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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/結局子を社会的に抹殺する親の溺愛、過干渉

2016.07.07

 おはようございます。もうすっかり夏日だと思いますが、まだ梅雨明け宣言というのはありません。梅雨明けというのは遡及して宣言することもあると気象予報士が話しておりましたが、そういうものなのですか。梅雨、つまり雨が降るかどうか、を予測できない、と白状しているようなものですね。天気予報ではなく、天気結果報告なわけですか。後付けの解説なら予報士という資格もいらないのでは?

 昨日は、渋谷Aの指導日でした。たまにいるのですが、今日やる予定のレジュメ集を忘れてくる子がいます。しかも、たいてい忘れるのは同じ子ですね。指導レジュメを忘れてきて、塾でいったい何をするのでしょうか。一度で身に染みてほしい思います。

 それ以外を除いては、昨日は平穏無事に指導が行き届いたと思います。小5は遅速はありますが、割合街道という悪路をそれぞれに躓きながら、よろよろと歩みを進めています。小6に関しては、本年に関しては、正直、私の合格の手順通りには全く進んでおりません。小4の2月から育てていくという私の行程にぎりぎり適っていたのが、2名ですけれど、うち1名がなんとか想定内で歩んできましたが、この子も周りに影響されてか、つまりライバルがいないことが裏目に出ているのか、正直勉強量が全く足りてない。ほぼ小6から指導を始めた子たちについては、未だに計算が弱い。割合については、ひとりだけ男子ですが、いい芽が出てきつつある。ここは思案のしどころで、これはこのまま伸ばしていくしかないのではないか、ここで算数を止めて、適性問題のみにしぼると、これから先、中学生になってもっとも大切と思われる思考の芽を摘んでしまうことになるのではないか、むしろこのまま思考を伸ばしてあげたほうが、後々遅ればせながら取ることになろう適正対策が効率よく、進むかもしれない、というか、こういうように伸びる芽、つまり才能を宿している子というのは、ここぞとばかりに伸ばしてあげたい、正直受検に囚われないほうがいいのではないか、公立中で伸びていき西、戸山という選択の可能性を残してあげたほうがいいのではないか、というのが本音ですけど、本人も親も受検しか頭にないだろうから、思考育成はそこそこに切り上げて、おそらく不毛な適性問題をやっていくしかないのではあろうけど、とにかく悩んでいます。今年は、思考形成途上というか、まだ思考不完全な女子が2人いますけど、このまま思考がついてこないのではないかと不安な思いです。今年、できなくても受かった子たちのことを思い出してみるのですが、ひとりは、ここまでできないということはなかったけれど、ひとりは、できない、相当できなかったという印象がある、なぜか受かってしまった、そういう驚きがある。

 ◎今後の渋谷Bについて

 現在、渋谷Aについては空席がありません。今後は、来年2月から空席予定の5席について、渋谷Bで早期に受け入れていく予定です。ただし、竹の会では、子どもたちの勉強姿勢が指導継続の要件ですので、その要件を満たさなくなった時点で退塾ということは通常ありますので、空席は突然出るということはあると思います。

 ◎渋谷A前提の渋谷Bの生徒募集

 対象 小3から小4 もしくはトップ都立高校志望の小5、小6

 人数 5~6名まで

 ◎竹の会の中学生について

 わたしの想定どおりの指導ができればいいと思っております。特に、中1は、正式に竹の会が中学生指導を再開した第1期生と評しています。竹の会は、都立日比谷、西、最低でも戸山をめざしています。ただし、もちろん青山、新宿、駒場、小山台は、想定の範囲内にあります。

 自分で言うのもなんですが、わたしの高校入試指導技術は東京での30年以上の高校受験という実戦に鍛え上げられてきた、卓越したものであると自負しております。

 中学生のみなさんは、どうか竹の会の、わたしの指導を信じて、所期の目的、志望校、トップ都立高校への合格を勝ち得てほしいと願っております。

 ※竹の会平成20年以降の都立高校合格の実際

  平成20年 都立西高校合格(渋谷区)

  平成22年 都立富士高校合格(渋谷区) ※推薦4.6倍

  平成23年 都立小山台高校合格(品川区)、都立文京高校合格(渋谷区)、都立産業技術高等専門学校合格(渋谷区)

  平成25年 都立北園高校合格(目黒区) ※竹の会渋谷教室移転

  平成26年 都立駒場高校合格(世田谷区)

  平成27年 都立戸山高校合格(中野区)

  平成28年 都立戸山高校合格(新宿区)、都立文京高校合格(世田谷区)

 ◎結局子を社会的に抹殺する親の溺愛、偏愛、過干渉

 先日、耐性ブドウ球菌(MRSA)の話しをしました。抗生物質が効かない、というあれです。これ細菌なんですね、つまりウィルスではない。20年前くらいから問題になってきた、かなり深刻とされている問題です。近年の医療は、細菌感染には最終手段とされている抗生物質が多用されてきました。余計なことですが、この抗生物質というのはウィルスには効かない。だからインフルエンザで抗生物質をのませるのは実はありえない。医者は、「念のため」と言って、インフルエンザ完治後の炎症対策と称して処方している、いや商売をやっている、それだけのことです。

