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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/免疫と耐性と順応

2016.07.15

 おはようございます。どんよりとした天気ですね。本日は渋谷Bの指導日です。渋谷Bは、月・金実施にこだわり、祭日にかかる場合は、お休みとし、平日の月・金を指導開始時間を早めることで対応しています。また、指導時間は、各2時間(18:00~20:00)と、Aに比べてもかなり短い、そのため渋谷Bの性格、位置づけには当然苦慮してきました。渋谷Bは、もともと竹の会が渋谷の現在の地に移転してきた2012年5月においては、それまでの元代々木教室がそのまま併存し、その元代々木教室の子たちが、その年の7月に渋谷に移転てきたときに新設したコースでした。しかし、結局このBの子たちは、渋谷Aに吸収されて、渋谷Aのみの時代が去年の9月まで続きました。去年の10月に渋谷Bを再開したときから、渋谷Bをどのような位置づけとして指導していくべきか、悩んで、現在に至っております。

 当初は、高校受験志望の小学生を受け入れるということを考えておりました。ほかに、受検はしない小学生のための指導ということも視野にありました。しかし、後者の需要はない。また、前者についても、1名いるかいないか程度でした。そこで竹の会では思案に暮れたわけです。現在、渋谷Bは、部活で渋谷Aに出れない子が1名、入会試験に落ちた子の特例入会だけです。後者のケースは、渋谷Bにほとんど生徒がいなかったためにできたことです。後者のような子は手がかかるからです。

 竹の会は、1学年最大5名が限界です。それを越すと他の学年の募集が困難になるからです。高校受験指導を正式に再開したために、中学生枠も確保しておかなければなりません。渋谷Aでは、席の数しか入室できないしくみです。渋谷Aは、毎年1月末をもって小6と中3が巣立っていきますので、2月には、その数だけ必ず空席が出ます。そこで竹の会では、例年1月まで小4の募集をしてきました。しかし、去年は入会者ほとんど0でした。そのため小学生に見切りをつけまして、去年の10月から本来の専門であった高校入試に踏み切ったのです。去年は竹の会はガラガラでした。

 竹の会はネットで有名である、というようなことを27年に戸山に合格した生徒がよく言っていましたけど、それが現実のものになりつつあるようです。今では、大手のように宣伝することも、チラシを配るなどのことも一切やっておりません。しかし、竹の会はネットワールドで確実に拡散していっているようです。

 ここにきてようやく渋谷Bという設定が、意味を持ち始めたようです。渋谷Bは、向上心のある子には問題なく機能するでしょうし、渋谷Aに入室するためのつなぎ、待機コースとしても、意味を持つのだ、ということが、認識されてきました。向上心のある子であれば、渋谷Aと全く同じレジュメを配付しますから、渋谷Aなど忖度なく指導を受けられるはずです。現に、現在渋谷Bに通う中1は、サッカーをやりながら、学年1番です。渋谷Aに空席が出るのは、通常は、2月からです。しかし、竹の会ではこれまで以上に勉強をしないなど指導を継続することが困難な生徒には退塾を迫ることになるでしょう。

 聞くところによりますと、某大手では、バカが入塾して、授業妨害、破壊をしている、それを退塾もさせないで、野放しにしている、と聞きました。学校は義務教育ですし、教育という名の妖怪が一人歩きするところですから、またモンスターママがわんさかいますから、あるいはすぐに体罰教師と騒がれかねませんから、正直、どうにもならない。学級崩壊などあってあたりまえの建前です。中学ではひとりのバカのために授業できないというのは日常茶飯事のようです。こういうバカをどうにもできない公立学校なんていずれ消滅する運命でしょ。なにしろこういうバカは内申では操れないのですから、バカ教師にはどうにもできない。

