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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館/思考力をつけるには

2016.11.11

 本日は生憎の雨模様ですが、午後には止む予報です。これからは一雨ごとに寒くなっていきます。風邪の季節ですね。というか。インフルエンザで学級閉鎖の報告も受けております。教室では手洗いとできればマスクはしていたほうが無難かもしれません。わたしは突然の子どもたちの発熱というのは何度となく経験してきましたので、元気そうに見える子どもたちと接して指導するときでも、常にマスクをしています。去年はたまたまマスクを外したときにインフルエンザに感染してしまい随分と後悔したものです。

 さて、この数年のうちに竹の会での小学生の初期指導の体系が定型化し、確立してきたことはみなさまも知ってのとおりです。子どもたちがいずれ入るであろう思考訓練過程の前段階としての指導をどう構成するかは長く悩んできたところでありました。実験の初期は、平成24年の12月に二人の小3が現在の「入会試験Ⅹ」にあたる試験を受けまして、ともに3問中2問正解で合格とし、翌25年の2月から指導開始しましたが、このときとったのが、まず計算からマスターしていき、割合の導入をはかるという手順でした。最近では、この導入段階について、さまざまな理解を助ける補助レジュメの発行も進み、子どもたちは効率よく次のステップへと進めることができるようになりました。

 計算では、まず余りのある小数の割り算をマスターさせる、ことにこだわる。余りのルールは、抽象的な理解の第一歩である。暫くやらない子だとすぐ余りの小数点の取り方を誤る。次に、分数に進める。分数というのは、抽象的ルールの宝庫だ。もちろん形式的な処理技術であるのは否めない。かつては、市販のドリルを使っていたけれど、今では、かなり効率的な分数マスターのレジュメが完成している。ここで一気に分数をマスターさせて、つまり、計算の型を反復させて、一気に中学受験難関レベルの計算までマスターさせてします。ただし、残しておいた逆算のマスターがひとつの壁として控えています。逆算についても今ではガイドレジュメが完成しているけれど、実は、この逆算で手間取る子というのは、受検には適しないし、将来的に伸びる可能性も消極的認識である。

 逆算をマスターし、難度の高い四則混合演算を難なく処理することができるようになれば、いよいよ竹の会思考訓練の核、割合概念の勉強に入ります。小4の8月前後の入会であれば、この基本訓練過程にたっぷり小5の1年間を費やすことができます。割合と言いながら、面積図、流水算、縮尺などのありとあらゆる算数の思考を学びます。割合指導開始とともに、かつては様々な課題レジュメを課していたのですけれど、最近では、入会した途端に、数種類の課題レジュメを出しています。課題レジュメは、6か月もすれば、さらに種類が増えていきます。竹の会では、課題レジュメの答案については、できるだけA4の原稿用紙を使うように指導しております。理由は、まず、字をきれいに書く練習です。それから、字数感覚を身につけることがあります。原稿用紙の書き方で注意点ですが、書いた字からマス目を取り払った場合をイメージして、違和感がないことです。マス目の中に点のように小さい字を書くのはアウトです。それでは、マス目の意味がありません。またマス目をはみ出るのは反則です。マス目の中にていねいに書いてください。書き殴りは、失格です。止めがない、ハネがないなど、読む人の目を意識しない書き方は、適性なしです。

 さて、それでは、思考とは何か、です。子どもたちの作文を見ていると、抽象的に表現する、抽象的にまとめる、といった思考の流れが、皆無であることがわかります。というか、まず、具体と抽象ということを意識していないように思います。思考というのは、純粋な思考というのは、究極的には、抽象的な言葉をつなぐ、意味でつなぐことです。このとき意味というのは、論理の規則にしたがって、流れるように、つながっていなければなりません。「しかし」という接続詞は、この流れる意味のつなぎに、検証を夾むものです。一般に、この検証性のゆえに、「しかし」の後には、筆者の主張がくる、とされています。「しかし」のたびに、筆者の主張が繰り返される、と言っていいでしょう。思考という精神作用において、抽象的な言葉のつなぎによって、主張を完結させること、これが最終目標なわけです。

 ところが、子どもたちにはそういう意識というものが全くないけです。アトランダムに思いつくままに、書いていく、それが子どもたちの段落分けです。時系列ならまだいいほうで、これを無視して、同じことを何度も何度も連呼する子がいますけど、これは、自分で何をしているのか、わかっていないということです。具体的な記述というのは、時系列に馴染むけど、それは、抽象的記述ではない、ということです。抽象的記述のガイドラインは、論理というものです。論理とは、前後矛盾なく意味がつながっているということです。そこで文章を書く、思考をするというのは、常に、この意味を矛盾なくつなぐということになります。だから、意味が流れるというのは、「したがって」という接続語に文が、意味が、導かれていることです。

