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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/勉強道は一途道、勉強というものを飾りとしてしか考えないバカ

2016.05.30

 おはようございます。本日は午前中雨。今日は、渋谷B、5月最後の指導日です。昨日までに夏期指導の予定等の配付を終わりました。本年より、AもBも夏期必修となりました。8月の通常指導はありません。夏期日程のみです。本年からB日程が独立して設定されました。B日程につきましては、外部生の参加も受けつけております。ただし、5名限定。まもなく〆切の見通しです。Bは定数を10名と考えております。Aに比べて指導の流れは緩やかになると考えております。

 新しい子どもたちが増えて今後規律を重視して、厳しい対応をすることになるかと思います。建物内では、わいわいとおしゃべりをしながら歩いてはいけません。もちろん教室内も同じです。建物にいたずらなどあれば、即退塾ということだけはご承知おきください。竹の会は子どもたちにはやさしく接していますが、ルールを守らない子には即退塾ということでは、どこの塾よりも厳しいと思います。どうかわたしを指導以外のことで悩ませないでください。

 夏期指導の申込は、6月中です。早期の申込確定にご協力ください。なお、夏期申込は必須です。申込なしの場合は、自然退塾の申出があったとみなされます。竹の会では夏期等の長時間指導を思考形成、実力伸長の絶好の機会と認識し、指導時間の充実を図っております。都立中受検、高校受験のみなさんにはもちろん大切な機会です。渋谷教室になってからも夏不参加を理由に退塾される方がいましたが、理由は、受検にもかかわらず、単身赴任中の夫のもとへ子どもと出かけるためというのがありましたが、申し訳ありませんがわたしには、理解不能でした。元代々木教室の時代には、オーストラリアにホームスティに行った子がいまして、夏はほとんど出られず、小石川志望でしたが、夏が終わって、自分の実力がひどいことがわかったのか、受検を「止めた」と言って退塾してしまいましたが、その後日能研に行って、両国を受けて散ったという情報が届きました。自分のやりたいことをなんでもやっていたらそんなものでしょ。戦略以前の問題です。

 世の中の母親というのは、勉強というものがわかっていないほどに、頭が悪い人が多い。子どもがあれもしたい、これもしたい、と言うのを、かわいいのはわかりますが、なんでもきいてやるというのは、ありえない話しです。子どもというのは、がまんさせるのが、教育でしょ。いろいろと欲しいもの、やりたいことはあろうけれど、我慢させる、そういうところから教育していく。いやそういう不足することこそが教育の最高の機会なわけです。ところが、昨今のバカ親は、子どもが欲しいと言えば、なんでも買ってやる。それが子どもには過ぎた、どんなに高価なものでも、買い与える。子どもは、そりゃー喜ぶでしょうけれど、これは教育の放棄であり、子どもは確実にバカが加速していく。教育しないバカ息子、バカ娘の増殖は見るも無惨で嘆かわしい。こういうバカ息子、バカ娘は、コンプレックスが相当強く、親から買ってもらった物自慢、親がいかに金持ちか自慢、果ては親戚縁者の自慢とどうしょうもないアホである。欠乏で教育されてこなかったバカは、どこそこの会社や商店の二代目、三代目のバカ社長、わがまま社長が害悪をまきちらすのを例をあげるまでもなく、社会では鼻持ちならない存在でしかない。そういえば贅沢三昧で育てられた芸能人のバカ息子、バカ娘を見れば、欠乏させて教育するということの大切さというものがわかろうというものだが、世のバカ親にはそういうことは反面教師にもならないし、他山の石にもならないほどにバカである。バカ故にバカである。

 豪華な机を買ってやって、エアコン付きの部屋を用意してやって、勉強するわけがない。安アパート、一間の部屋で親子3人、母は病気がち、父親は頭のいい一人息子のために一所懸命はたらいて、熱心で親戚に借金してでも子どもを塾(竹の会)に行かせ、子どももそれに応えて、都立青山に進み、3年間学年1番、現役で東大理Ⅱに合格した。礼儀正しくきちんとした子だった。欠乏が子を教育する。欠乏は最高の教育者だ。子どもに贅沢させる親は子どもに対する教育を放棄したバカ親である。そういう子は自分のバカにも気づかずに、他人をバカにする、侮る。金持ちのぼっちゃん、嬢ちゃんは使いものにならない。