 竹の会では、施設を壊す、暴力などあれば、即日退塾です。いやそんなことではない、竹の会は、親御さんから委託された指導が順調に進められなければ、退塾という名の指導辞退を申し出ることに躊躇はありません。過去に竹の会を退塾した子たちというのは、少なくとも渋谷教室以降は、みないい子ばかりです。渋谷教室になって、「夏期や冬期は出れない」ということで退塾した親がいましたけど、理由は、夫の単身赴任地で一緒に過ごすというものでしたが、ほんとうは経済的な理由であったと見ていますが、それ以外では、指導そのものができないほどの能力的理由とか、なかなか合格はんこがとれないというのもありました。後者は今ではほとんどこれで退塾というのはないですね。指導がまったく進められない状況が続くというのは、退塾とするしかないですね。建物に落書きする、大声で騒ぐなどの近隣から苦情のくるような行為については、かなり迅速に退塾で対応することになると思います。

 そういうわけで渋谷Aには、いやBも含めて竹の会では、いつ空席が出てもおかしくないとは言えます。だから、その意味でも渋谷Bで待機しながら空席を待つというのは意味あることと思います。あるいは来年の2月を待つというのももちろんありです。

 抗生物質の効かない耐性菌(細菌の話しです)というので、死ぬ人が増えている、そうです。このからくりについては、先日も説明しましたが、最近物議を醸している近藤誠医師のガンについての言論がよく問題にされます。わたしも近藤医師の本は10冊以上は読んでいます。またその近藤理論に反対する立場の医師の本も読みました。

 近藤医師の著作の中にガンに関する免疫療法というのは意味がないというのが面白かった。もともとガン細胞というのは、そういう免疫システムをすり抜けて発生するものなのであるから、免疫力を高めても意味がないというのである。ストレスでガンになることは知られていますが、ストレスが免疫力を下げるからという論理と免疫力をすり抜けるという論理はかみ合っていないようにも思います。

 問題はさまざまな論理というものが、実証的に裏づけられていない、ということですね。ニューズウィークにある米国の医師がクスリについて論説を書いていましたが、日本の現状というものを知らないで、推測だけで結論づけている、なにも根拠を示さないで、次から次と判断している、驚きました。

 耐性というのは、順応の裏返しですよね。免疫を獲得するというのも順応したということの別の表現でしょ。細菌だって太古の昔から戦っていたわけです。人間の免疫という自然に備わった力で細菌というものを撲滅してきた。強い体というのは、戦いの証しでしょ。そもそも細菌はなぜいるのか、生きている根拠は何なのか、これなどは人間本位の疑問なのでしょうけれど、多様な生物が地球上にはたまたまいて、古代から種の保存に余念がなかった、それだけのことかもしれない。体が衰弱すれば無菌の集中治療室に入れられて、細菌感染から守るということもある。しかし、心はどうなのか。社会生活、共同生活に耐えられない人というのも出てくる。不登校というのも必然です。ニートというのも必然です。心を病むという人も増えてくる。人口がこれだけ増えて、職も思うようには手に入らないのですから。新聞やマスコミ、そして匿名の人たちの「いじめ」というのが、魔女狩りのように罷り通る社会になってしまった。ひとりの人間を洗いざらい晒して徹底していじめる構造である。

 こういう社会に順応は嫌だ。ただ耐性だけはもたなければならない。そうなると耐性は順応の単なる裏返しではない。耐性菌は恐いけど、わたしたちは、耐性菌の生まれるメカニズムには学ぶことがあるような気がする。世の中は何を駆除しようとしているのか。わたしたちは何の根拠もないことに流されてはならない。耐性菌のようにブレのない一貫した生き抜く姿勢というものはもたなければならない。なんの根拠もない論理で駆除されるのは真っ平ご免である。わたしたちは、常に根拠を問わなければならない。わたしはよく子どもたちに、「単位をつけろ」、「式を書け」と言うけれど、子どもたちの意識は、答えさえ出せばいい、正解ならいい、と気楽に考えているけれど、大切なのは根拠、つまり過程、つまり式である。答がわかれば終わりにして、また同じ類いの問題がわからないというのは、答えばかりを求めてそれで終わりとすることに慣れてしまったからであろう。答よりも根拠でしょ。これこれの根拠でこの答が出ました、と言えるようになったら一人前です。作文が苦手なのは、答を探すからです。過程というか、根拠を考える、そういうふうに考えないからです。

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