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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/都立中高一貫校の雌雄は小4早期で決まる/小石川と他で倍率の質が異なる/本日大雪予報中

2018.01.22

 おはようございます。久しぶりの更新です。1月も22日となりまして、本番まで10日余りとなりました。1月に受けた模試の結果も出ましたが、どうもよくない。これが「今回だけ」のことでほんとうはこんな力じゃないと言いきれるのか、力を出し切れないのは本番だって同じ、いやもっと厳しいのではないか。模試が悪くて落ちたというのはごく一般的にあることです。この逆に、模試がよかったのに「落ちた」というのも実はそれなりにありました。ただ模試のよかった子のほうがやはり受かる傾向にはあるというのが実感です。

 各校の競争倍率が出そろいまして、小6受検生には心穏やかではないでしょう。九段女子の区外は9.75倍で去年よりはやや低い。白鷗女子は7倍強、富士男子4.5倍、桜修館女子は7倍ほどですか。相変わらず女子が男子よりかなり高いのは、これまで女子だと私立受験はしないという層が公立の受検ならということで押し寄せているということでしょうか。家庭の経済に気を遣う女子と自分のことしか気が回らない男の子の差です。家庭思いの女子が公立へ押し寄せる、そんな社会の風潮が見えてきます。だめなら区立で頑張ろう、女子は覚悟ができている子が多い。男子とはかなり、精神の成熟度の差を感じます。

 ◎高倍率に今更ビビるな

 今更高倍率を見て不安になるのはどうしたものか。都立中をめざしたとき、そんなことは百も承知のはずだったでしょ。問題は、2年前(小5の4月入会)ないし1年5か月前(小5の9月入会)にそういう高倍率に打ち克つために、何をなしてきたかです。そういうことがわかっていても、「ゆるい」勉強をしてきたのであれば、期待する自分がおかしいということです。危機感、緊張感に乏しい小5の時期がもたらすものは何か、竹の会でも結局小6のぎりぎりまで課題を出し切ったのは、少なかった。小6の後半になるともうほとんど出してこない子たちがいた。課題を出さなかった結果、理科的問題に対応できない、という当然のなりゆきとなったが、それにしても、レジュメの先送り、積み残しをするほど後半に失速することになるのは目に見えていた。模試で成績がとれない子の大半はレジュメの積み残しが原因である。それと取り組み姿勢が大きくかかわる。「合格はんこ」を積み重ねていく子はたとえレジュメが遅れても模試の結果はいいことが多い。遅くても速くても「合格はんこ」のとれない子というのは、結局伸びきらない、失速する傾向が顕著である。

 高倍率の示唆するもの、そういうものを真摯にとらえて勉強してきたか、である。どうも日本人の悪いクセで、喉元過ぎれば熱さ忘れる、という国民気質が、特に親に顕著のようだ。高倍率を1年前、2年前に認識して、そういう高倍率に打ち克つために、何をしなければならないのか、そうして何をなしてきたのか、そういうことがわかっていても「ゆるい」勉強でいいと思ってきた根拠、楽観の根拠はいったい何であるのか、そこである。都立中受検とは覚悟である。覚悟の実行ができるか、である。人並みの生活を楽しんで合格もしたいと思っているとしか思えない家庭の行動を見るにつけ、都立中受検とはそういうものではない、という思いでわたしは何も言わないけれどいつも心を痛めながら見てきた。

 高倍率とは、都内の志しある子どもたちが都立中に集中する情勢を示しており、それならばそれでやるべきことをやらなければそういう中で生き残ることなどできないのだという、簡単な理屈を真摯にとらえるべきではないのか。それが高倍率の示唆することなのである。

 この2年はこの高倍率と戦うためにあった。今更高倍率でビビってどうする。倍率を忘れて、楽観してきたからいくらでも先送りできたのであろうが、合格する家庭というのは、常に、この高倍率というものを念頭に行動の基準としているということである。

 その上で言うならば、この高倍率はみかけの高倍率である。バカとアホが群がってできた見せかけの倍率である。だからこれに騙されてビビってもアホらしいだけである。ただ小石川は違う。小石川の倍率は、私立の併願80%というデータがある、だから「できる」ヤツが作った、高倍率である。ここは特にこの3年で実質的にも倍率どおりの難関になってしまった。小石川に受かるにはもって生まれた才能に加えて小4早期からの指導とその子の高いモチベーションに支えられた実行力がなければ突破することはまずできまい。

 高倍率がわかっていて、勉強を先送りし、積み残しを山高く積み上げていくなどということをやっていて、都立中へ行きたい、などというのはなんともおこがましい話しである。

 ◎合格可能性の%とは

 早稲田進学会の最後の模試では名前をのせられなかったのは残念ですが、受検した子のデータを見て、また点数を見て、まあ、それほど落胆することもないのかな、と思う。28年のときは、上位に2人名前をのせたが、結局1名合格に終わった。模試が特別いいからといって本番の合格を必ずしも約束しないことは当然として、模試で上位にいたということが、逆に精神的な油断、慢心から来る驕りをもたらすことの悪影響のほうが恐いともいえる。失敗は油断からくる。驕りから来る。直前の模試が悪かったので「がんばった」というほうがずっといい結果をもたらす気がする。ただものには限度があり、模試が悪すぎればそれはそれで受かる望みもなくなるとは言える、これも真理である。模試がいつも悪い子が受かった例は少なくともわたしの記憶にはない。というか、模試以上に普段の指導で、「合格はんこ」を積み重ねているのかが、やはり合否を正確に予測するように思う。時間をかけても「合格はんこ」がとれない、その事実だけで合否の帰趨は実は明らかであった。

