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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/港区から至近距離の塾/巷に溢れる無学力の小6たち

2016.07.06

 おはようございます。本日は、渋谷Aの指導日です。中学では、期末試験も終わって、いよいよ夏という最も時間に恵まれた時期をいかにして勉強と向かい合うか、そういう段階に入りました。二期制のところでは、夏休みが終わってすぐ、学期制のところでは、10月には中間テストが実施されます。

 先日、試験前日に「美術」の対策をどうすればいいのか、という質問が親御さんからありましたが、対策というほどのものはないでしょ。授業でやったことが出るに決まっている。中1というか、中学生には、「実技」のワークは全員に渡していますし、さらに、必要であれば、竹の会に実技の問題例の資料が用意してありますので、授業との兼ね合いで、コピーを請求するようにとは、かねてから各人に言い渡しておりました。こういうものは、前日ではなくて、早くから請求しておかねばなりません。そのための目次のコピーも渡しています。早め、早めに手を打つようにしてください。というか、今、授業で「何を習っているのか」ということは、こまめに報告するようにとは、何度となく注意を喚起していたはずです。二期制のみなさんは、準備を怠らないことです。学期制の場合は、11月末あたりになるでしょうから、油断しないことです。定期試験というのは、学校で習ったことしか出ないことになっています。ただし、これば中2までの話しで、中3になると、教師の中には、高校入試の過去問を最大50%も出すという例もありました。英語なんかも教科書ではなく、どこかの長文を出したりしてきます。つまり、中3になったら、教科書や授業だけをやっていても、定期試験ではとれない可能性がある、ということです。これも学校や教師でばらばら、好き勝手、野放しの状況で、わたしたちは、最悪の場合を想定して、準備をしておくことにこしたことはありません。

 昨日も触れましたが、このところなぜか小6の親御さんからの問い合わせが相次いでいます。正直な感想を言えば、大手や他塾はいざ知らず、少なくとも竹の会では遅きに失します。竹の会では、今の小6が小4の時からそれはそれは幾度となく募集をしてきましたが、最低でも小4の2月指導開始というタイミングに合わせて申込をしてきたのは、実は皆無でした。小4の3月に1人のみ、女子ですが、その子が1年かけて基本を順調にものにしていった、それだけです。この学年が小5になっても待てど暮らせどだれも竹の会には見向きもしない、繁盛するのは、栄光、エナ、大原といった大手ばかりで、とても竹の会のような小塾など親たちの目には入らないというのが現実でした。それでわたしももうこの学年の募集はあきらめたわけです。竹の会というはほんとうに小塾ですので、振り返ってみても、受検生がいたり、いなかったりが、一年ごとに繰り返されている。いてもたいていは3人とか、多くて5人ほどですから、ほんとうに細々とやってきたわけです。

 ところが、この、もう7月とかになって、俄に小6の親たちが動き始めている、初めて竹の会のような小塾にも声をかけてくるようになった。早い子ならもう小4から、栄光やエナなどの大手に通っている子もたくさんいることでしょ。小5もなんということもなく、つまり問題は顕在化することもなく、大手で過ごす、そしていよいよ受検の小6,この時期になって親たちが色めくのは、自分の子が思ったほど力がついていない、いやもしかしたら「ない」のではないか、と気づき始めたからにほかならない。私は前々から指摘してきましたが、大手でやる授業は、大手で使う、平易な、だれでもわかるテキストを前提に、やるわけで、「わからない」という子が出ない、自覚させないシステムが巧妙に仕組まれている、ということです。だから、小4や小5の時期には、親たちは、「別に、塾でわからないということもない」と安心しきっている。これは以前に栄光に小4のときから通う、小5の母親が竹の会を見学にきたときに、言った言葉でした。なぜ竹の会にきたのか、謎です。大手で困っていないのに、なぜ塾を探しているのか、ただ竹の会に興味本位で来ただけなのか。

 わたしは、どこか塾に通っているという小6については、まずその力というか、そういうものを信用していません。ましてや塾にも行かないで、自宅で通信なんか受けて頑張っているとか聞くともう全くその力を信用しないでしょう。それは、ひとつには、そういう子たちがたまたま竹の会にきて、その学力を検証してみたら、たちまちそのひどい学力というか、基本の全くできていないことに気づかされてきたからです。

 もちろん例外的な小学生というのもいました。小6の9月にやってきて、あれよあれよという間に模試に名前をのせて受かっていったという子もいました。そういう子も竹の会にきたときは、学力はなく粗野なままでしたが、もともと高い知能がたちまちのうちに開花していったということでしょう。25年の白鷗合格者です。25年の小石川合格者も小5の3月、つまりほぼ小6からでした。小6にきて受かるというケースが普通にあり得たのは、平成22年までのことでしたから、異様に目立ちました。

 小6からきて受かる子というのは、特別です。まず知能がかなり高い。それからバランスがいい。特に、国語の能力が高い、というケースが多い。平成23年桜修館合格者のように、小5の3月にきて、国語がまったくできないでも受かったというケースもありましたが、こういう例外的ケースは平成22年まででしょうか。

