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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/桜修館、小石川への道/親と塾が子どもをスポイルする構造

2016.06.22

 おはようございます。西日本に停滞する梅雨前線の影響でこのところ関東の天気も不安定です。まだ本格的な雨というものはないように思いますが、梅雨前線が関東にまで張り出してくるということはあるのでしょうか。6月も一気に終わりそうです。この分だと夏もあっという間に終わってしまいそうで、誠に時間というものはいつも気にしていないとたちまち消えてしまいそうなほどに儚いものです。いつも思うのは、あの暑い夏、いくらでも時間がありそうなのに、聞いてみると、「3時間ちょっと」しか勉強していないのだ、という、いつ聞いても「4時間弱」などと言う。いったいその余の時間は何をしているのでしょうか。別にほかにすべきこともないのに勉強を切り上げる、この省力化というのは、どういう心性からなのでしょうか。古来、こういう人が成功した試しはなく、人間というのは、夢中にがんばってかつがつなんとかなるかならないかではないかと思うのですが、こういう子たちの示す余裕というのはいったい何を根拠にしたものなのでしょうか。怠け者ほど物事を平気に見切ったつもりになっている。甘い判断で力加減して平気である。己の未熟さに思い到らないほどにバカである。

 さて、本日は渋谷Aの指導日となっております。天気はぐずついておりますが、みなさんが雨にも負けず元気にやってくることを願っております。

 渋谷Bでは入会試験に合格できなかった子たちの指導に取り組んでいますが、少なくとも6か月は、責任を果たさなければと覚悟しております。例によって特有の勉強に対する不活発なオーラというものを感じとっておりますが、停滞するのが普通の子たちなのですから、できるという実感をどうもたせるかです。竹の会では通常、計算がこなせるようになったら、割合の導入のためのレジュメを投入してきましたが、今年は、Aにも小4がいまして、その子たちの指導を含めて、割合をもう一度じっくりと考えさせるようなレジュメを制作したいと考えるようになりました。

 わたしの指導というのは、指導の実践の中から、このようなレジュメが必要とか、あのようなレジュメが必要とか、湧き起こり、それでいろいろ悩んで新しい試作品を作っては試すということを繰り返すことがほとんどです。入会試験Ⅰのような知能試験で「0」点という子たちが、世の中には少なからずいる、ということを再認識させられました。実はそういう子たちこそ多数派なのではないか。だとしたらそういう子の親たちは、自分の子をそういう状況から救ってくれる塾というものを永久に見つけることはできないのではないか。そういう子たちが、たいていは、おそらく親も感づいているのでしょうが、だからこそ近所の塾に入れるなどの行動をとるのでしょうが、地元の塾に通ってどうにかなるのか、ということですが、まずバカはバカのままに時が過ぎることになるでしょう。

 こういう子たちの能力の開発ということも考えました。こういう子たちにも指導の方法さえ工夫したら、もしかしたら光明をもたらすことができるかもしれないと考えました。知の発芽ということがあるのか、あるとしたら具体的にどう導けばいいのか。そこで思案して、この夏、Bの子たちに、入会試験Ⅰのような質の問題レジュメを試作して、じっくりと考えさせてみようか、そういうことが思考の訓練になるかもしれないと思うようになりました。そこで夏休みまではまだ間があるのでなんとか取り組むこととした次第です。

 正直に言いまして、世の中には、少数の天才と若干の秀才、それからその他大勢のバカがいる、と考えて間違いない。そういう子たちが、まずめざすのが大手塾ですが、「その他大勢のバカ」は、ピラミッドの底辺を埋める人たちですが、中にはあぶれて、地元の塾に吸収されていくことになるのでしょう。親には自分の子が「できない」という認識はあるのですが、だから大手には入れないという選択もするのですが、とりあえず地元の塾、それは個人塾、もしくは中小塾と思いますが、そういうところに入れる、それで1年、2年と不作為を決め込む、そういうことなのでしょう。

