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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川への道/竹の会という機会、方法など/残念がらないでください

2016.09.29

 おはようございます。秋雨前線の停滞なのでしょうか、またこの蒸し暑さもいつまで続くのでしょうか。さすがに真夏並とは言いませんが、本物の秋の到来が待ち遠しいですね。子どもたちはこの季節の変わり目に熱を出す、これなんかも脱皮と同じ一皮剝ける成長、強くなる過程と考えたほうがいいのでしょうね。子どもの咳は侮れない。わたしには未体験の菌だったのでしょう、もらった菌が余程体に合わなかったのか、激しい咳で1か月以上も苦しめられたことがありました。これはヤバいという咳をしている、そういうときに「マスクをしないさい」と注意はするものの、やはり本人はいくら元気でも、ある意味密閉された空間である教室では、たちまち感染してしまう、だからそもそもそういうときは来てはならないのだと思う。以前中国の人がインフルエンザかもしれない、38度以上あるというのに、「お母さんに行きなさい」と言われたとやってきたことがありました。咳もかなりの頻度でする、これはまずいということで、ちょうど受検直前の1月だったので、小6の子たちを休ませました。中国の人というか、大陸系の人というのは、インフルエンザぐらいで医者なんか行かない、薬ものまない、自力で直す、そういうことらしい。なにかの本で、欧米の人はインフルエンザなんかでいちいち医者なんか行かない、みなゆっくりと体を休めて治すという話しを読んだことがあるが、まさか塾にやってくるとは、やはりお金を払っているのだから休めない、そういう意思の表れなのでしょうか。その子は結局すぐに元気になった。強いですね。日本の子だとこうはいかない。なにかと薬をのまされて治すから体そのものは弱い。

 昨日は指導日でした。実は、9月に入って、小5の子たちに、前倒しで本来、来年2月に始める、より高度な思考訓練を始めています。なんとか進められそうなのでこのまま進めていく予定です。対応力をみているとなぜか女子の方がよく理解しているなと実感しております。小学生の男子というのは、高学年でもなにか幼い、視野が狭い、日常的な身のまわりのことに一切関心がない、女子というのはその点いろいろと身のまわりの細かいことに気がついている、そういうところがあります。男の子というのはなにかボーッとしていて気づかない、気が回らない、そんな気がします。そういうところが日常的に問題を扱う適性問題への理解の差に出てくる。

 わたしの夢は竹の会という機会、方法をできるだけたくさんの人、東京23区にお住まいの、優等生のみなさんに知ってもらいたい、ということです。わたしがいう優等生というのは、決して天才ではない。学校の通知表で言えば、「よくできる」が8割ほどある子です。ですから内申がそこまでないなら竹の会とは縁がなかった、そういうことになります。最近内申がよくないけれどという親御さんが竹の会に関心をもたれるケースが多い。それでとにかく面談はするということになるのですが、入会試験はやはり落ちることが多いわけです。竹の会の入会試験は、学校で「よくできる」が8割ほどある子なら合格できるというデータが出ております。このレベルの子でも訓練しなければ結局ただの人で終わるのがほとんどでしょう。しかし、訓練すればそれはもうはっきりと変わる。どこまで伸びてゆくかわからないほどに伸びていく。竹の会で指導して伸びるためにはどうしても素材して必要な最低限度の知能というものがあります。「できる」しかない子というのは経験上指導困難です。伸びていくという見通しがもてないのです。もちろんある程度まではいくでしょう。しかしそのある程度が限界でそれ以上はない。知能というのは、持って生まれた知能というのは、それほどに決定的なのです。

 竹の会の機会、竹の会の方法というのは、一定の、最低限必要とされる知能を前提としています。それが学校で「よくできる」が8割です。が、今は少子化でその「よくできる」もかなりに怪しくなっている。小4でAA合格した子で「よくできる」がほとんど「ない」という子がいたけれど、「よくできる」が7、8割あっても指導に詰まるということもあるから、この基準は飽くまでも目安である。

 竹の会は「よくできる」が8割ある子を指導する、そういう契約を示しているわけです。ですからその成績がなければ予め無理ですということを言っている、そしてその成績があるなら入会試験を受けてください、ということをお願いしているわけです。竹の会の定番の「入会試験Ⅰ」ではこれまでの実績では、小4の7月、8月でA合格者が出ている、ですからこれが基準になります。少なくとも小石川や桜修館に合格する、そういう子を現実に出すには、そうなる。小4から訓練していかなければとてもではないが無理である、そうわたしは思っている。わたしはそのような逸材が竹の会にきてくれることを願っています。

 小4の2月というのは、譲歩してもここまでという意味です。早ければ早い方がいいに決まっています。男子と女子で言えば、男子というのはどうしても精神年齢が低い、幼い、それが勉強を進める上において当然障害になる。もちろんこれは一般的傾向で男子でも例えば22年桜修館合格の杉山太一君はすでに大人だった。一般的に男子というのは自分の周りで何が起きているのか、興味がないので、無知・無関心であり、狭い、幼い思考そのままである。全くといっていいほど日常的常識がない。竹の会でも小石川に合格した女子は、小5の3月、小5の9月とかなり指導開始時期が遅いが、それでもなんとか間に合っているのは女子の精神年齢に負うところが大きいのではないか。

