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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/習慣化することが秘訣

2016.07.13

 おはようございます。今日は雨の予報です。が、少なくともいまのところは降っておりません。渋谷Aの指導日ですが、感染力の強い風邪ウィルスが蔓延する予感です。と言いますのは、昨日親御さんが感染・発症したとの連絡を受けたからです。みなさまもどうかお気をつけ下さい。一説にはマスクなど効果なしという人もいますが、わたしは指導中は決してマスクをとらないようにしております。これまで幾度となく子どもたち、時には、見学に見えられた親御さんなどに、ひどいときは、インフルエンザまでも移されてきたからです。特に、子どもさんの場合は、感染してから発症するまでに「間」があり、その「間」にわたしが接するというケースもよくありました。熱を出して塾を休むということはみなさまに大きなご迷惑をおかけすることになると、いつも気を張っています。

 先日のブログで、「わたしと竹の会」というテーマで、公開前提の原稿を募集しましたところ、早速1名のお母さまから原稿を寄せていただきました。近日中には、公開されることと思います。寄稿文を寄せていただいたみなさまには、記念品をと考えており、現在企画中です。当面、在庫僅少の竹の会Tシャツを押さし上げすることとしています。

 是非、みなさまのご感想をお寄せくださればと思います。

 今日は、昨日作るはずの「中1中2のための 計算テスト」をすっかり忘れておりまして、朝6時半に起きると、すぐに取りかかりました。解説までなんとか書き上げて、ようやく一区切りしたのですが、実は、やり残しの添削があり、迷いましたが、ブログ更新を優先させました。

 今週から来週にかけて夏に竹の会を体験する子たちのための指導用レジュメの準備は終わらせていなければならない。今年の夏は暑くなりそうですね。子どもたちが病気をすることなく元気に通ってくれればと願うばかりです。それにしても、やはり中学生指導というのは、平坦ではない。昔からそうでした。中学というのは、どうしても心身のバランスが崩れやすい、それで昔から、中学生が崩れないで順調に受験まで進めるか、というのが、ありまして、やはり崩れて転がり落ちていく子というのが必ずいたわけです。よほど強い勉強志向の高い子、向上心の強い子でなければ、脱落していく、それがわたしの正直な感想です。

 どんなに順調に見えても、ある日突然に勉強を忌避する、放棄するという要素は影を潜めているものです。ですから、わたしは常に中学生を指導するときは、そういう最悪の事態も想定して、行動しております。中2まで学級長をやり、生徒会活動も熱心だったという女子が、突然勉強放棄したことがありました。この女子は、結局、コロンビア大学なんとか高校みたいなところに行きました。中3の2学期でしたか、突然塾に来なくなった男子は、結局高校受験はしませんでした。わたしは、突然子どもたちの何かを狂わせる、親御さんが右往左往するような事態にこれまで幾度となく立ち会ってきました。世の中には、受験という重圧に耐えられない、心のバランスを崩してしまう、そしてまともな高校にも行けずに、中卒として、厳しい社会に親御さんだけが庇護するするしかない状況で出て行く人たちがいるのです。

 中学生というのは、指導の難しい年令です。竹の会で、勉強しないということが、退塾につながるというのはそういうことです。勉強しなくなった人間の更生は塾の仕事ではない。だからこそわたしは、1日5時間とか、7時間の勉強というものを中学生、いや小学生にも望んでいますが、仮に、中学生が1日5時間以上という勉強をしたということもなく、必然的かもしれませんが、成績が落ちてくれば、それはもちろん竹の会にクレームを言うという前に退塾するほかないとわたしは思っております。つまり、成績が下がるというのは、必然竹の会では、勉強していないことの証しとして、退塾するほかない、と考えています。竹の会というのは、特に、中学生については、勉強しない中学生は来てはならない、来るところではない、という暗黙の前提がある、少なくともわたしには当然の前提です。

 中学生というのは、勉強することが前提です。部活が忙しくて勉強の時間がとれない、それで成績が落ちた、というのは、それは勝手ですが、竹の会においては、勉強しない、それだけで十分です。正直に言います。わたしは、勉強を蔑ろにする中学生を好きではありません。また、礼儀を心得ない中学生も、賢さの裏返しとして、わたしの指導対象にはありません。幸いにして、現在のところ、そういう中学生は今の竹の会には皆無です。

