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最低でも都立戸山/竹の会入会試験Ⅰのこと/勉強取扱説明書が必要なバカ親

2016.06.15

 おはようございます。本日は渋谷Aの指導日です。雨が降り出しました。少し肌寒いかもしれませんね。凌ぎやすい日かとは思います。

    都立中あるいは九段をめざして多くの小学生が大手塾に通い、合格を夢見ていることでしょう。竹の会などは受検生といっても、3人前後の塾ですから、大手から見れば「ない」に等しい。大手公立中高一貫校専門の塾では、生徒数も2000人とか、2500人とか、すごい人数です。夢見る小学生も平気で「桜修館へ行きたい」とか、「小石川に行きたい」など言います。志望校で多いのが、圧倒的に、小石川ですね。それから桜修館、そして九段、それから富士というのも意外とあります。志望校を言うのはいいけれど、何か違うのではないですか、という親子も多い。自分の能力というものを全く秤にかけないで、ただ小石川だ、桜修館だ、と言い募り、塾を探すわけです。まあ、たいていは、「公立中高一貫校受検専門」を看板にする大手に吸い込まれていくことにはなります。

 都立中ないしは九段を受けようという人たちというのは、自分の能力はさておいてとにかく「受検したい」という気持ちが先行し、大手塾に行けばなんとかなると漠然と考えている節がある。もちろん親主導というのもあって子どもがそれに従うというのもあるけれど、いずれにしても大手塾に行けばなんとかなると漠然と楽観さえもしている節がある。わたしなどは、さすがにこの子には、桜修館は無理だけど、富士ならなんとかなるかもしれない、という判断が譲れないほどに確信したときなど、そういう忠告をすることはある、都立中ならいいと考えている親子ならこの忠告を受け入れてくれるけれど、桜修館でなければ行く意味がないと拒む親子もいる。これが小石川だと、わたしは、「両国なら」という勧め方はしない。小石川を受けようとする親子には小石川以外の選択肢は全く「ない」からである。今年もし両国を受けていたら、全員受かっていたと思う。しかし、都立中では、高校受験と違って、「合格可能性を見切って他を勧める」という口出しはわたしにはできない。どこを受検するかは親の専権事項であり、わたしが口出しできることではない。先の桜修館や小石川を受けるにしても、どうみても無理とわかっているときに、富士なら可能性がある、ということで勧めることはある。合格の可能性があるならそのまま受けるのが、少なくとも都立中ではあたりまえの判断かと思う。

 話しは変わるけれど、竹の会の入会試験は、そもそも都立中に合格する可能性があるのか、ということを見事に言い当てている、秀逸の完成度と自負してい。定番の「入会試験Ⅰ」は、小4の10月から1月が最適の使用時期と実証されている。つまり、小5や小6では、正確なところはわからない。不合格なら問題にならないが、合格しても可能性なしの子もふくまれている。

 竹の会の入会試験を「試し」に受けに来た、という親子が、わたしの記憶では、過去2例ほどあったやに思う。最初に、大手ありきの母親で、入会の意思もないということが露わで、感じも悪く、以後そういう目的で受検することは断っている。

 小4の1月までに「入会試験Ⅰ」を受検して、A合格をとれること、これがポイントになる。A合格というのは、6問中5問正解をいう。全問正解ならS合格となる。小6になる直前の小5を含めて、小6では、もし合格しても、正確な判断はできない。ちなみに、6問中3問正解を準合格としてるが、今年は、準合格入会者が2名本番で合格を果たしている。

 実は、「入会試験Ⅰ」を実施していた初期の頃は、小3の2月生対象として、より平易な試験を実施していたが、失敗作として破棄した。小3後期から小4早期を想定しての指導開始を考えていることもあり、昨日、試作品となる「入会試験Ⅹ」を製作したばかりである。これまでの指導の実践経験の中から、選んだ問題を選び抜いたつもりだが、小3にはやや難しいのかどうか、正直わからない。これから実際に使ってみて実証データを蓄積していくほかない。

 「入会試験Ⅰ」は、その意味の実証試験を積み重ねてきたものでありかなり信頼性の高い能力判定試験として完成したと思う。

 実は、思考力チェックの目的で、「入会試験Ⅱ」、「入会試験Ⅲ」というのも製作している。前者は、今年新中1に使い、0点ということで入会を断ったことがある。竹の会の小6に試用したところ、小5の1年間鍛えた子の一人には使えた。先の中学生は大手歴2年ということで断らざるを得なかった。新中1ならこの「入会試験Ⅱ」で合格するほどの子なら、将来進学指導重点校クラスを受けるほどの子に育つ可能性はあるかもしれない。

 竹の会の入会試験の再度の挑戦には実は意味がない。よく落ちても再試験は可能ですか、というとが言われるけれど、竹の会の入会試験は、いわゆる偏差値試験ではない。知能テスト、潜在的な知能の可能性を診る試験だ、ということである。再試験で知能が再発見される蓋然性はない。

