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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/指導とは/指導の達人をめざして

2016.06.13

 おはようございます。本日は梅雨らしい雨の日で何かほっとしております。気象予報士というのは、好き勝手を言ってまともに当たったことはあるのか、いつも事後修正して、平気なものです。梅雨入りしてからっ梅雨だとか、だれも言っていなかったのが、雨が降らないのを見て平気でからっ梅雨の可能性を言い出す。その信用ならない口から今年の夏が異常に暑いと言われても、ほんまかいなと突っ込みたくなる。

 さて、今日は朝から前日指導を踏まえて、いろいろとレジュメの調整をしていました。子どもたちに指示したレジュメの進捗状況というものは常にチェックしておりますが、提出、というか指導日のチェックの機会が「ない」のは、負の状況を暗示していて疑いないとみています。中学生の諸君は、特に、細かいことは言いませんが、常に、提出してチェックを受けるということは守ってください。毎回の指導で一度もレジュメの提出がないのは異常なことです。常に、レジュメを出して、その度に、進捗状況をチェックできるような流れというか、リズムを維持しなければ赤信号です。

 そういう過程が円滑に流れている限りは問題ないのですが、少しでも淀みというのが見えてくるとこれはよくない兆候です。淀みは放っておくと本当に澱み、濁り、腐ってしまいます。指導が順調というのは、清水の流れるが如き状況を言うものです。子どもたちに、「これをやりなさい」と指示するとき、ある目標を設定し、その目標達成に向けての手順というものが、わたしの中では「ある」わけです。ひとつのことを成功裏に終わらせたなら、「次の一手」、「次の手順」というものが、あります。子どもたちが、わたしの指示を淀みなく、進めてくれるならば、これほど順調なことはないわけです。

 ところが、子どもたちによっては、あちこちで澱みを見せる、淀んだまま動きがない、ということもあるわけです。これが指導の難しいところです。去年の小6には、課題を流れに乗って出すことのできない子たちがいました。また日々の指導レジュメにしても、ほとんど合格はんこがとれないという子たちもいました。これなども流れには乗れていなかったわけです。あるいは、能力はありながら、合格はんこも取りながら、勉強時間を省力化するという子たちも流れに乗っていた、とはいえないわけです。澱みというのは、子どもたちを指導するに際して、様々な形で表れてきます。

 家庭学習をきちんと進められない子というのは、受検、受験は無理です。わたしは、少なくとも一日5時間という家庭学習を求めていますが、実際にこれを実行できている中学生なり、小学生なりがいるのかと思うとかなり消極です。特に、今年の小6は、去年の小6に比べて、かなりに遅れています。正直、現段階でひとりも合格見通しというものがない。そもそも算数、割合、つまりは思考力形成というところから、鍛え直さなければならない、というのが、ひとつには遅れの原因です。小5の一年間を割合という思考訓練で鍛えてきたか、というのが、小6のありようを決めてしまうのです。さらには、天声人語質問集の答案を見てもまともに問いの意味を理解して答えている答案というものがほとんどない。作文にしても書き直してその分、力がついていっているという実感がない。問題を解くことが肥やしになっていない。そもそもの計算にしても、いつまで立っても合格はんこがとれない。計算は神の領域にまで精度を高めなければならないというのに、何度やっても不正確な計算をやる。

 根拠というものはないのですが、字が汚い、乱雑な子というのは、家庭学習をきちんきちんと進められない傾向が強いような気がします。

 正直に告白しますが、わたしには、もって生まれた能力をどうにかすることなどおよそできない相談だと思っています。だから、いくら訓練をしても、能力の壁からくる澱みというものを取り除くということはできない。指導というのは、そういう能力の限界というものを敏感に感じとり、なんとかその限界内での了解というものを可能にできないか、探る、模索する、そういうことです。

 「できない」「わからない」というのは、率直に言えば、能力がそこまでないということです。塾は魔法の力を持っているわけではありません。与えられた能力、その中で次善の策を考える、そういうことしかできないでしょ。だからそれが不満というのであれば、転塾なりして、そういう魔法の力を持っていると主張する塾にいくほかない。

 今の小6にしても、本来ならかなりに適性のための訓練をしている時期なのに、そもそもの思考がないために、ここは我慢して、思考力を鍛えるという、本来なら小5でやっておくべきであった指導をやらざるをえない。将来、中学生になったときのことを考えてもこれは省力化できない。それであえてそういうことをやっている。竹の会の小5が今やっていることを小6もやるほかない。大手に通っていたといっても、できなければ基本をやり直すしかない。ここは我慢でしょ。幸い一部の小6には、算数、割合を考えて解く、そういういいかたちが見えつつある者も出てきた。受検対策は大幅に遅れるが、ここは思考訓練を徹底してやっておきたい。

