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最低でも都立戸山/小石川中等に天才集結/体験授業って何?/竹の会にバカは要らない

2017.06.03

 おはようございます。初夏の香り漂う、快適な朝です。

 さて、まず、今日は、漢検実施の日です。全級14時から15時で実施いたします。13時には教室を開放いたしております。

 ◎警告 渋谷Bの心ない一部の子たちへ

  先日は、エレベーターの停止ボタンを押し続けて、1Fで待っていた住人の方にかなり叱られた子たちがいましたが、塾が終わってから建物を出るまでの間に騒ぐ子たちがいまして、頭を悩ませております。エレベーターを待ちきれずに階段を一気に大きな足音を立てて、声を出しながら、駆け下りる子たちを昨日は目撃しました。夜8時です。静かに周りに気を遣うことができないのでしょうか。竹の会の入会に際して、建物内で大声を出す、走るなどのことは絶対にしないように、と予め注意していますが、悪気もなく無邪気に騒ぐ子たちに正直どうしたものかと、悩んでおります。元代々木教室では、こうした子たちによって随分と苦しめられ、苦情の対応も限界に達し、塾そのものを続けられなくなりました。渋谷教室では、心ない、こうした子たちのために、塾に支障をきたすことだけは避けなければなりません。注意は1回だけです。次は退塾してもらいます。

 ◎体験授業の不可解

 元代々木教室の時代はよく「授業を体験したいのですが」とか、いきなり約束もしていないのに、「体験です」と言って入ってきた子がいましたが、渋谷教室では、そういう申出は一切断っております。大手が新中1とかを相手によく春期無料体験講座なんかやるものだから、塾ならどこでも体験できると考えている人がいる。そもそも体験って何ですか。これは「気に入ったら入ってやる」的態度ですよね。塾の側ももちろんいつでも入りたい人は入ってください、という待ち姿勢ですから、体験という言葉が自然に出てくる。是非体験してみてください、というわけです。この体験が入会に結びつく蓋然性が高いので大手も無料ということで釣るわけです。最初だから一番の講師にカラフルな教材なんかを餌に体験という名の勧誘をやるわけです。

 わたしは体験という、塾がわたしに合うかどうか、というよりわたしに合わせてくれているかどうか、試してみる、という響きが気に入らない。気に入ったら入ってやる、なんとも尊大な態度ではないですか。大手のような商売本位の塾では、体験は取りこみ手段であるけれど、とにかくいつでもどんなバカでも受け入れますよ、というわけで、大手の体験で取り込まれるバカは救いようがない。

 大手というのは、生徒がおしゃべりしても強く注意はしない。本気で叱って子どもたちが塾に来なくなるのを懼れているからである。講師も人当たりのいい学生ばかりである。大手の教室は和気あいあいとして雰囲気がいいなどと言う人がいるけれど、これでは、こどもはやりたい放題である。大声出してもわいわい騒いでもなにをやっても叱られないのだから、これはバカにはもってこいの培養空間ではないか。まじめにやろうとする子はバカな子の騒ぎにいいように邪魔されて巻き込まれていい迷惑であるが、大手の塾の講師はこういうバカの機嫌をとり、まじめな子たちには我慢させるのである。だいたいできる子もバカも一緒くたにして同じテキストを使い、授業していくなどありえないのであるが、それはともかくとして、世の中の親たちが信頼して止まない大手なのだから、勝手にすればいいことでわたしの知ったことではない。

 実は聞いてみると竹の会には大手から来たという子が意外に多い。竹の会にやってくるような人でも一度ならず大手を経験しているほどに大手の魅力は親たちには強烈なものがあるようである。小4から来た子でもそういう子がいる、小3から大手に入れたというのが凄いけれど、小4で竹の会に来たのならまだ救われるが、小4まで大手にいて小5になって竹の会にきたという子になるとどうしても時間を無駄にした期間が長いので後々息切れを起こす原因となることが多い。大手にいたのにそのことが何も糧になっていないというのが凄い。竹の会に来て全くの振り出しからスタートなのである。いったい大手で1年以上も何をしていたの、と突っ込みたくなる。

 大手塾というのは、商売本位なのである。子どもをなんとかしよう、育てていこう、という意思があれば、基本的なこともなにもできていない子たちを放っておくなどのことはしないはずである。ただテキストを目次にしたがって進めていくだけの授業で子どもの問題性にはすべて蓋をしたままやり過ごす。これは不作為である。不作為というのは、怠慢であり、それを親が何も言わないで認める、粛々として大手のカネ搾取講座にしたがうというのはいったいどうしたことか。大手信仰の親たちにはなんでもないことなのか。こうして大手はバカを放牧し、バカ親がカネを貢ぐ、構造がなんの不思議もなく溶けこみ、ますます大手は繁盛することになる。今では家の近くにたいていの大手教室があり、親たちは安心してここに放牧することになる。近いから安心・便利というわけである。しかも大手だから安心?して預けられるということになる。

 バカを放牧する。講師と和気あいあい、いい雰囲気の教室というけれど、こいつらに「子ども伸ばす」気はない、と感じた。悪ガキの機嫌をとって、親に恵比寿顔で阿る、そんなの真っ平ご免である。悪貨は良貨を駆逐する、バカは賢者を駆逐する。賢者を生かすにはバカは刈り取るしかないのだ。自然淘汰を待つほどわたしには時間がない。もう歳なので自分のやりたいようにやる、親や子に阿って賢者を犠牲にして何の塾だ、竹の会にはバカは要らない。

 世の中には、①言われたことができない子、②言われたことしかできない子、そして③言われたことから知恵をはたらかせて言われないことまでできる子、の3種がいる。竹の会には①はいらない。入会試験で排除するのはまずこういう子たちだ。②は、不合格、あるいは仮合格という子たちに対応するかもしれない。言われたことしかできない子というのは、結局「伸びない」蓋然性が高い。だから試験的指導なのである。やってみなければわからないこともある。入会試験0点でも持ち前の勤勉さでわたしの指導についてこれるようになる子も時にはいるからこういう分類がすべてではない。③のタイプでも、性格的に斑がありダメということもある。地味な努力を嫌う子はいくら頭がよくても見込みがない。この3分類は知能の分類であり、①言われたことを実行しない子、②言われたことしか実行しない子、③言われたことから類推のできることまで実行する子、という3分類のほうが比重は重い。

 竹の会にはバカはいらない。わたしにはもう残された時間が残り少ない。バカを相手に時間を無駄にしている余裕はない。無駄も余裕ももうずっと昔に使い切った、指導を極めた今わたしがやれること、やりたいのは、わたしの指導技術を100%生かすことのできる子たちの指導だけである。そういう子たちだけいればいい。

 仮合格は試験的指導であるから、もはや「伸びる見通しなし」と判断したところで、指導は終わる、当然である。もちろん仮合格でも「見通しあり」ということもある。いや「合格」したからといってそのまま指導継続とは限らない。ダメならダメという。指導の対象となる子どもは日々を生きている生身の人間であるから、突然勉強が嫌だ、しないということもある。わたしはわたしの残された塾人生を意味あるものとして終えたい、ただそれだけです。

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