 こういうバカにテキストを与えても自ら読み解いて進めていくことなどできるわけもなく、読んでもわからない子に授業などは無意味であり、だから中には個人指導などという方法を選択する親も出てくるのでしょうが、大手にはこういうピラミッドの底辺層に属する人というのが大量にいるということです。こういう層が大手や地元塾の経営基盤を成り立たせているというのが現実です。

 既存の塾というのは、大変なジレンマの中に立たされている、というのが、ほんとうのところではないかと思います。バカを教えてどうにかなるということはない。しかし、やってくるのはバカばかりです。こういうバカを相手にしなければ塾では食っていけないのです。できないことを「できる」と言うしかないのです。できないのは、少なくともこれまでのやりかたではできないということです。これまでの塾のやりかたは、テキストを仕入れて、そのテキストを使って、カリキュラムを組み、授業をしながら進めていくという方式です。今では、それなりにいいテキストがいくらでも手に入るような仕組みが整っている。大手などは自前のテキストを作り、それを商品として、扱いもする。あの有名な新中学問題集を扱えるには、あの会社から取引相手として認めてもらわなければならない。わたしも昭和63年か、平成1年だったか、よく新中学問題集を買いに、その会社に通っていた。そしたら何か月かして会社の責任的地位にある人から、取引契約をしていただけるということを告げられた。だからだれでも手に入るようなテキストではない。あの会社のテキストは全国の私立中学や公立学校も採用しているほどに評判のテキストなのである。サピックスの小学部で使っているのも、中身はあの会社の新小学問題集と同じだ。わたしはもう塾を長いことやっているので、塾のために教材を開発しているたくさんの会社の中次ぎをしている会社などとも取引があり、たいていの欲しいテキストは手に入るようになった。今、竹の会で使っている計算のテキストもそういうルートから入ってくる。ほかに学研や旺文社などの有名出版社やみくに出版などの過去問の会社とも取引がある。いずれもいいテキストを発行している会社ばかりである。そして世の中の塾がたいていはこのようなルートで手に入れたテキストを使って授業しているのだろうと思う。四谷大塚のようテキストを公開しているところもある。

 問題は、こういういいテキストを使ったとして子どもたちができるようになるのか、ということである。問題はピラミッドの底辺層を形成する子たちである。読んでも「わからない」という子たちにはテキストなどいくらよくても猫に小判、馬の耳に念仏である。「わかりやすく説明する」、「わかるまで教える」という塾は、飽くまでもこのテキスト文化を前提としている。

 進学塾のテキストが、いいテキストなのであろうことは否定しない。かつて河合塾のグリーンコースに通っていた中2を指導したことがある。その生徒が持ち込んできたのは、河合塾のそのコースで使っているテキストだった。びっしりと入試の過去問が項目別に分類されて集められていた。もしこれをやりきれば「すごい」と正直思った。しかし、現実には、わたしの教えた子はかなり頭のいい子であったにもかかわらず、そのほとんどの問題が解けていない、理解できていなかった。秀才にしても手に負えない。これをこなしている人がいると聞いた。天才というものが本当にいるのだと思った。進学塾ではかなりの秀才でも潰される。

 みんなが「わかる」テキストを使う大手塾、それは都立中や都立高校を専門にする大手なのであるが、そういう塾のそういうテキストを使って、どうか、どうにかなるのか、ということである。これは、ピラミッドの底辺にレベルを合わせたのである。バカが「わかる」と喜び、親はそれを見て「安心する」というわけである。

 わたしが既存の塾に行ったら、バカはバカのままだというのは、ただの感覚で言っているわけではない。いくらテキストが優秀でもそれを使う子どもたちの能力がそれを理解するに及ばない程度の知能しかなければ、絵に描いた餅でしかない。そして世の中には、実は、そのレベルの子というのが、思った以上に多い、ということである。折角のテキストも役に立たないほどのバカばかりということである。優秀なテキストほどレベルを維持する必要があるから、ますますバカには使えないということになる。授業はそれをカバーするはずのものであるが、多くの学生講師にそのノウハウも能力もなく、塾長と言われる人たちも手はないはずである。

