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最低でも都立戸山/桜修館、九段をめざす/指導の天才と言われるために

2016.08.02

 おはようございます。夏日です。竹の会の8月指導は今のところ静かに熱く進んでいると思います。みなさんのご家庭での勉強はいかがでしょうか。7時間という勉強を実行している子はいるのでしょうか。ふと、不安になります。勉強するというのは、自分を律することです。いろいろなことをがまんすることです。そして勉強に時間を差し向ける、それから勉強に集中すること、これがまた難しい。さまざまな雑念が次から次に湧き起こってくることでしょう。それでも気力をふりしぼって勉強に気を注ぐ。これには自分を律する、強い心が求められます。それは勉強というものに限りない信頼、全体の信頼をおくところからくるエネルギーなしには考えられません。桜修館へ行きたい、九段へ入りたい、小石川の生徒になりたい、日比谷生、戸山生になりたい、そういう強い思いが、勉強というものに対する気持ちを強く支えるはずです。

 7時間もの勉強を実現するのは、すでにその子の天才です。これは必ずしも知能が高いからできるとも言いきれない。確かに、知能が高ければその蓋然性は高いとは言える。しかし、知能の高い子というのは、興味が持てなければやらない、好き嫌いを持ち込む、力を加減する、先が読める(と勘違いしている)ので結果が見えるとやっても意味がないとやらない、つまりやる前からあきらめる、ほどほどにやる、これは、このくらいで十分と手を弛める、力加減して、省力化することをいいます。根底には勉強というものに対する淡泊さ、どうものめりこめないという躊躇するものを感じます。このように知能が高くても勉強に距離を置こうとする性向のある子というのは受験には向かいない、失敗する蓋然性が高いと言えます。

 勉強で成功する子というのは、単純で深く考えない、そういう子なのではないかと思います。勉強するかどうかであれこれ悩む、勉強すればしたで、そのやりかたでまたあれこれと悩みくよくよする、こういう子は受からない。勉強で悩まなければいけないのは、勉強の中身でしょ。方法論で悩むのは、まだ入り口で、最初から最後まで入り口にいて、あれこれやることで、全く意味のないことです。つまり、成功する人というのは、失敗する人と悩むポイントが違う。成功する人というのは、勉強する、実行するということに迷いがない人です。机について、あれこれ雑念がわくのは、まだ勉強する、実行するということに迷いがある、覚悟がない、こういうものだ、そういうものだという腹が据わっていない、ということです。

 竹の会の指導を体験してどうでしょうか。他塾、大手にしても、巷の個人塾にしても、そういうところで既製の授業を経験してきた子たちには、竹の会の指導というものが、どのようなものに見えたであろうか。竹の会の指導には授業というものはない、お仕着せのテキストなどというものもない、集団で授業を聞いて板書をノートに取り、復習するということもない。もちろん予習というものもない。テキストがないのだから。大手の出す宿題なるものが、どういうものなのか知らないが、いずれにしても大量であるらしい。竹の会で大手の宿題にあたるのは、課題と言っているものであろうか。しかし、おそらく質も量も、システムも全く異なる。竹の会の課題は提出しなければ次がない、という暗黙の約束がある。これも強い継続の意思、勉強しなければ取り残されるという暗黙の強制を内に秘めたものといえる。

 いずれにしても大手を経験して竹の会にどうにかたどり着いた子たちというのは、竹の会の指導を体験して、これまで大手に通った1年なり、2年なり、の無駄を切実に感じることになる。そしてなによりももっと早くから竹の会にきていればと、まずこれには例外というものがないのですが、みな一様に後悔する。それほどに竹の会の指導というものが彼らに与えるインパクトは大きいものがある。というか、早くから竹の会にいた子たちのはるか彼方にいることに衝撃を受けるのが常である。なぜ大手で1年、2年と過ごしてきたはずの子たちが、竹の会の年下の子たちの足下にも及ばないのか、これが大手なり、巷塾なりの実体というものを如実に物語っている。行っても行かなくても変わらない、大手に入って1年経っても入る前と何も変わっていない、そのことに気づかないのは、本人ばかりか、親のほうである。本人はたいてい「割合はできる」、「計算も大丈夫」と思っている。そう、思っているだけで、親は、このバカ息子、バカ娘の言葉を「真に受ける」ほどにまたバカなのである。

 子どもというのは、指導のしかたで伸びるものもはびこる雑草にしてしまう。自分の子がもし希有な天才なら仮に大手に行ったとしても持ち前の天分でなんとか大手の愚にのみ込まれずに乗り切れるかもしれない。しかし、たいていの並才はそうはいかない。確実にバカ街道を突っ走ることになる。

 子どもには適宜適切な指導の手順というものがある。ここで何を訓練し身につけさせるか、順を追って手順よく導いていかなければならない。具体的には、たとえば、小4ならまず小数の概念を理解させるような手順を打つ。小3だとこの小数の概念を受け入れないこともある。その場合は、思考なしのただひたすら計算、単純な計算を課して、とにかく数に慣れされることではないかと思料する。小数の概念について考えるほどの能力が見てとれればそこから始める。いずれにしてもまず小数の計算からである。それから分数という概念に取り組む。ここは一気呵成に仕上げてそれこそ一気に難度の高い分数の四則演算に取り組ませる。ここで自信をつけさせてから、逆算をマスターさせる。逆算は時間のかかる子が多いけれど、今ではレジュメが整備されてきて比較的早くマスターする子も増えてきた。そしていよいよ割合を導入していく。この導入には、特別に念入りにレジュメを作ってきた。いや今でも時間さえあればもっともっといい方法はないか、試行錯誤しているところである。だからいつも新作が試されるのもこの段階である。ここからいよいよ指導の手順はさらに事細かに展開されることになる。いちいち理解を確かめながら、子どもたちの一瞬の表情の変化を微妙に読み取り、真の理解をめざしてそれこそミリ単位の指導が図られる。

 竹の会の指導というのは実際に受けてみなければわかるまい。今は指導のようすを見学してもらうこともある。そこで指導を受ける子どもたち、指導に追われるわたしの姿を見て、親御さんがどう感じるのかはまったく見当もつかないけれど、なに子どもを指導するというのは、それこそなりふり構わずの必死の、それこそ真剣勝負なのですから、かまわない、なんと思われてもかまわない。

 わたしは指導の天才でありたいと願ってきた。わたしの指導を受ける子たちがまるで絵に描いたような急上昇のカーブを描いて能力を伸ばしていく、それが竹の会では現実である、子どもたちはうれしそうに通知表やテストをわたしに見せに来る、子どもたちは竹の会で成績が確実に上がっていることを喜び、竹の会で「わかるようになっていく」自分をうれしく思っている、そう見える、そう見えるほどに、わたしは指導の天才をめざさなければならない、といつもいつも思ってきた。

 

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