 教育とはがまんである。子どもにがまんさせる。当然親もがまんする。昔はテレビがないのは貧乏だから。部屋なんかもないし、まともな机なんか持ったことがない。どこからか母が中古か、中古に手を加えたものを必ず調達してきた。高校に合格したとき、自転車は、母の弟、つまり叔父のお下がりだった。とにかく母は中古を探す名人だった。今の子のように服なんか買ってもらわなかった。1枚買ってもらったら何年でも着た。そういえば、先の東大合格の子なんかは、夏のシャツは3枚しかもってなかった。いつも洗濯して回してた。ジーパンも2枚だけだった。洗濯し過ぎてみな色あせてすり切れてたけど清潔だった。貧乏が子どもをこんなにいい子に育てる。病気がちの母を気遣い、体を張って働く父親の背中を見て育ったんだ。実は、彼は竹の会の月謝も講習費も払えなかった。父親は後で必ず払うからと何度も何度も頭を下げた。彼が高校に行って、1年以上経った、ある日突然現金書留が届いた。中を開けて見たら、それまでの月謝と講習費が入っていた。計算したら1万円多かった。それでわたしは感謝の手紙とともに1万円を送り返した。そしたらまたお礼の手紙がきた。貧乏だったけど律儀な親だった。わたしはもう月謝はあきらめていた。忘れていた。忘れた頃、突然送られてきた。いい教育をしいるな、子どもの心にいい教育をしているな。東大出て、今はきっと親孝行しているだろうな。

 一途一心。天野篤医師の好きな言葉らしい。大学の頃、日本の民法の重鎮我妻榮博士の特集がジュリストという雑誌で組まれた。あの雑誌、よかったな。探してるけど見つからない。あの中で民法学一筋できた我妻先生が、確か、「この道一筋、この道しかない」というようなことを書かれていたように記憶しているのですが、胸にズンときた。

 勉強というものは貧乏な者にも平等に与えられた機会である。どんなに貧乏でも勉強だけはできる。そういう境遇にあるからこそ必死にできる。かつて司法試験は資本試験と言われたし、今の東大合格者の親は、一流国立大出の富裕層が多いというのも知っている。司法試験は学費のやたら高い法科大学院に行かなければならなくなったし、公認会計士試験だって予備校に行かなければまず受からない。国家試験なら予備校はかけもちで複数行ったほうが受かりやすいのも周知だ。とにかく学問はカネがかかる。しかし、貧乏だから受かったという人もいるにちがいない。

 さてそれとして、勉強というものが、なにかのついでにできるものではないということは、賢明な人ならだれでもわかることである。しかし、世の中にはそういうこともわからないバカ親も多い。だいたい人間なんてあれもこれもかけもちでやりながらなんとかなるようにはできていない。ひとつのことを極めるのは大変なことである。そのひとつのことにすべての時間をかけても成就できるのかどうかもわからない。ましてや同時に2つ、3つなど追うことなどできるはずがない。

 勉学の道を志したのなら勉学一筋、とにかくなにかひとつのことに一心に注ぐことしかできないはずである。

 勉強は決して飾りなんかではない。習い事、稽古事のひとつとしてしか見ていないような親は、平気で勉強を他の稽古事と同レベルで犠牲にする。自分の主観的都合で勉強を蔑ろにする。そういう親の行動がとりもなおさず、勉強というものに対する教育をしているということに思いもいたらない。家族で食事に行くから早退しますという教育は、勉強よりずっと上の価値というものを植えつけていく、しかし、そのずっと上の価値というのは超主観的、恣意的なものであり、それは子どもに勉強を蔑ろにする、いやいい加減にするという教育をしていることにほかならない。

 子どもには一途に勉強することの大切さを教育しなければならない。途中で稽古事、習い事を止めることに激怒する親が、勉強しないという態度に激怒しないのは、その信条が超主観であることを物語っている。習い事や稽古事は貧乏ではできない。貧乏な家庭はたいていそういうものはやらせてもらえない。わたしはそうだった。でも勉強だけはちがう。貧乏でもできる。ただ参考書を買いたいだけ買いたかった、という思いは今でも残っている。東大に受かるには参考書だけは自由に買えなければという思いが強い。高校のとき、参考書も満足に買えなかった。わからないときはいつまで考えたけれど限界があった。いつか友人の家を覗いたことがあった。東大に行ったヤツだ。部屋には入れてもらえなかった。ちらっと見た部屋には、本棚があり、びっしりと参考書が埋まっていた。ショックだった。そういうことかと思った。

 竹の会では、この夏から中学生には希望者に限り、有償でわたしが参考書を取り揃えることにした。中3からは5千円、中1、2からは3千円とした。わたしがこれといった参考書を選べるようにした。もちろん希望者のみだけれど、わたしには高校のときに自由に買えなかった参考書への思いがある。この参考書さえあればという思いがある。5千円は、わたしが買いそろえる上限であるけれど、上限を超えればわたしが負担する。とにかく中学生にいい参考書を用意してあげたい。だからここまではいただくが、いいものがあり、それが上限を超えてもわたしが用意したいという思いである。参考書選びの達人、わたしが選んだ参考書に間違いはない。

 竹の会のみなさんは、竹の会というところが、勉強道、一途道を歩む人たちの集まるところ、少なくともわたしがそう考えているということは知っておいてください。勉強を蔑ろにする親御さんのさまざまな行動には失意、落胆するであろうことは正直に告白しておかなければと思います。

 そしてなによりも竹の会は学校ではない。何をやっても許されるということではない。学びの場である教室を大切にし、ルールを守らないなら、竹の会には来ることは許されない。

 

 

 

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