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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川一直線/指導とは子どもに段階的な目標を与えて理解のステージを上げていく技術

2017.01.01

 2017年のお正月も去年と変わらぬ光景でした。心なしか人々はなにかのんびりとした風にも見えました。ただ金王八幡宮は今年は振る舞いのお汁粉が有料となり200円徴収していました。なかなか世知辛いことです。渋谷氏が金王八幡の開祖とされていますが、渋谷という地名もここからきているのでしょうか。

 わたしは大分県の別府市で小学、中学、高校時代を過ごしました。もっとも正確には父親の転勤で中1の4月から中2の7月まで宮崎県の延岡市の中学に転校しています。別府市は休火山とされる鶴見岳が見下ろす丘陵地です。山から傾斜するように斜面が海まで広がり、海と山に囲まれた、市内の至る所から温泉が湧いている、温泉の町です。わたしの子ども時代は、毎日近くにあちこちある温泉に行ったものです。たいていはどこかの温泉と月極で契約して、1人100円とか払うわけです。月に100円です。子どもは50円だったかも。温泉ですから一日に何度入ってもかまいません。ただ台風なんか来ると、温泉の湯が少なく、そこに何人も入るものだからかなり不衛生だったと思います。温泉はみな湯質が違い、肌を刺さないまろやかな湯もありました。市街から車で20分ほど山に登れば、白濁の温泉がありました。山の湯も市営なんですが、湯代はただです。わたしの家ではよく明礬(みょうばん)温泉に行きました。明礬温泉は2つの湯があり、より高い位置にある方は重症の皮膚病の人ばかりで恐くて入るのに勇気がいりました。

 わたしが子どもの頃通った温泉は、家からどれも5分ほどで、青山温泉、九日天温泉、真光寺温泉、白湯、・・・、もっといろいろあったけど忘れてしまいました。別府は大分県では2番目に大きい市です。一番はもちろん県庁所在地の大分市です。別府-大分間は、別大国道で12kmほどでしょうか。高校の頃まで市街電車が走っておりました。併行して日豊本線が走っておりました。別府の特色はと言えば、とにかく旅館とホテルが多いということでしょうか。要するに、観光都市だったわけです。今は、別府からバスで40分ほど内陸に入った、湯布院温泉の方が有名みたいですね。山並みハイウェイを通って湯布院に行く途中に志高湖や城島高原があります。志高湖は火山湖ですが、4月にはよく蕨狩りに行ったものです。山道を歩いて行くと1時間ほどで頂上に着く、そこから一気に緑が広がり清々しい風が吹く中を一気に湖まで駆け下りたものです。わたしが過ごした子ども時代の別府は、海と山に囲まれた、美しい都市でした。市内を流れる川は二つあり、朝見川と境川。いずれも小さな川です。市街から離れたところに鉄輪地区、亀川地区とあり、鉄輪地区は鉄輪温泉として湯治場で有名です。高校の頃は、市内の至る所から生徒が来ていましたね。

 別府のお正月は、朝見神社に行きます。朝見神社は家から10分ほどです。とにかく田舎は狭いので、近くでたいていはまとまってしまいます。母が生きていた頃は年に2回も帰っていたこともありました。わたしには、別府というところは母がいて初めて懐かしい故郷だったのです。母が他界してもう別府に帰ることもなくなりました。もう10年になりますか。考えてみれば、竹の会は、母と共に歩んできたのだと思います。「母さん、塾の名前は、竹の会にしたよ」と母に電話したときから、母はいつも塾の成功を祈り続けてくれました。毎年合格者が出るとすぐに母に報告しました。母はいつも喜んでくれてとても張り合いがありました。母が生きていた頃は、竹の会は母とともにありました。その母のいなくなった日からわたしはもはや故郷を思うこともなくなにかに耐えるように子どもたちの指導に没頭するようになりました。

 わたしの指導がまだ発展途上にあった時代の小学生のみなさんにはとても悪いことをしました。もっともほとんどいなかったとは思うのですが、ただ中学受験できた子たちはそれなりにいましたよね。もともとが高校受験の専門でしたから、わたしの指導水準が未完の時期にわたしの元にきた子たちには申し訳ないことをしました。ただ当時過去問合格法という伝統の指導法をとっていましたが、なぜか受験は成功しました。合格者がよく出る、ということで有名にはなりましたが、今のわたしの小学生の指導水準に比べるとかなり落ちると思います。

 小学生というのは、とにかく訓練しなければならない、そういう域まであの当時は到達していなかった。段階的に、到達すべき目標を設定して、ひたすらその目標に向けて訓練を重ねる、そういう精神が不徹底でした。今の指導技術、水準にまで達するには、まだまだ多くの研究が必要でした。指導するというのは、子どもたちに考えさせるということですが、それは説明するというとき、最高の説明水準の域に達していることが前提であって、考えさせるということが、闇雲にそうさせるということではなく、子どもの働かせるべき脳の具体的なイメージを想定して指示している、そこまで考えてやっている、ということです。

 いやひとつのことを説明するにしても、自分がありとあらゆる場面を想定して、説明に使う言葉を吟味して、その言葉のもたらす誤解の可能性も想定して、説明をしなければならない。説明は簡にして要を得ていること、簡潔で本質を突く説明こそ肝要とする。定義はいつも吟味して、子どもたちの脳に正確に組み込むことを意図する。図は分かりやすい図でなければならないことはもちろんである。

 指導するというのは、子どもに考えさせる前に、自分が子どもの理解を想定して、何度も吟味検証した説明の形を示さなければならない。

 今の、わたしの説明を、総じて指導を受けられる子こそ幸いである。竹の会を開設したのが昭和60年10月のことですから、30年以上たってようやく指導の妙に到達する域になったことを実感できるまでになりました。今のわたしの指導を受けられる子こそ幸運であるとわたしは思っている。

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