 究極のバカ指導法は、一対一の対面で、刻々と変化する状況を追いながら、「わかる」段階を探り、とにかく細やかでもいい「わかる」体験を積み重ねていき、知の発育を瞬間見逃さず、間髪を入れずに指導のタイミングを逃さない、とにかく疲れる指導ではある。こういう指導というのが、巷の塾、大手で可能かと言えば、不可能であり、だからわたしは、そういうところに言っても、バカはバカのままである、と言っているのである。

 ◎桜修館、小石川は難しいか。

 桜修館と小石川を同列には論じることはできない。小石川は私立受験のグレーゾーンの連中が大挙集まる、推定75%がそういう受験の子たちの併願となっているところである。

 桜修館は、小石川ほどではないにしても、私立受験生の併願先であることは変わらない。さて、それでである。桜修館を受けるには、どの程度の能力が必要か、である。バカではだめである。竹の会の入会試験Ⅰがひとつの目安になる。あるいは、学校の通知表で、「よくできる」が、8割以上ある子が、受検の対象になる、と言ってもいい。

 それだけで受かるのか。もちろん訓練が必要である。私立併願の子たちは、小4から、大手進学塾で週4回は通いながら、受験のための準備を重ねてきた子たちであるということを忘れてはならない。小6になって周りがみんな受験、受検と騒ぐので、はっと気がつき、学校見学なんかして、「桜修館に行きたい」では、だめである。それまで勉強らしい勉強なんかまじめにしてもこなかったくせに、図々しいにもほどがある。「よくできる」が、7、8割ある子でも、習い事、稽古事、スポーツに時間を取られすぎる子は、受かることはほとんどない。いくら自分の思いが強くても、合否は別である。そういう子というか、親子というのは、結局は、勉強というものを蔑ろにしているにほかならない。勉強というか、受検というのは、いくらやっても時間が足りない、ほんとうに真剣にやった人ほどそのことを実感していると思う。別に何をやっているというのでもないのに、勉強時間を省力化するという子にしても、勉強というものを舐めているとしか思えない。

 ◎最低でも都立戸山

 竹の会は、近年、高校受験で失敗したことは「ない」。それはわたしが高校受験の怖さをよく知っている、知り抜いているからである。受験というのは、早期に「手を打つ」ことである。そして指導の水準を下げないことが肝要である。昨今都立高校専門の大手において都立受験に失敗するという生徒が続出しているやに聞いたが、早くに手を打つことでは、大手ほど敏感なのかなと思ったけれど、実は、そうではなかった。都立ということで、だれにもわかる、やさしい授業を実践し、テキストを使っていたのなら、しかたない。進学塾大手にしても、都立高校は苦手と見ていい。かつて河合塾で都立対策をとっていた多くの生徒の失敗を見てきた。最近では、平成27年戸山合格者の学校では、早稲アカなどの有名進学塾に通う生徒たちが、結局戸山回避をしたということを耳にした。難関私立には強いと思うが、都立は不向きなのである。

 普段の指導のレベルを下げれば、つまり、そのへんの巷塾のように学校の定期テスト対策や授業の補習などを目玉にやっていれば、都立失敗は当然の成り行きである。目先の成績ばかりを追い、高校受験という長期的、実は短期的なのであるが、そういう視野に立たない、その場しのぎの塾になんか身を託するから、志望の都立に落ちることになるのだ。バカ生徒、バカ親がここにもいる。

 わたしは、中学生指導の名人と思っている。高校入試のプロと思っている。それはわたしが巷の塾のように目先のことを考えて指導なんかしない、常に、高校受験に受かる、ということを念頭に置いた指導をしているからである。水準を下げてほしいのなら、そういう塾に行けばいい。わたしは、西や戸山をめざす生徒を確実に送り届けるという強い意志をもって指導に臨んでいるけれど、生徒や親の意思がそういうところにないとするならば、それは竹の会の対象とするべき人たちではない。わたしは、いつもそういう覚悟で臨んでいる。巷の塾のように、無定見に生徒を引き留めるために、親の意向に従順になり、阿り、生徒に媚びる、そういうことはできない、人間である。生徒、親が、「西に行きたい」と言うのであれば、そのために全力を尽くして指導する、それだけであり、そうでなければ、最低でも戸山に受かることなどありえない。

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