 合格可能性40%の意味は、言いかえた方がわかりやすい。不合格の可能性は60%だというように。これはもう限りなく不合格感が漂う数値であろう。40%というのは、この点数の位置だと10人中4人が受かる、そういう意味で使われている。しかし、現実は、10人中1人受かるかどうか、ではないか。これと倍率が10人中1人、つまり10倍というのとは、意味が違う。こちらは、10人中1番をとらなければ受からない、ということである。ところが合格可能性40%の子が10人中の1番をとる可能性は限りなく低い。だからもし10倍なら合格はさらに遠のく。50%で5倍ならどうか。2人に1人受かる可能性があり、倍率5倍なら、5人中の1番なら受かることになる。つまり、2人に1人は5人中の1番をとる可能性があるということであるが、こちらのほうが実現性が高い、というか現実性のある数値である気がする。事実竹の会でも50%の可能性で合格した例が複数ある。

 してみると、合格可能性70%というのは、10人中、この点数だと、7人は受かる、というのであり、倍率10倍なら、10人のうち7人が、100人中の10番内にいる、という予測をしていることになる。なんと現実性のある数値であることか。

 模試というのは、飽くまで模試であり、成績のよかったものは、決して緊張感を解かず内心を戒めて事に及ばねばならないし、成績が今ひとつ届かなかった者は、そのことが緊張感をもたらすプラスになるととらえ、さらに気を引き締めて精神を集中させることに気を集めてほしい。

 ◎合格のおまじない

 おまじないというのは、不思議である。なぜか心につぶやくだけで心が落ち着いてくる、気が治まる、気が散らない、集まる、これは不思議である。26年に桜修館に合格した女子は、難しい問題が出てくると、「きっと竹の会の神さまが助けてくれる」と唱えたと述懐しています。おまじないというのは、徹底して、無意味なものでなければならない。意味があってはおまじないにならない。無意味を信じるのがおまじないである。ところが、現代人は合理的なものにしか価値を認めないから、おまじないなんかばかにする。ただ芸能人やアスリートは合理性の欠片もないオカルトなことばかりで行動しているようでこちらはただのバカにしか見えない。人並み以上の努力をした人にこそ無意味なおまじないが気の安定をもたらすと言っているのである。学問は合理的なものであり、おまじないばかりにこだわって勉強しない人間の考えるおまじないとは違う。現代人は、合理性を標榜していると言いながら、言葉というものに騙されやすい。言葉のロジックでいくらでも愚かな行動に走るのが現代人なのである。無意味なものを意味を擬製して信頼するのが、現代人の言うところの合理性の正体ではないか。多くの親が相変わらず、大手塾は「信頼できる」と考えて行動しているのを見ていると、単に「大きいものは信頼できる」と思い込んでいるだけで、それが合理的なのだという根拠はどこにもない。「大銀行だから安心できる」というのは、擬制である。その銀行もこのマイナス金利でいよいよ危ないというのが大方の予想であり、となると今度はいかなる擬制が用意されるのか、見物である。とかく現代人は擬制が好きである。大相撲の貴乃花部屋の問題でも、「こうあるべきだ」という擬制を根拠に協会側に立ったコメントをするバカが多かったけれど、擬制というのは、実体のない架空の価値である。そんなのを根拠に批判されるのは真っ平ご免でしょ。そのくせ現代人はなぜか、おまじないをバカにした人間も平気で神社でパンパンとやるのだから、お前の合理性はどこに行ったのか、と聞いてみたい。

 ◎試験の極意は諦めにあり

 さてこれから本番に臨むみなさんに、真の敵は己の中にありということを言っておきたいと思います。あきらめたときに真の力が出てくるものです。わたしがかつて30000人が受験していた司法試験の短答式試験を受けたとき、本番の1か月前から1か月高熱で寝たきりのまま過ごし、試験当日に熱がやっと下がって受けたことがありました。大学を出て1年目の話しです。本番ではなにも食べていないためにふらつきながら受けました。このときわたしは思ったのです。「自分はこの1か月何も勉強してこなかった。だからできないことはわかっている。それなら一問一問考えながら確実に解ける問題だけ解いていこう」と。事実90問中やり残しが10問ほどありました。憲法30問、民法30問、刑法30問でした。それで1か月後の発表を待つまでもなく落ちたことを確信していましたから、来年に向けて勉強を始めたのです。ところが法務省から合格通知のはがきが来た。母が大声で騒いでいたのを思いだします。試験というのはこういうものです。覚悟を決めて今ある力だけは淡々と出し切ってこい。

 それからもうひとつアドバイス。潔さが正しい判断を引き出すことになる。これは是非知っておいたほうがいい。

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