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最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/権威という空っぽと権威に弱いアホたちの社会

2016.09.25

 おはようございます。予測もつかぬ自然の成り行きに気をもみながらの9月も早終盤に入りました。今日は久しぶりにお日様が見えるということらしいですが、いよいよ本格的に秋へ入る予感がしております。前回の指導日には体調すぐれぬ小学生が出ましたが、これから気候の節目となれば毎度なにかと体調芳しからぬ子が出るのではないかと危惧しております。まことに子どもというのは突然の体調不良に見舞われることが多く未だに免疫機能も未熟な発展途上にありいたしかたないことですがとにかく何事もなく元気に勉強に専念してくれることを祈るばかりです。

 本年はどうした加減か中1が集まりわたしも久しぶりに2年後の高校入試を見据えて戦略を練っております。例年中学生は1人、多くて2人でしたが、今年は相対的に多いということです。ただ来年の新中1については、今年は理想とする小6の4月前後までに逸材を集めることができずに現在にいたっています。特に中学に関しては都立日比谷、西、最低でも戸山を窺える逸材の指導を想定しております。もちろん新宿、駒場、そして青山も想定の内ではありますが、そういう意味で中学の質を落としたくない。現在将来の高校入試をふまえて小学生を指導しておりますが、それはそのまま中学になってからもその子たちを竹の会で指導するということを意味してはおりません。飽くまでも将来中学生になったときに困らないようにしておくための指導です。

 中学の指導に関してはわたしはわたしの指導、つまり打つ手にしたがえば仕上がっていく、少なくとも新宿、駒場は当然にして最低でも戸山に合格できるほどになる、そういう見通しで指導しております。もし中学で成績が下がるということがあれば理由はともかくとしてとにかくわたしの想定したように勉強していないということです。勉強できていない原因が部活であるうが、その他の怠惰であろうがわたしには関心はありません。再三申し上げてきましたように竹の会というのは勉強する中学生の集まるところです。勉強しない、しなくなったのなら竹の会に「いる」理由はありません。

 中学生のみなさん、いや親御さんに誤解のないように申し上げておきたいのは、いかなる余儀ない事情にて勉強が思うようにできなかったからとしても、成績が下がっていくというのは、親御さんからしてみれば塾にも一言ということになりましょうけれど、わたしはひとまず竹の会を退塾していただいていったんは塾とは離れてゆっくりと考えていただきたいと考えております。ひとまず退塾をということです。

 こと中学に関しては逸材をわたしなりの戦略に基づき所期の志望校へ合格させる、そういうようにもっていきたいと考えております。わたしの戦略的な指導がわたしの意図とは関係のないところで遂行できないということであればこれはわたしのほうから指導を辞退させていただくほかないと考えております。中学生のみなさんは勉強しないということは竹の会を止めることだ、常にそういう意識で勉強というものと対してほしい。

 いや竹の会というのはそういう塾として考えていただければ幸いです。これは小学生についても例外ではなく、小学生の勉強姿勢というものは常に問うている、勉強姿勢のない子については、躊躇なく竹の会に通うことを断念していただく、そういう姿勢でいます。去年の小6に関して勉強のスタンスに問題を抱えた子がいまして、受検が終わるまでストレスに苛まれてきましたが、本来このようなストレスとなる子については早くに退塾などの対応をしておくべきでした。ただ受検直前期にはなかなかそうもいかないわけです。

 わたしが退塾を決断するのは、やはりストレスのある子です。日々の指導でストレスしか残さないということが続けばこれはもう退塾しかないと思っております。わたしは勉強ということで純粋に指導を発揮したいのです。そうした指導がそもそもできないという子については竹の会に来てはならないのだと思っております。ストレスのない、素直に勉強に専念してくれる子であればわたしの指導も冴えてくるでしょう。

 勉強するために竹の会に来ている、この一点を常に忘れてはなりません。勉強する子、勉強を常に優先する子、家庭には竹の会はこんなすばらしい塾はないというほどに輝いているはずです。