 日々の生活において、勉強しないということが次第に心を蝕んでいくということは間違いありません。中学生が壁に突き当たったように悩み、人生そのものを、生きることそれ自身を疑う、そういう心の葛藤の中に自らを置くということは、決していい結果を生まない。まずそういう生徒というのが、勉強ということをしない、勉強を躊躇する人たちであった、ということが、わたしにはわかっています。勉強したくない、出発点はそこだったように思います。そこで先送りする、回避するというようなことを日常的にやるようになる。この勉強しないという日常が、しだに心を蝕んでいくようになる。後でやろうとか、今すぐやらないという習慣が、次第に心を蝕む。「やらない」という選択は、負の選択です。部活なんかで勉強やらないという人の場合は、そういう選択を正当化することで、心の負担を軽くしようとしているだけです。これにバカ親が公認してバカに拍車をかけるわけです。部活だから勉強は先送り、今食べているから後でやる、今日は親戚の集まりだから勉強は先送りする、お盆休みだから、家族と旅行するから、・・・こうして負の選択は次第に重さを増していく。勉強を選択の対象とする限り、先送りは必然で、いつか心は折れてしまう。

 勉強というのは、選択の対象にしてはならない。まずすでに当然のこととして習慣化していなければならない。それが心の負担を積み上げていくことから逃れる唯一の方法である。

◎高校の数学の記憶

 わたしは、九州の大分県の県立高校出身です。当時、わたしの通う高校は、大分県の御三家として有名な進学校でした。高校に合格すると、すぐに膨大な宿題が課され、入学後すぐにテストがありました。右も左もわからずに右往左往していたわたしがいました。高校で始まった授業はすべてがわたしにはカルチャーショックでした。物理だ、化学だ、日本史だと、とにかく教科書がわたしにはとても厚くてもう押し潰されそうでした。英語はいきなり厚い参考書を渡され、勝手にやれ、ということでしたが、毎週土曜にはテストがありました。日々蓄積される未知の単語は膨大でわたしは途方に暮れていました。特に、数学は、難関でした。数学Ⅰでしたが、毎回の授業で大量のブリントが出されました。毎回の授業は、教科書なんかやらない、プリントの問題が出席番号順に割り当てられて、授業が始まる前に解答を黒板に書いておかなければならない。授業はもうひたすら黒板の解答を写すだけ、考える暇などない。誤記のためわからないとか、黒板の字が読みとれないとか、もうやる気も失せることばかりであった。風邪引いて休めば、休んでいる間に配られた、化学や物理、数学、英語のプリントはほとんど手に入らなかった。わざわざ休んだ人間のためにプリントをもらっておいてやるなどというヤツはひとりもいなかった。他人ができないということを喜ぶ連中ばかりだった。これが進学校なんです。

 数学にしても、わからないときどうするか。先生に質問するなどというのはほとんど不可能であった。わからないところがあまりにも多すぎてそんなものでは間に合わないのだ。わたしは無知だった。東大や京大を受けるヤツはみな参考書を揃えていたということを全く悟らずに、教科書と授業だけでやろうとしていたことが、すべての無知を物語っていた。学年1番で東大に行ったヤツ、そいつの部屋には、ありとあらゆる参考書が並んでいた。当時主流だったチャート式数学がそろっていた。わたしはあまりにも無知すぎた。中学では教科書だけで1番がとれたけど、高校というのは、そういうものではないということに気がつくのがあまりにも遅かった。母に参考書を買う、ということがなかなか言い出せなかった。勉強ができるようになる、というのは、カネのかかる話しであった。

 わたしは、結局、高校時代に、高校で授業で何かを学んだという記憶がない。すべて参考書を読んで独学したのだ。数学も結局参考書で理解することができた。当時から数研出版の問題集は使われていたけれど、わたしは、そういう問題集も夢中でやったけど、数学にしても、英語にしても、すべて独学で苦しみながら、理解していった。赤尾の豆単で10000語の単語を覚えたのは、旧帝大ではそれだけの単語が必要だと何かで読んだからかもしれないが、とにかくわたしは勉強、勉学にいつも苦しみながら日夜取り組んできた。今、わたしが塾をやり、子どもたちを指導している、その根底には、いつも勉強から逃げないで、苦しい中で必死になんとか理解しようともがいてきた時代の思いが流れていると思っている。

 私は苦しみながらも勉強だけは捨てないで、いつも正面から果敢に挑んできた。今、子どもたちにわたしが問いかける思いはそのときの思いと変わらない。わたしは苦しんでいる自分の姿を子どもたちの「わからない」に重ねてみているのかもしれない。だから心底、心からなんとかしてやろう、してあげたいと、わたしの苦しい姿に重ねて、慈愛に満ちた思いで手を差し伸べるのかもしれない。

 

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