 やはり思考力をじっくり鍛えていくには、小4が一番いい。竹の会にくるのにもっともベストな時期、それは小4です。小4のときにじっくりと勉強の作法というものを習慣化してやる、それから小5の一年間をかけて思考を鍛え抜く、そうすれば小6の一年間、適性対策を有意義に進められる、そういうことです。

 竹の会をめざすみなさんは、是非小4に竹の会にきてほしい。

 指導とは、特に、小学生の指導とは、難しいものです。小4,小5、この時期に、抽象的なものの理解枠というものをどう組み込むか、これはなかなかの難事業です。特に、きちんとした勉強習慣というものがない小学生というのは指導は困難です。課題というのは、この家庭学習習慣というものをリードする意味あいがあります。勉強というのは、こつこつ、とにかく地味な作業です。飽きっぽい、集中力のない小学生には無理です。ここですでにして振り分けられる。小学2年生でも、言いつけを守って、2時間でも3時間でもじっと机について、言われたことをやっている、そういう子がいますけど、もって生まれた資質というものがあるわけです。

 どんな子でも勉強に向いているわけではない。ところが、親というのは、自分の子の資質も考えずに、とにかく塾へ入れてなんとかしてもらおうと思っている。塾はそんなバカを治す力、方法なんてないのに、カネさえ出せばなんとかしてくれると思っている。塾の側もそういうところはうやむやにして受け入れる。しかし、バカはバカのままです。バカを治す薬などありません。

 受検、受験というのは、それなりの資質を持った子たちにのみ可能なことなのです。自分の子を高く評価するのは勝手ですが、だから塾がなんとかできるわけではない。竹の会なんかは、小塾ですけど、入会試験をやって、対象をしぼっていますが、竹の会に「できる」ことだけをやろうとしているからです。ただ竹の会では今渋谷Bでは入会試験に落ちても指導可とすることがあるのは、小4、小5の早期なら、基本訓練はやってみる価値、意味がある、と考えたからにほかならない。これが小5後半から中1早期だともはや手の打ちようがない。

 わたしは、小学生にしても、中学生にしても、いつもどう導くか、そればかり腐心しております。長い指導経験から得た指導の成功法則は、やはり小4のときからじっくりと仕上げてきた子ほど成功するという体験から出た結論でした。小4、小5の勝負は、抽象的なものの理解枠組みをどう成功裏に頭に構築させていくか、ということです。計算にしても、割合にしても、すでにして抽象的な世界の話しです。詳しくは、話せませんが、わたしが指導に際して、大切にするのは、定義ですね。定義というのは、抽象的かつ簡潔な、共通項の言い切りです。子どもたちが、つねにこの定義を意識して、定義はどうだったのか、そういうところから考えるようになってくれればと思っています。算数の問題、割合の問題を考えるときも、定義はどうなっていたのか、そこから考える、そういう習慣をつけてほしい。だからわたしがいつも子どもたちに解説するときは、「元にする量」は?と訊きます。小6の子たちが「わからない」、「できない」という問題はいつもこの「元にする量」を曖昧にしているのです。この子たちには定義というものに対する意識が鈍感なのです。いや算数のできない、思考力のないという子たちはみなそうです。定義を踏みにじっているのです。定義を無視しているのです。

 抽象的思考というのは、定義という抽象的な約束に論理的な矛盾なしにさらに抽象的仮説、命題を積み重ねて、あるいは組み込んでいくことにほかならないのです。

 わたしの説明はよく「わかりやすい」と言われます。「竹の会の先生の説明がいちばかわかりやすい」と言われたものでした。それは、定義を語るからだと思います。定義を語るには、子どもたちの頭の中に定義を組み込んでやらなければなりません。それが思考力を作る、鍛えるということです。

 わたしは、かつてはこどもたちに「わかりやすく教える」ことが名人の技術だと思っていたこともあります。しかし、「教える」ということは、子どもたちには害である、子どもたちは自分で考えた結果、「わかった」のでなければならない。とすれば、わたしのなすべきことは、子どもたちが考える、その仕組みというものを子どもたちの脳の中に組み込んであげること、指導というのは、そういうところに重点がある概念であるべきだ、このように考えるに至ったのです。

 わたしは、その意味で、指導の達人になりたい、ならなければならないと精進してまいりました。わたしの指導を受ける子たちが類い稀なる思考力を獲得していく過程、それはまるで絵に描いたように「見える」過程になってきたように思います。竹の会に入会した中学生が、竹の会の指導の素晴らしさを悟るほどに、優秀であったことをよく思います。竹の会に出会った小学生が、指導の名人に出会えたとすればそれは幸いなことでした。わたしは指導の達人をめざし、名人でありたいと、本を読み、考え、学び続けたいと、それだけは譲れないと、思っています。

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