◎日本の社会というのは、とにかく肩書きというものに弱いわけです。肩書きに騙される。ノーベル賞をとった人の主張はみなありがたがる。特に、マスコミというのはそういうところで囃し立てるわけです。とかく日本人は権威に弱いところがある。アメリカというのは陪審制が当然のようにとられるところですが、これは国民が国というか、国家に裁かれることを不本意としているところからきているのではないか。西部劇の時代には私的制裁、わゆるリンチが横行したと聞く。最終的には自分たちで裁きをつけたい、それがアメリカの人の精神なのだろう。ところが、日本人というのは、お代官様にずっと裁かれてきた。最終的には国に決着をつけてもらおうというのである。隣人は信用ならないが、国なら信用できる、というわけです。お上を信用する風潮が強い。だから日本では陪審制は浸透しなかったのではないか。そもそも民主主義というのは国家に対する不信が基底にあったと思う。ところが日本人にはもともとそういう基底はないのではないか。役人とか、警察官とか、裁判官、検察官などに一目置く。大臣ともなるともう「ハハァー」とやりかねない。しかし、バカが大臣になる時代である。役人は国家正義の代弁者みたいな横柄な態度を平気でとる。日本では権威というものが一人歩きし、国民はみな権威に憧れ、権威になびき、権威にひれ伏す。医者がテレビ何かを言えばたちまち信用する。弁護士が専門でもない問題でコメントすればみななるほどとうなずく。ばかでしょ。だいたい専門家というのがまず怪しい。わたしたちは何かの専門家というともう全人的にその人が優れた人のように思ってしまう傾向がある。何かを信ずる根拠が権威なのである。しかし、権威ほど虚しいものはない。権威というのは張り子の虎である。つまり中は空っぽである。法律家が法律問題について意見を言うのはいい。しかし、法律家がなんでも口を出すのは間違いである。そもそも法律知識も怪しい法律家というのがいるので要注意である。だいたい医師なんか、自分の専門でもないのに患者を診るわけです。日本ではこれが認められている。内科の医師が喉の腫れを診て薬を処方する。しかし、これが命取りになることだってある。耳鼻咽喉科の医師ならすぐわかる病気が内科の医師では風邪にされてしまう。弁護士だったら法律はなんでも知っているなどと誤解しているバカがいるけれど、特許を例に出すまでもなく、建築だって、医療過誤だって、専門にやってきた弁護士以外はど素人ということは肝に銘じておいたほうがいい。

 テレビは事実を報じない。新聞も当たり障りのないことしか報じない。わたしたちはなんにも知らされていない。いつもきれいなところ、表ばかりを見ている。デパートの一階はたいてい化粧品売り場ですね。きれいなお姉さんが派手な化粧品を売っている。さてです。この化粧品をひとつ作るためにどれだけの動物実験で小動物たちが犠牲にされてきたか、皮膚を爛れさせて使い捨てにされた動物たちは年間どれほどになるのか。派手な高級化粧品を売り出すためにどれだけのウサギ、サル、犬などの動物が実験に供されてきたのか。あのぶくぶくと太ったおばさまの顔をメイクするためにどれだけ動物の血が流されてきたのか。

 薬だって同じです。みな動物実験です。いくらでも殺される。最後は薬漬けになった人間が、薬に殺されていれば世話はない。

 わたしたちは人の言うことを鵜呑みにする傾向がある。新聞やテレビで報じないことのほうが重要なのに、騙される。親には思い込み、決めつけというのが多いが、大手志向というのもそれだろうけれど、特に、権威のある筋から言われるともう鵜呑みにしてしまう。いや権威だけではない。みんながやっている、この「みんな」というのが行動動機になっているのが現代の大衆である。根拠はいつも「みんなやっている」である。流行っている、普及しているとかいう言葉に弱い。バカです。塾も迷わず大手というのがこのバカの選択です。子どもがそこそこでも結果は見えているけれどこの種のバカは自分が騙されているという意識がない。自分で決断したという意識が強い。なに、根拠は「みんな」ですから、バカな決断なのに、自分で決めたという自負心だけは強い。中学は部活三昧で勉強は明後日、高校は二流以下のバカ高校、大学は三流に行く、そしてたいていはフリーターになる。世にフリーターという職業がなければどうなるのでしょうか。大雑把かもしれないが、大手志向の結果というは、たいていそういうものです。

 鵜呑みがダメなんです。根拠を問う、常に疑う姿勢が大切なんですよね。なぜ「みんな」だと信じられるのか、わたしにはさっぱりわからない。なぜ「みんな」に自分の人生を、自分の子の人生を託せられるのか、わたしにはさっぱりわからない。「みんな」というのは幻みたいなものです。実体のない、自分に拠るべき信念のない人間が投影されたのが「みんな」でしょ。

 新聞だって今は「取材」というものをやらない。なぜか文春のような週刊誌が取材というジャーナリズムの原点に立っている。だから新聞よりも週刊誌の方が今では信用できる。昔は違ったでしょ。週刊誌は根も葉もない捏ち上げと相場が決まっていた。しかし、今は新聞が信用ならない。取材しないからである。

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