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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/中途半端な選択という人生/誤診と過信

2016.05.22

 おはようございます。本日は8時にはもう21℃でした。ただし、空気は朝に相応しく冷たく爽やかです。輻射熱で暑くなるのも時間の問題と思います。夏日の予想です。今日は日曜日、渋谷Aの7時間指導の日です。ご存知のように渋谷Aは竹の会の主軸コースです。渋谷Aに入室するには、まず入会試験に合格しなければなりません。中学の場合は、通知表の「5」が5個あることが基準となります。その上で面談を通して性格、裏から言えば、しつけを見ます。親がしつけられない子を塾がコントロールできるはずもないからです。小学生というのは、将来どんな芽をもっていようとまず親の、特に母親の言いつけにしたがうのが普通です。しかし、親が甘いと子どもが親を舐めている、従わなくても許されてきたという結果が今あるその子の性格を規定しています。しつけというのは、大切なことです。しかし、中学になると状況は一変してまいります。思春期という過程、この時期に合わせたように体も成長していきます。でかくなるわけです。親よりも体格もよくなる。こうなると、これまでしつけられてこなかった子というのは、もはや親、特に母親の言うことなど聞かない、無視するわけです。反抗期と言いますが、暴走が始まる年令です。親と話すこともほとんどなくなります。反抗期になればコントロールなどもはやできない。そういうときに小学のときのしつけというものがものを言う。中学になったらもはや親でもコントロールできない。わたしが中学生、特に、男子を引き受けるとき、いつも思うのは、そういう時に勉強がその子の暴走を自身の中で食い止める根拠たりえるかということである。わたしは30年の指導の中で勉強を捨てた中学生を数多く見てきた。その中には知能優秀な子たちもたくさんいた。親に反抗し、学校の先生に反抗し、暴力事件まで起こした子たちをたくさん見てきた。中には、中卒で社会に出て行った子たちを大勢見てきた。すぐれた知能をもちながら全くやる気のない子たちというのもいた。何もしないこと、それで安定しているのである。たばこを吸いながら学校から帰る中学生たちに出会ったこともある。セブンイレブンでたむろしたばこを吸う中学生もいた。シンナーを吸って補導された子たちもいた。暴力事件を起こして警察沙汰になった子たちもいた。学校の窓ガラスを壊した子たちもいた。夜徘徊したり、自転車を盗んだ疑いで補導された子もいた。もはや親にはコントロールなどできない。わたしはそういう子たちの胸ぐらを掴んで切れたことも何度もある。泣く母親、涙を拭う母親からよく相談もされた。わたしは小学生のときに、幼くてあれほど素直だった子の信じられないほどの変貌を見てきた。実は、28年戸山合格者についても、中2のときの反抗的態度から退塾を決意した時期があった。そのときはお母さんに退塾を打診した。「竹の会で勉強したい、と本人が言っている」、そういうメールのやりとりもあった。苦労して子どもの教育に熱心にかかわってきたお母さんの言葉は重かった。

 だからわたしは小学生の立ち居振る舞いを診る、重視する。いや面談のときのことです。子どものしつけは大切なことです。教育です。それはただに子どもをしつけるということではなくて、親の真摯な生き方を示すこと、なのだと思っています。教育とは、親の愛であり、どこまでも深い愛であり、親の真摯に取り組む姿なのではないか、と思います。

 ◎中途半端な選択という人生

  わたしが部活をやる子を敬遠するのはそれが勉強しないことの口実とする子たちがほとんどだからです。部活をやっていても勉強ということを決して蔑ろにはしない子というのもいます。そういう子たちの中には、学年1番とか、オール5というような人たちもいます。りっぱなことです。しかし、一般的には、部活で疲れて勉強はほとんどやらない、勉強するのは定期テスト前1週間だけ、という中学生ばかりです。普段勉強していない人間が定期テストの前だけ勉強など集中してできるのか、効率性などあるのか、と疑わしいばかりです。

 こういう子たちが、部活で将来身を立てるのかというとそんなことはないわけです。あれほど夢中だった、親子で夢中だったバスケ、高校もバスケの強い高校に行き、3か月も経たないでバスケどころか高校も止めたという生徒もいました。勉強を捨ててバスケ命できた中学時代はいったいなんだったのでしょうか。残ったのは、中学時代まともに勉強したことなどなかった、という事実だけです。途中で止めれば中途半端な人生になることはだれにもわかっている、いや止めなくても中途半端な人生になろうことの予測はつくであろう。

 稽古事、習い事に熱心な母親はたくさんいる。愛する自分の子にどれだけ才能があると信じているかは知らないけれど、ピアノ、バレー、バスケ、サッカー、野球、書道、珠算、英語、日本舞踊となんでもありである。中には何種類もかけもちで1週間のほとんどを習い事、稽古事で費やす子たちもいる。そういう子たちの母親も決して勉強を蔑ろにしているわけではなく、勉強もそれら素養の中のひとつとして熱心にやらせるわけです。問題は、素養の中の一つとして勉強をやってものになるのか、ということである。勉強というものをあまりにも軽く見た話しであろう。中途半端なこと極まりない。そもそも勉強というものに対する見識からしてすでに疑わしいものがある。稽古事で身を立てるならもはやそれだけに専念するほどやらければものになるまい。いや稽古事などはそれでもものになるかはわからない。個人のもって生まれた才能が大きく規定する世界だからである。勉強だって奥が深い。勉強すればするほどいくら時間があっても足りないことを知らしめられる。もちろん勉強にももって生まれた才能というものが有利にはたらくことは確かである。しかし、才能がないからといって勉強を捨てることはほとんどの場合、将来食べていく、自立して食べていくことを難しくする、という選択になってしまう。

 頭が悪くても、勉強して、簿記などの資格をとり、がんばって銀行に職を得るなどということもできる。自分ではたらいて食べていく、それができればいいのである。もちろん勉強して、いい高校に行き、いい大学に行き、いい会社に入る、そういう道がいいのは当然である。だからみんなそれをめざしてがんばっている。将来食べていく、つまり職を得る、そのために勉強する、それがわかっているのか、いや今の母親や過保護に慣れた子にはそういう簡単な道理もわからない、わかっていないのではないか。

 子どもが、22歳になったとき、きちんと社会に出て働いているか、である。親がしなければならないことは何か、習い事、稽古事結構、てそれで子どもが22歳になったとき、何をしているか、である。職を得てはたらくこと、これは人生の大問題であり、決してどうでもいいことなどではない。自立しない子なんて、そういう子に育てる、甘やかし、過保護の親なんて、それはとりもなおさず子を社会で自立してやっていくことのできない子にしてしまう、ただの親のエゴ、その過程にすぎないでしょ。

 わたしが中学生に厳しいのは、そういう自立性を問うからです。もう小学生ではない。自立する道を歩み出した、そいうことを自覚してほしいからです。

 

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