる。子どもたちの伸びる芽を、機微を見て、引き出す。訓練というのはそういうものである。だから常に1対1である。わたしがやっているのは、特に小学生では訓練士みたいなことである。思考訓練士である。わたしが作成して課す、さまざまなレジュメはすべて訓練を目的としている。

 世のバカ親のみなさんが、自分の子を訓練しないで、教育しないで、放置している、大手塾にやるのは放置です、そして個人塾も同じ、中には、塾なしの学校だけという全く無教育という親もいる。そういう親たちが、これから自分たちのいい加減さのつけを払っていくことになる。

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