 わたしは、このところ子どもたちに抽象的ということをどのようにして植えつけていくか、ということを考えてまいりました。割合を通して、抽象的なものとの格闘は日々してきたわけですけれど、「わからない」とあきらめる子どもたちの戦闘放棄には少なからず失望しております。昨日は、あるアイデアをレジュメに仕上げました。そしたら、今朝また、次のアイデアが閃きました。すぐに忘れるので、家のデスクにはこだわりのメモ用紙が常に常備されています。実験ですから、早速小5に試すつもりです。抽象と具体の綾というものについては、現在、「読解の素」シリーズを執筆しております。朝日の天声人語質問集というものが、ありますけど、これは、小5はもちろん小6でさえもほとんど解答できない。子どもたちの社会性の低さが原因です。社会に目を向けていない。新聞を読まない子が、増えたのは、新聞を読まない家庭が増えたこともあるのでしょう。ただ小学生には、朝日子ども新聞なんかも出ていますから、そういうものを読むくせをつけるのがいいに決まっています。

 ◎世の中には、常識では測れない、モンスター、独善人間がいるということ

  サイコパスというのが、現代の動機なし重罪犯罪の説明として使われるようになって久しい。刑法学では、確信犯という概念があって、政治犯の動機を説明するのに使われてきた。内乱罪は刑法では重罪とされているが、政府の転覆を目的とする犯罪者は、いわゆる自然刑法の道徳的規範という範疇ではくくれないわけである。正義というのは、時の権力の正義だけではないからである。動機というものが確信的である。これをいかなる法で罰するかは、少なくとも近代刑法の責任論を根拠にする刑罰では、理論的に破綻する。そこで故牧野博士が唱えた「危険性」を根拠に罰する刑罰論が古くからあったわけである。責任を問うという刑罰が機能しない犯罪の増加が、現代においては顕著であり、あらためて性格の危険性を根拠に据える牧野理論が先見の明があったものとして興味をひく。わたしは、学生時代、元最高裁判事、元東大教授の団藤重光博士の「刑法綱要」に詳しい「人格責任論」を勉強してきた人間である。当時、団藤博士の「綱要」には、頻繁に牧野刑法批判が出てきたが、わたしは牧野刑法を軽く一蹴して、文献を読むこともしなかったことを今にして悔やんでいる。牧野刑法が手に入るか、アマゾンで検索してみよう。

 さて、サイコパスとはいかないまでも、現代人というのは、このストレス、学歴社会の中で、病んでいる人たちの一群がここかしこにいてもおかしくはない現状である。最近読んだ本に「モンスターマザー」を扱ったノンフィクションがあったけれど、世の中には、生まれながらにして、偏見で凝り固まった、そして執拗に他人攻撃をして、社会的に存在しない自分の虚像を必死に存在するかのように装う人間がいる。こういう輩をモンスターと呼ぶなら、できれば、こういう類いには関わらないことに越したことはない。「独善」という言葉を人に面と向かって言う人間がいるけれど、こういう言葉は決して人に向かって投げつける言葉ではない。少なくともそういう言葉を吐く人間が建設的な対話をする意図があるとは思えない。人というのは、完全無欠な人間などいるはずはないのであるが、他人の独善を攻撃するというのは、他人には完全無欠を求めるものである。自己が完全無欠とでも思っているのか。人間というのは矛盾に満ちたものである。だから悩む。それだからこそ成長もする。

 まず世の中には最初から人を騙す目的で接してくる犯罪者サイコパスがいるということである。オレオレ詐欺、○○商法など世の中には詐欺的犯罪者が蔓延している。程度の差こそあれ、犯罪ギリギリの線で人を騙してくるわけである。株式会社というのは、今では資本金1円で作れるから、○○株式会社の名刺を見せられても、その名刺が本物かどうか、ということもあるが、泡沫会社の可能性を疑うのが筋であろう。宗教だって突き詰めれば怪しいものである。いや政治も信用ならないことではひけをとらない。大銀行が不正をやるわけであるから、世の中何を信じていいのかわからなくなる。もともと正義などというものは建前であり、核の抜けた人たちが、しでかすことにどれほど信がおけるか、ということであった。

 わたしが大手塾に批判的なのはすでに読者のみなさんには周知のことではありましょうが、大手塾にいた、という親子が竹の会を訪ねてくるようになりまして、竹の会では例によって、実力を診る、ということをやるわけです。そういうことを通して、わたしは大手塾、いや中には地元の弱小塾にいたという人もいますけど、とにかく巷の塾というものに、常々、大いなる疑問を抱いてきた、懐疑的な見解を持ってきた、ということであります。いや塾に行かなかった、行っていないという小学生、特に、小6についても、また別の意味で、すなわち訓練されていない、ということで将来を棒に振っている、そういう意味でやはり批判的に見てきたということです。こういう親たちは、将来自分の子が、中学で落ちこぼれ、まともな都立高校にも行けずに、たいていは低偏差値の、中途退学率の高い、私立高校に、単願推薦、つまり事実上の無試験で入り、そのまま大学へ行くこともなく、中には、専門学校へ行くという人もいるであろうが、多くは、そのまま社会に出て行くことになる、そういう人生を別に普通に受け止めている、そういう人たちなのであろうか、と思うのです。いや昨今では、日大系列校でさえも、少子化による定員維持さえ難しい現状で、特進クラス作戦などはどこの私立も生き残りをかけてやっているけど、かなりの質の低下は否めないのが真実です。私立高校でまともなところは、進学校、早慶系列校、せいぜい六大学系列まででしょ。国学院久我山には、行きたくない、新宿、駒場なら行きたい、それがほんとうのところでしょ。

