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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川の魅力/現象で流動するB層/思い込みと後知恵社会/小学低学年の指導を極める/自分塾に酔う母親

2016.05.13

 おはようございます。昨日、今日と清々しい空気と青空に恵まれ貴重な季節の幸運に心も和むばかりです。本日は、渋谷Bの指導日となっております。渋谷Bにつきましては、18時~20時を基本としながらも、17時~19時も可能とする処置をとっております。ただし、月によっては月・金が8回とれないこともあり、その場合は、月・金の開始時間を17時とし、17時~20時で実施することもあることをご承知おきください。

 現在渋谷Bについては、そのありかたを思案中でありまして、今後どのような指導コースとして固有の存在意義を見つけていくか、悩むところです。

 まず、確定したパターンとしては、部活で渋谷Aに出れない中学生を対象とします。ただし、この場合は条件が厳しく成績が維持できないと判断した時点で即退塾とするお約束になっております。成績については、学年1番、2番ないしは9科目中「5」が5個以上を見ています。このパターンの場合、入会試験A合格が必要です。

 次に、渋谷Aの入室試験に落ちたケースにつき、小4ないし小5の早期までの小学生につき、特に、将来の高校受験を視野に入れた基本訓練を施すという目的で特に入会を認めることとします。この場合は、人物審査を重視します。

 現在、渋谷Bについては、さらに、小学3年、4年を対象にして、早期指導プログラムを開発中で、今後、将来渋谷A生(小5標準)に移行を前提に、低学年時(3年生前後)のみの指導をBにてできる指導プラン及びレジュメ教材を開発しております。このパターンについては、新入会試験完成までは、「入会試験Ⅰ」の前半3問を基準に合否判定することになります。

 小学低学年の親御さまでご関心のおありの方は是非お問い合わせフォームからお問い合わせしてくださることを願っております。

 渋谷Bについては、最大定数10名までと考えております。

 お願い 竹の会では、トイレの使用につきましては、男子でも座って使用することを義務づけております。ご協力ください。

 ◎最低でも戸山

 竹の会の中学生指導は、小学時の入会試験A合格者を念頭においた仕様になっています。つまり、竹の会レベルの算数上級者を想定しております。したがって、数学は竹の会のレジュメシステムについてこれることが当然想定されています。都立戸山を基準に将来の高校受験の成否を考えた場合、当然そうなります。数学ができない生徒は戸山は無理ということです。いやもっと独自問題出題校は無理ということです。ですから、新宿なども含まれます。ただし、その他の科目が突出していれば、共通問題校である駒場、小山台、文京は可能圏内にあると思います。ですから数学が不得意な生徒は英語、国語に力を入れることです。

 竹の会の高校受験指導は、普通にわたしのレジュメをこなしていけば当然のように都立戸山に合格できる実力をつけていることでしょう。高校受験では竹の会は無類の強さを発揮する、最強塾と自覚しております。わたしの指導技術は、大手を凌ぐものと認識しております。というか、こと都立に関しては、私立難関を想定したカリキュラムの進学塾型の大手には指導は無理なのではないか、と考えます。ただし、天才が集まるZ会は別です。わたしはZ会を評価しております。ただ今のように教室数を増やしてけばいずれバカ生徒で埋まる可能性もあり、そうなると他の大手と同じ運命をたどる可能性が大きいとみています。

 ◎小学低学年の指導を極める

 これまで竹の会では、小3の指導を想定した指導カリキュラムを作成してきませんでした。竹の会では、もっとも早くて小3の2月を指導開始学年としてきました。しかし、小2についてさえもかつて類い稀なる集中力のある児童を見たことがありました。何時間でも机について言われたことを集中してやれる児童です。反面片時もじっとしておれない、常に動き回っている小3というものも数多く見てきました。そのために指導開始年齢については、小4を想定することが多くなったと思います。

 話しは余談になりますが、机について10分も集中がもたないという小5や小6もいまして、なぜか竹の会にもそういう小学生が紛れ込んだことがありました。入会試験でA合格がとれない、準合格という子につきたまこういう子が紛れ込みますが、これだけは入会試験では峻別できない。それで動き回るということはさすがにないのですが、とにかく机につけない、ということがわたしにはストレスでした。

 小2、小3でも集中できる子であれば、指導可能とみています。そういうことはお母さまたちがいちばんわかっていることであり、自分の子の集中力が秀でていると判断された場合に限り、竹の会の指導を申し出られるようにお願い申し上げます。わたしは実は小2のときに竹の会に見学にきた女の子が試しに計算をやらせたらもう1時間やってもなかかなやめたがらない、そういうすごい子に出会ったことがあります。その子は小3の2月になって早速やってきました。ただ次第にわかってきたことですが、国語の力に秀でてはいたけれど算数の才に恵まれなかった。白鷗を受けたけれど補欠でダメだった。ただ今の竹の会の指導なら合格させられたと悔やんでおります。それだけ今の竹の会ではたとえできない子であっても合格させられるだけの技術が整ってきたということです。