 まず問題の本質は、細菌というものが、分裂速度を最速にすることを生き残り戦略として選択してきた生物だということにある(夏井睦医師)。夏井医師は、細菌の世界は増えたもの勝ちの世界であり、分裂速度の遅い細菌は、生き残れないのだ、という。そして、このMRSAとは実は分裂速度が相当に遅い。それは、そのもつ耐性能力のゆえにである。耐性能力というのは、抗生物質を分解する能力にほかならないが、そのためには新しい酵素を作り、いや作り続けていなければならない。作るのを止めれば抗生物質に殺されるから。酵素を作るというのは、新しい遺伝子の獲得を意味し、必然遺伝子のサイズが大きくなり、複製にも時間を要する、ということになる。つまり、分裂に時間がかかる。

 このような本来弱者であるMRSAが、人間を殺すまでになったのは、通常の細菌を抗生物質で殺してしまったからである。医者は、「抗生物質をのみ切れ」という。細菌を余すことなく殺してしまえ、と言うのである。なんというMRSAには住みやすい環境の場を医師が作ってくれたのである。あの病原性大腸菌O157も通常の大腸菌が消毒で死滅して初めて生き残ることができた。わたしたち人間は、本来ここまで人間が生きのびてこれたのが、各種の菌との共生のおかげであるということをすっかり忘れてしまい、今や菌なら徹底して殺してしまえ、というパラダイム世界に生きている。いったん作り上げてしまったパラダイムは、簡単には壊せない。パラダイムというのは、お金を生むという別の機能があるからパラダイムであり続けられるからである。利権構造にしっかりと組み込まれているのである。

 抗生物質は細菌を「分解して」しまう。ここがポイントである。なんでもそうである。敵というのは分解されると死ぬ。さてである。わたしたちは、というか、子どもたちというのは、割合の問題なんかも、対象となる問題を読み、意味を考え、図にしたりと、要するに敵を分解しようとするわけです。ここでわたしたち指導者がどうするか、である。ここが難しい判断の機微を要するところである。

 大手でもどこでもいい、とにかく塾の講師というのが、ここで問題を「わかりやすく」説明してしまうということのもたらす意味です。これは問題を子どもに代わって、分解し、その分解のようすを見せている、事細かに説明している、ということである。子どもたちは他人が分解したものをただ眺めているだけである。分解したのは講師である。ここが問題なのである。子どもたちが「わからない」と言って、そのままに頼られて、教えやる、つまり代わりに分解してあげていたらどうなるか、である。ここでは、当の講師が、あたかも抗生物質のような役目を担う。これで子どもたちの「わからない」という病はたちまち癒えてしまったようにみえる。なんでもかんでもこの抗生剤のような講師がたちどころに「わかる」に変えてしまう。子どもたちはこの抗生剤をあてにして、同じように使うことを覚えるであろう。よく「わからない」というのが、最終宣言のような子に出会うが、こういう子というのは、親が抗生剤のようになんでも、子どもに考えさせるということなく教えてきた結果なのであろう。

 こういう抗生剤に慣らされてきた子というのは、未知の問題には、全くと言って手が出ない。為す術を持たない。思考停止してしまう。見たことのない問題に出会うと、「まだ習っていない」と、わからない原因がすべてそこにあるとでも言わんばかりの体を示す。彼ら、彼女らには、MRSAのような問題がたちはだかる。かつての中学受験では、見たことのある問題が出るのが普通であったが、近年の問題は、そうなっていない。いつも未知、初めての問題である。もっともこれは難関校の話しではあるけれど。適性検査なんかは、ほとんど毎年未知との遭遇である。やったことのある、見たことのある問題などないのに、大手では、類似問題ばかり作って、練習させている。アホの極みである。

 バカ講師、バカ親は、耐性をもつ問題を、いくらでも作り出しているわけである。子どもたちに真に必要なのは、どんな問題が出されても、考えて解き明かす、分解する、というタフな精神であろう。わかりやすく教えることが決していいことではない、子どものたちのためにならない、ということが、わかる親は少ない。

 親が、子どもの考える契機、芽を次から次に奪うかたちで、なんでも先行して、決めてしまうのは、子どもの分解の訓練を無用とする態度であり、世間的に通用しない子どもを作っている、とは考えないところが、そういう親の思い込みのなせる業である。とにかく子どもには、分解を経験させ、いや失敗を舐めさせて、挫折を体験させなければならない。まずい分解というものを教えていかなければならない。

 親が分解してしまってはならないのである。飽くまでも分解するのは子ども本人でなければならない。わたしたちは、困難に際して、冷静に立ち向かう、タフな精神の持ち主として評されるほどの子どもを育てる使命がある。ひ弱な子どもは親の溺愛、過干渉から生まれる。「わからない」とすぐ放棄する、そのような人間にしてしまっては、社会では生きていけないでしょ。

 親ができるのはあたりまえでしょ。子どもにできない、子どもができないから、どうするか、でしょ。なんで親が代わってやってあげて、子どもの弱体化していくのか、意味がわからない。

 

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