 竹の会は、「渋谷の駅近くにある、ほんとうにいい塾」という評判が、23区のみなさんに知れ渡ることを願ってきました。竹の会が自ら「いい塾」と宣伝しても、まず無視されてきたという経緯がありますけれど、わたしの目にはどれだけまともな親というものがいるのか、というところからまず疑っていますけれど、大手に行っているからと、後は一切を無視して、胡散臭いものでも見るように、まるで押し売りから逃げるように背中を見せて走り去った父親、母親の姿がいつまでも映像として残って消えませんでした。わたしはこういう親たちを決して相手にしたくないし、近寄りたくもないと思っています。そういう親たちが大手で失敗し、どういう人生を歩むことになるのかなど知ったことではなく興味もありません。竹の会の本当かしらと思うような宣伝にも、真摯に耳を傾けて、「草枕」なりを読んでくださる、良識ある親御さんが必ずいると信じているから、わたしは時間を割いて、このブログを書いているのです。迷惑なのは、「草枕」を隅から隅まで、毎日のように読む人の中には、竹の会に敵意、悪意を持っている人もいるということです。これはわたしの常識からは理解できないことです。竹の会の主張に賛同できないのなら、わざわざ読むという行為をするなどあるのだろうか、関係ないのであるから、ブログに毎日アクセスすることもない、と思うのですが、そうではないようです。わたしには、こういう人の心というものがさっぱりわからない。嫌なら無視するか、近づきもしないでしょ。

 「草枕」は、23区の「良識」ある親御さんを意識して書いております。「草枕」を独善的だなど批判する人は、読む必要はないし、読んでほしくもありません。わたしの主張が気に入らないのなら、読まなければそれで終わりでしょ。それ以上に関わる意味がわかりません。読む、読まないは自由であり、気に入らないなら読まないだけのことでしょ。

 23区の良識ある、バランス感覚のある、親御さんがいると想定して、わたしは訴えているのです。大切なお子さんの将来を心配する親御さんの心情に、「草枕」を通じて、わたしは、わたしの持論を主張しているのです。独善イコール害悪ではありません。人間の個性というのは、程度の差はあれ、価値観という名の独善性を享有しているものなのです。だからこそわたしは読書をする、人の何倍も読む、そして偏らず様々な分野の知見に耳を傾ける、そう心がけてきました。考えてみれば、古典を引用するときに、清少納言先生は、こう言った、などとは言わないし、たとえ福沢諭吉を尊敬していても、慶應出身者でないかぎり、福沢先生などとは言わないでしょ。そのだれそれがこう言ったと引用するバカがいますけど、それは自分の主張なのでしょうか。それとも虎の威を借りた、ただの権威主義バカの戯言なのでしょうか。東大で丸山眞男の講義でも受けていれば、丸山先生と言うかもしれないけれど、まさかフルネームで先生とは言わないでしょ、わたしは、丸山眞男の著作はよく読んだけれども、だからといって丸山眞男としか言わない。いやわたしは大学で商法学の蓮井教授のゼミにいたけれど、蓮井教授を尊敬もしたけれど、学生同士では「蓮井さん」としか言わなかった。先生というのは、面と向かいあったとき以外はなかった。蓮井教授は、商法「会社法」の試験で、「A」をくれたので、ずっといい先生だとは思ってきたけれど。

 わたしは23区の良識ある、「草枕」の読者である、親御さんに、竹の会という塾についての、ありようを訴え続けているのです。東京の渋谷駅そばにこんなにいい塾があるんだよ、と23区のお母さんやお父さんの噂に上って、竹の会が評判になる、それだけで満足です。今は、わたしの体力的なこともあり、来年2月の募集はあきらめたけれど、それでも23区の親御さんには竹の会のことを伝えていきたい、そう思っています。「草枕」を書くのは、わたしにはかなりの負担です。今は仕事に追われて実は「草枕」を書く時間もありません。また「草枕」を書くと血圧が頗る上がります。いつこの「草枕」が終わってもおかしくない、そんな思いをずっと持っています。

 とにかく「草枕」を愛読してくださった、好意ある読者の皆様には、深く感謝するとともに、もし書けなくなったら、ごめんなさい、と予め言っておきたいと思います。

 

 

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