 わたしは小4の指導ということでは、特に、例外とすることなく、計算力をつけること、から進めてまいりました。23年に小石川に合格した男子は、小4の8月からでしたが、入るとすぐに通分をマスターさせるところから始めましたし、26年に都立駒場高校に合格した女子生徒は小4の5月入会でしたが、やはり計算からでした。今年九段に合格した女子は小3の2月入会でした。最初は3時間ほどで帰ってしまうほど幼かったのですが、6か月ほどで集中がもつようになりました。彼女についても、小数、分数と教えていき、2か月ほどでかなりのものになりました。割合については最初はなかなか理解が追いつかずに苦労しましたが、とにかく何度も解き直しを重ねる中から次第に開眼していったように思います。こうして計算からというのは竹の会が割合をマスターさせる前段階としての前提指導であったわけですが、これまで小数についても、分数についても、まず計算からということで、あまり理論的なことについては重視してこなかったわけです。ただ最低、定義だけはしっかりと教え込んではいました。しかし、小数ひとつをとっても教えれば教えるほどに奥が深いものです。最近、小4が入会してきました。入会試験のときに、できなかった問題がありまして、1.5Lの半分が0.75Lだということがわからなかった。「まだ習ってません」と言った。そのことがわたしの頭にずっとあったわけです。それで今度指導することになったということで、小数について書いてみよう、と思ったわけです。1.5の半分が0.75だということをなんとかわかるように説いてみなければならないと思ったわけです。それで「小数入門」というレジュメを書き下ろした。それで考えながら書くのですけれども書けば書くほどなかなかに難しいと思うようになったわけです。

 たまたま最近国語指導のためのレジュメを書くためにいろいろと本を買ってきては読んでいたわけですが、その中でけっこうにためになる話しというのも見つけたりして、わたしの中でいろいろと構想ができあがっていくのがわかりました。そういう中から小学低学年指導についてもっとも問題となる壁というか、問題を自分なりに得心して、さてこれから具体化していくというところまできたわけです。ここでその内容の詳細を語ることはわたしのノウハウを公開することになるわけでそれはできないことです。少なくともわたしはわたしの技術を竹の会という塾で使うことによって飯を食っているからです。

 ヒントはといえば、「抽象」というのがキーワードになるということでしょうか。

 ◎思い込みと後知恵社会

 今日書こうと思ったテーマをまず表題に書き並べるのですが、なかなか全部に回らないこともあります。今日は教室に行く前に一度渋谷で用足しを予定していまして、そうゆっくりもしておれません。さて書き切れるかどうか。

 わたしは時々いろいろなお母さまが多いのですが、まあ時には父親のみなさんからもメールをもらい長文で語られることがあります。まあ長文を書かれる方というのは、いろいろ言い訳をされる方も中にはいるわけです。書けば書くほど言い訳になるものですが当の本人には弁証しているつもりでしょうからまったくその自覚はないわけです。

 特に、母親に多い、これはもう思考の癖だと思うのですけれど、世の母親というのが、思い込みに固執する、その頑迷さにはとても太刀打ちできない、と思うのです。それは、子どもに関してですが、もう長年持ち続けてきた姿勢というか、その母親の人生哲学の根幹にかかわる姿勢というところまで考えなければならないと思うのですが、そういう姿勢を「変える」ということに、想像を絶する抵抗をするわけです。

 いやこれはもう、その客観的に見ても、あきらかに、圧倒的な反証を前にしても、そういう母親というのは、自分の姿勢というものを変えることはない、ということです。

 わたしは、人間というのは、「不合理なバイアス」というものが、思考を支配し、凝り固まっていくようにできているのではないかと思っていますが、母親たちが凝り固まっていく過程というのは、決して深い考察を通じてなんかではない、思い込みで選択したバイアスなんです。

 それから人間というのはまた実に都合のいい生物で、自分のそうしたバイアスから招いたであろう失敗というものをいつも後知恵で合理化するわけです。後知恵の不合理な点は、実際に起きた結果以外はもともと起こり得なかったのだという自信にまで高められることです。

 テレビや新聞が事件の後で解説するのは、後知恵の論理ばかりです。重大な原発事故が起きるまでに重大な危機寸前の事故は何度もあった。それなのに人々は実際に起きた重大事故一歩手前で防いだ事故以外はもともと起こり得なかったのだという、根拠も何もない自信をもった。政府や東電幹部は少なくともそう考えた。これほど後知恵というものの意味のなさを教えた実例もない。

 母親たちが、父親たちが、自分の子どもの教育について、後知恵で合理化する、これが何をもたらすか。

 自分の教育方針に酔うのはいい。しかし、いくら子どもの将来について生殺与奪の権を独占するのは親とはいえ、思い込みの教育方針で子どもたちの未来の芽を摘み取るのは行き過ぎであろう。

 勉強ばかりが人生ではない、小学時代は、習い事、稽古事、スポーツを楽しみ、中学だって部活に燃焼させたい、そういう人生を選択する、そういう親たちがいる。しかし、勉強ばかりが人生ではない、というのは、少なくとも勉強を軽くみた、劣ったということを子どもに教育したことには間違いなく、自然と子どもにその意識が洗脳的に吹き込まれていく。勉強ということに常に居心地の悪さを子どもがもつように育てていることはわっかていないようだ。

 母親が自分塾のつもりなのだろうか、あれこれと熱心にカリキュラムなんかを組んで子どもを教育する。これは巷の塾などに批判的ということなのだろうか、それともコストパフォーマンスを考えてのことなのか。いずれにしても自分で教えられればそれがいちばんいいでしょ。

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