 さて、それはそれとして、わたしが憂えているのは、昨今の小6の学力のあまりにもお粗末なことです。たいていの子は、小6になるまでに、さまざまな塾に通っていたはずでしょ。なのに、計算力ひとつとってもかなりひどいし、割合の理解度なんかも「嘘でしょ」というほどわかっていない。ところが、不思議なことに、本人たちは、「計算はできる」、「割合ならわかる」と思い込んで疑わないことです。親もそういう子の言葉を疑いもなく信じている。まことに幸せな光景です。大手などで自分がどれだけできないか、ということを知らしめられたという経験、機会がないのです。逆です。「できる」と錯覚を持たされている。こんなのがうようよいるとしたら、竹の会の子どもたちが、大手の模試にいきなり行って受けて、たちまち上位にいる、ということもなんの不思議もないことです。

 わたしの実感は、世の中には、とにかく大手でもなんでも塾に行きながら、全くといっていいほど力のない小6がうようよいる、ということである。世の中の塾というのは、まず、テキストが前提で、ある程度の人数を相手に「授業」をする、そこから予習や復習などという言葉も生まれてきたわけですが、どこの塾でも、週末には土曜テストとか、日曜テストをやって親たちを安心させるわけです。このシステムでは、授業をやる講師の質も当然に問われますが、要となるのは、教材です。大手なら自前のテキストを作成する、それでブランド力を誇示するわけですから、テキストには力を入れる。大手のように自前のテキストがない、中小塾も昔からいくらでも専用の教材を専門に作って売る会社があり、なんでも手に入るしくみになっています。今では、学研とか、旺文社などの大手も塾向けに専用の教材を販売するほどに出版界は不況です。

 世の中の子どもたちというのが、みな一様にそれなりの水準の能力を持って生まれたのであるならば、このような画一的な対応も問題ないのかと思います。ところが、実際はそんなことはないわけです。実際に指導してみればわかります。子どもというのは、みな違います。能力はもう千差万別、とても画一的な処理なんかできっこない。画一化されたテキストを一様に能力の違う子どもたちに課す、何か意味があるのでしょうか。口角泡を飛ばしてテキストを説明する学生講師がいくら熱心でいい人であっても、子どもたちがそいう学生講師をいくらいい先生だと好きになっても、現実は、つまり能力の違いという現実は関係なくあり続ける。仲間がいて、楽しい雰囲気の教室で、学力はついていくという実感はないままに、とにかく和気あいあいと過ごす、そういうことを優先させて1年が経ち、2年が経つ、こうして基本的な学力というもの、そもそもの思考力というものを全く鍛えることもなく小6となった子たちが溢れかえっている、そういうことなのではないか。

 あなたたち親が選んだ大手、いやどこかしこの塾でも同じですが、今、もしまともに計算もできない、割合もわからない、としたら、これはもはやそういう子たちの未来はそれほど明るくない、そういうことなのではないか、と思います。そういう子たちが、そのままに結局は公立中学へ行き、今度は高校入試をめざすとしても、また大手に通い、地元の塾に通い、テキストと授業で、小学時代にまともに形成もしてこなかった思考力もないままに、どうなるのか、もはや見えている、と思うのですが、いかがでしょうか。

 わたしは、勝負は、小4期であると信じています。ただどんな子でもこの時期から指導すればいいのか、というとそうでもない。中には、早くから指導を始めてもダメな子もいる。だから、竹の会では、指導できる最低限の能力というものが必要だと考えている。そういう最低限の能力もない子たちというのは、どうすればいいのか、という問題は確かにあるけれど、それはわたしにどうにかできる問題ではない。人のもって生まれた才能というものが、あって初めて言えることなのである。わたしは、発達障害に近い子からおそらく思考というものが育つ見込みが限りなくないという子まで実際に指導した経験から、そういう子たちの指導というのは不可能なのではないか、少なくともわたしにはできない、そういうことを何度も思い知らされてきた経験があります。

 わたしは塾をやっている、つまり営業として塾をやっている。だから、わたしが指導して成長する見込みもない子をカネをとって1年でも2年でも入塾させておくというのは詐欺に近いと思っている。竹の会というのは、実は元代々木教室の時代からよく退塾させてきた。これは、指導の実もないのに、カネをとることなんかできない、というわたしの信条に由来するところが大きいかもしれない。できない子をできないままに飼い殺しにすることなんてできないし、勉強もしない中学生をただ引き留めておくなどということもできるはずもない。部活で塾に来たときは居眠りしているだけとか、家庭学習もない、そういう子が早晩どうなるか、だれでもわかるでことあろうが、わたしは、早晩、それが半年先か、1年先まで、問題化するまで、そのままに放置して、カネだけとっていく、そういうことができない、と言っているのだ。塾を社交場と勘違いした中学生もいたけれどみんな退塾させてしまった。だから時には竹の会はガランとして商売にならないということもよくあった。それでもわたしはわたしの信条を通してきた。

 竹の会というのは、そういう塾です。子どもたちの力、思考力のついていく過程を常に注意して検証し、ひとつひとつ指導を積み重ねていく、その結果の1年、竹の会の1年は中身の濃い、1年だと確信しています。

 

 

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