 竹の会の入会試験は、小4という最もいい時期に逸材を発見するために開発されたものである。小4の10月、11月でA合格をるほどの子なら逸材と見ていいであろう。後は、本人の勉強姿勢が合否を決めることである。勉強を面倒くさいと少しでも考える子のとる行動は、省力化行動に集約される。そういう子は少なくとも都立には不向きである。

 勉強と向き合う姿勢を言うならば、子よりも親に問題あり、ということになる。本当に自分の子どもの将来を考えて行動しているのか、疑いたくなる。まず、受検・受験しないから塾にはやらない、という選択は、正しい判断か。塾にやるとして右にならへで大手に入れることは正しい判断か。そもそも自分の子はそれほどの天才なのか。将来大学まで視野に入れて考えているのか。大学ならどの程度の大学を考えているのか。習い事、稽古事、スポーツを夢中になってやらせて、あるいは部活に力を入れて、その上で、高校は成り行きで行けるところでいいと考えての態度なのか。大学はこだわらないという態度なのか。

 そもそも習い事をいろいろやらせて、あるいは部活に夢中で、まともな勉強ができるのか。

 勉強というものが、わかっていない。勉強というものは、真剣にやればやるほどいくら時間があっても足りないほどに深淵である。何かをやりながらやれると考えている親の頭がわからない。努力型の秀才を基準にするとそういうことになる。天才が両立させたからといって何の参考にもならない。ましてや凡才が真似をしてどうなるというのか。

 ◎テキスト論

 世の中の大手大好きの親というのは、テキスト信仰というものがあるのであろう。大手というのは、テキストを売りにして、集団授業を細切りにして、商売する。進学塾型の大手だとテキストの編集も偏差値基準であるから、難易は明確である。これが都立中型の大手だと、どうしても適性問題を編集することになる。ここが、ミソである。もともと適性検査というのは、偏差値になじまないものである。客観的な唯一の正解というものがあれば偏差値で序列化できるが、客観的唯一性という、正解がないところでは、難易は曖昧に解消されてしまう。だから1年通っても2年通っても、できるようになっているのかどうか、わからない。算数とか、国語とか、科目基準で掘り起こしていないのであるから当然である。これがまた大手には都合のいいことになる。親が自分の子の状況を正確に把握できないから、都合がいい。簡単な問題ばかりやらせて、子は「できる」と勘違いし、親は「大手を信用する」という根拠のないところで安定している。

 学校は、集団授業をするところであった。だから教科書は必須の道具である。中学受験が、学校のはるか上の雲の上の話なら、学校の教科書で学ぶことは少なくとも受験には役に立たない。この点、区立中学と教科書の関係はどうであろうか。これも受験には対応していない。少なくとも数学と英語については、学校の教科書だけで高校受験に成功することはない。トップ都立、難関私立ははるか上の話である。

 高校と教科書はどうか。高校の教科書では、理科、社会はさらに科目が細分化して専門化する。理科、社会の教科書は充実しており、十分大学受験にも使える。国語も現代文、古文、漢文に分かれて、専門化し、手応えがある。英語も十分使える。数学は定義に優れている。ただ高校ほど参考書というものが必要なところはない。昨今は予備校のおかげで参考書も充実している。

 こうして見てくると、教科書のもつ意味は、小学、中学、高校で違うけれど、中学と高校では一線を画するほどにその落差が大きい。高校で予備校が提供するテキストの意義は、教科書をいかに明解に説明するか、これである。

 しかし、中学では、教科書は簡単過ぎて、そういう視点はなく、難関私立、トップ都立に合格するために必要な学力を身につけるために何が必要か、ということになる。しかし、その視点に立ってみても、トップ都立に関しては、大手のテキストは、無駄がありすぎる。竹の会がトップ都立専門塾として、大手など問題にしないノウハウを確立しえたのには、根拠があったということである。

 小学では、別の視点が大切である。それはいかにして思考力をつけてやるか、実際には、どうしたら割合を立体的に理解させられるか、これである。小学の教科書にはそれは期待できない。それでは大手はどうか。進学塾型大手はもともとの天才、つまりはもともと思考力に秀でた者をのみ、実は対象にして、英才教育を施す、そのためのテキストを用意しているに過ぎない。つまり、最初から、思考育成の目的などない。都立中対策大手塾はどうか。こちらも思考育成など考えてはいない。もともとの天才が、適性問題満載のテキストを天才ゆえに昇華して力をつけていき合格を果たすことを期待したやりかたである。思考育成の視点が欠落しているため、秀才と目される子でも芽が出ないで、潰される。学校の優等生が伸び悩むのは当然で、割合を1回か2回、テキストの一単元として、2ページ前後やって、終わらせたなどということをやっていれば、学校の優等生にしても潰れておかしくはない。

 

 

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