 竹の会という方法は、指導困難、それが知能ということに由来するものであれば本質的な指導困難であり、怠惰という理由であればこれも解決不能の事態であることは同じであり、いずれにしても契約の履行は不能です。当然契約は解除するほかない。怠惰というのは、普通に「怠ける」というだけでなく、稽古事、習い事、スポーツ、・・なんでも勉強を「しない」すべてです。わたしは契約解除ということにそんなに過敏に反応してほしくない。竹の会が想定する指導が困難である場合、指導は無理です、ということは通常あることで、他塾のように、そういう状態をそのままに放置して塾に通わせる、というのはやるべきではない、そういう判断です。ですからそういう判断をすることになれば、それは竹の会という方法が機能しないからしかたない、と理解してほしいのです。

 そういうわけで竹の会で現在指導を受けておられるみなさんもそういう意識は不断にもってほしい、と思います。勉強しない、しなくなる、ということは、竹の会から離脱することであるという意識をしっかりと自覚してほしいと思います。

 竹の会では、まだ大手に毒されていない、素直な、「よくできる」が8割以上ある小学4年生との出会いを願ってきました。竹の会のような小塾ではこれといった広告方法もなく、もっぱらネット検索で竹の会を偶然に知るというのがいちばん多いと認識しております。最近では竹の会の親御さんにも竹の会を周りのみなさんに広めてくれる方も出てきまして、感謝しております。これまで竹の会に子どもさんを通わせる親御さんもお子さんもなぜか竹の会に通っていることをひたすら隠くす傾向がありまして、もう二十年以上も前のことですが、ある中学生は、「みんなバカだよ、近くにこんないい塾があるのにだれも気がつかない。ぼくは絶対に竹の会ことを友だちには教えない」と言ったことがありました。わたしは苦笑するしかなかったのですけれどこれはその後の竹の会のことを秘密にしたがる親子に共通した意識なのでしょうか。それともなにかほかに理由があるのでしょうか。あるお母さんはママ友から「どこの塾に言っているの」と訊かれて「渋谷のある塾よ」と言ってそれ以上は決して言わなかったということですが、つまり竹の会を隠したがるわけです。どうも竹の会が広まっていかない理由がこのへんのところにある、さてどうしたものかと思案してきたものですが、先ほども言いましたように、最近積極的に竹の会を宣伝してくださるお母さまも出てきましてとても喜んでいる次第です。

 わたしとしては竹の会という方法、機会が東京23区のみなさんに広まることが夢です。学校で「よくできる」が8割あれば「竹の会へ行く、竹の会へ行ける」、そういうふうになればいいと願っております。

 ◎寄らば大樹の陰/大船に乗った気持ち

 多くの人の判断、選択決定の主たる決め手は、「みんながやっているから」と言うものではないでしょうか。「みんなが大手に行く」から大手に行く、ただそれだけなのでしょう。災害でも「みんなが逃げている方へ殺到する」のが大衆です。映画館の火災では「みんなが入り口に殺到」して死者を多数出す人災は過去繰り返されております。人というのは、本能的に「大きい方が安全、安心」と思うところがある。

 しかし、わたしたちの経験は必ずしもそのような基準が正しい選択、結果を導くものではないということを教えています。そもそも大衆というものには知というものがありません。大衆は愚かであり、無知を本質とします。「みんな」志向は大衆になり下がることです。食べ物屋なんかに行列している「みんな」は「なるほど」もあるけれど、外れもある。しかし、塾はそれと同列には語れない。はずれは我が子をもはや取り返しのつかないバカにしてしまうからだ。我が子が生来知能が高いとか、天才でないかぎり、という条件付きではあるけれど、学校の「よくできる」が8割以上ある優等生でも危ない。伸び悩んで壁に突き当たるのは必至である。わたしに言わせれば、塾は百害あって一利なし、である。大手塾には特有の害があり、地元の中小塾も例外ではない。竹の会という方法は既存の、既製の塾というものを否定する方法である。講師とテキストと授業、この三種の神器を後生大事にして子どもたちに「教える」という方法が百害と言っている。与えられる情報、知識を凌駕する能力、知能を持つ天才のみが自らの主体的能力で、知識をコントロールできる。既存の塾の害はいくらでもある。ほんとうに百ある。そのひとつが「考えないバカ」を造ること。実は、「教える」というのは、裏を返せば「考えない」、ということである。竹の会で指導するというとき、「わからない」と言って持ってくる、いつも説明聞いて「わかりました」という子ほど力がついていかない。次に、未知の問題に出会うとまた「わからない」。ここが難しい。ほんとうに知能が足りないために「わからない」というのならここまでである。すぐにあきらめて考えようとない、説明を受けることに慣れてしまった、これは本人が超える壁である。他からどうするものでもない。ここで「教える」などという勘違いした講師がいるけれど、ここは見極めどころなのである。もしかしたらほんとうに能力の限界かもしれない。もしそうなら竹の会の想定する指導のできないケースのひとつとなる。

 竹の会という方法は、子どもひとりひとりといつも向き合ってその知能の限界を品定めしている。どこまで理解しているのか、できるのか、その限界をぎりぎりまで見切ろうとしている。わたしは一枚のレジュメを試薬のように使う、その知能の反応を見定めて、理解のレベルを判定する。だから「この子はだめだ」という判断はある。レジュメの一枚、一枚が子どもの知能の段階を測定してしまう。この子は無理だ、という判断が出てしまう。竹の会の指導というのはほんとうに疲れる仕事である。わたしは子どもの示す反応の一端、一片から多くのことを知ることができる。脳の中の状況を描くことができる。

 

 

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